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僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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08.18.13:06

本能寺の変の真実④ -真犯人!?天海の正体-

天正10年(1582年)6月2日(新暦6月21日)、京・本能寺では実際は一体何が起こっていたのだろうか? まず、信長は”中国攻め”を行っていた秀吉から”援軍要請”を受け、”茶会”の予定があった京・本能寺で宿泊し、その後に中国地方へ向かう予定でした。しかし、これは宗久ら”商人/茶人”が仕掛けた”罠”ではないでしょうか。そして、”協力者”秀吉が信長をおびき寄せるために”援軍要請”をし、更には信長と光秀を引き離すために光秀を自軍の”部将”とするように信長に懇願しています。当然、本来”格下”であるはずの秀吉の”部将”など光秀にはもっての外の話。しかし、これに反論した光秀を信長は叱責し、「近江・坂本、丹波・亀山から出雲・石見へ領地を移封する。」という無理難題を押し付け、光秀を無理矢理”中国討伐”へ向かわせますが、この”領地移封”の話も”秀吉の時代”更には”江戸時代”に書かれた書物の中に書かれていたのであり、実際信長がこういった命令を下していたのかは不明のようです。そして、光秀は居城である丹波・亀山城を出て、進路を突如京へ向け、「敵は本能寺にあり!」と家臣に訴え、京・本能寺に向かう事になりますが、これは本当に信長を討つためだったのだろうか? いや、むしろ信長を救うために本能寺へ向かった可能性もあるのではないでしょうか? 光秀も、”謀反”を唆されていただけに秀吉による”援軍要請”が信長をおびき寄せるための”罠”であることに気付いたのでしょう。しかし、これこそ秀吉の仕掛けた罠だったのでしょう。”本能寺の変”の”実行犯”を光秀に仕立て上げるために!

では、実際に本能寺で信長を襲ったのは誰だったのだろうか? おそらく、井上慶雪氏が著書「本能寺の変・秀吉の陰謀」に書いているように秀吉の妻・おねの親族である杉原家次率いる軍だったのでしょう(他の”光秀冤罪説”を唱える研究者の説では、黒田官兵衛、細川藤孝、蜂須賀小六らの軍も参加していた、という説がある)。となると、信長を討ったのは”秀吉軍”という事になるのだろうか? もし、そこに光秀が大軍を率いて現れたとしたら、”秀吉軍”による信長襲撃は阻止できたでしょう。しかし、本能寺には突如火がかけられ、そして信長をはじめ側近らは自刃。されど、肝心な”遺体”が発見されていないんです。それによって、”地下道”から密に逃げたのではないか?といった説もあるようです。いや、”何者か”が信長を連れ出し、”別の場所”で殺した、という説もあります。そして、”サイキックエンターティナー”にして”漫画家”の飛鳥昭雄氏もかつて著書の中で「信長は”秦氏”によって薩摩に連れ出され”処刑”された。」みたいなことを書いていましたが、更に、最近のある著書では「信長は”陰陽師”天海に殺された。」と書かれていました。飛鳥氏はあくまでも”陰陽師・天海”と書いており”明智光秀”とは書いていないんです。という事は、やはり天海と光秀は”別人”であり、信長を殺したのは光秀ではなく天海、という事になるのではないでしょうか。それでは、何故後の天海にまつわる史跡には光秀とのかかわりが深いのだろうか? それは、ずばり光秀が天海の代わりに秀吉によって討たれてしまったからに他ならないからでしょうか。

天海は、本能寺周辺にて”光秀軍”と”秀吉軍”が戦っている最中、突如本堂に火を放ち、そして、信長を担ぎ上げ、”地下道”を通って本能寺を脱出。その後は、おそらく堺で家康を接待していた今井宗久、津田宗及らを通じて密に堺から海路を通って薩摩へ向かい、薩摩で”秦氏系”の戦国大名・島津義久の立会いの下に信長を”処刑”した、という事なのではないでしょうか。その間、明智光秀は毛利と”和睦”し、中国地方から”猛スピード”で京付近へ戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉と山崎で戦い、敗北、逃げる途中で京の小栗栖という所で”落ち武者狩り”に遭い殺害されます。そして、秀吉が”謀反人・明智光秀”を”敵討ち”した功績によってやがて”関白”、更には”太政大臣”となり、名実ともに”天下人”となります。しかし、このことがその後の天海を一生後悔させたのは言うまでもないでしょう。光秀が自分の代わりに殺されたばかりか、”謀反人”という汚名まで着せられたわけですからね。天海は、家康の”参謀”を務める傍ら、生涯光秀を弔い続けなければならなかったのではないでしょうか。では、一体天海とは何者だったのだろうか?

天海という人物は、”記録”では東北地方の豪族・蘆名氏の出自で陸奥出身とされていますが定かではなく、前半生がほぼ不明に近いのは事実。それ故”天海=明智光秀説”が今日では”有力説”にまでなってしまったのでしょう。しかし、もし本当に天海が光秀なのだとすれば、1527年生まれの光秀は、1643年に”116歳”で死んだことになります。でも、いくらなんでも、”最先端医療”の発達した平成25年(2013年)現在ですら”116歳”という高齢は珍しいのに、”戦国時代(室町時代後期~安土桃山時代)”にこの年齢まで生きるのはほぼ不可能と考えていいでしょう。それによって、光秀の”娘婿”にあたる明智秀満(左馬之助、光春とも)という説も出てきますが、彼もまた1536年生まれで1643年時点では”107歳”となり、こちらも無理があるばかりか、両者ともそもそも家康とそこまで関わりが深いとは思えないんです。もし彼らが天海なのであれば、もっと早くから家康と関わっていなければおかしいはずですからね。いずれにしても、天海はかなり早い段階から家康と関係していたと考えた方が妥当なんです。では、天海は果たして何者なのか?

飛鳥昭雄氏は、ある著書では「天海は、信長が伊賀、甲賀、雑賀、等の”忍者の拠点”を襲った仕返しとして信長を殺した。」といったことを書いていましたが、となれば天海は”忍者”だったのだろうか? 家康配下の”忍者”として有名なのが服部半蔵正成。半蔵は、”本能寺の変”の後、家康を連れて家康の人生最大の”苦難”とされた”伊賀越え”の道案内をしています。そうしたことを考えると、”天海=服部半蔵”という可能性も出てくると思います。服部氏は”機織り”が転じた名前で、”秦氏”の一族といわれています。生まれ年も家康と同じ1542年で、まだ光秀、秀満に比べれば可能性はあると思います。1597年に死去した、とされていますが、その時点で本格的に”天海”という僧になっていたとすれば、その”死”を”フェイク”と捉えることもできるでしょう。しかし、そうだとすると、天海に関わる記録には”伊賀忍者”と関連する記録が全くと言っていいほどないんですよ。とすれば、天海は”歴史上人物”と”同一人物”とは考えない方が良さそうです。

おそらく、単純に考えれば、天海は家康の配下にいた無名の”陰陽師”だったと考えた方が妥当なのだと思いました。”戦国大名”の多くは戦場には必ず”陰陽師”を連れて行っていたようで、これは”長篠の戦”の屏風にも描かれています。逆に言えば、信長を殺した”真犯人”の可能性のある天海が、当時”無名の陰陽師”だったとしたら、秀吉が”敵討ち”をした所で到底”天下人”にはなれません。されど、”将軍家”更には”摂関家”ともつながりがあり、”織田家臣”の中で事実上”ナンバー1”と言っても過言ではない明智光秀であれば、”敵討ち”をすれば”天下”を取れる、と秀吉は考えたのでしょう。そして、光秀は、秀吉の”天下取り”のために”無実の罪”を着せられ殺されました。そして、”真犯人”天海はこのことを一生悔やみ続け、生涯を家康と光秀に捧げた、という事ではないでしょうか。
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08.11.14:13

本能寺の変の真実③ -光秀の無実と秀吉、家康の正体-

今井宗久、千宗易(利休)、島井宗室らの”商人/茶人”たちは、どのようにして“信長暗殺”を実行に結び付けたのだろうか? まずは、彼らは当時信長の”参謀”的存在にして、文化面でも面識があり、”将軍家”や”摂関家”ともつながりがあった明智光秀を”実行犯”に仕立て上げようとしていたのではないでしょうか。光秀が時折信長と意見がぶつかっていたことを知っていた彼らは、その鬱憤を晴らさせようとしていたのでしょうが、おそらく光秀は思っていたより信長に対しては”忠義”を貫いていたのでしょう。信長にいかなる”仕打ち”を受けようとも、光秀の信長に対する”忠誠心”は揺るがなかったのではないでしょうか。宗久らが業を煮やしていると、とある武将から密書が届いたのでしょう。その武将とは、実は”中国攻め”をしていたはずの羽柴(豊臣)秀吉だったのではないでしょうか。秀吉は、その密書に、「光秀が動かないのであれば、それがしが協力いたしましょう。その代り、その代償として、それがしを”天下人”にしていただきたい。」といったことを書いたのではないでしょうか。しかし、表向きには”恩”のある信長を直接は殺したくなかった為、光秀に罪を着せようと画策したのではないでしょうか?

かくして、宗久、宗易(利休)らは秀吉の協力を得たわけですが、それでも彼らは秀吉をあまり信用していなかったのではないでしょうか。何故なら、秀吉は”通説”によるところの”農民出身者”ではなく、”山の民(山間で狩猟・採集生活を行ったり、行商、木地師、竹細工師、猿楽師、傀儡師等で生計を立てていた漂白民)”である可能性が高く、こうした人々は”忍者”のようなこともしていたようです。そもそも、”忍者”のルーツも実は”秦氏”といわれているのですが、”先住民”の血を濃く引いていると思われる”山の民”は、”秦氏”というよりは彼らの”ライバル”的な一族で、本来は”原天皇家(正確には”邪馬台国王族”)であった物部氏と融合したと思われます。すなわち、秀吉は”物部系”だったのではないでしょうか。そこで、宗久らは彼らと同じ”秦氏”系の”賀茂氏”の血を引くといわれている徳川家康に接近したのではないでしょうか。現に、”本能寺の変”当日、家康を堺に招いて接客していたのが今井宗久と津田宗及だったわけですからね。また、中にはそれでも光秀に”謀反”を起こさせようとしていた人物もいたわけで、有名な愛宕山の”歌会”で光秀に接近し、”謀反”を唆したとされる吉田兼見という”神官”で、「徒然草」の著者である吉田兼好と同じ”秦氏系卜部氏”の一族です。彼は、元々足利将軍家お抱えの神官で15代将軍・足利義昭に仕えていた光秀とは親密な間柄で、信長に”将軍職”を追われた義昭から光秀に”謀反”を起こさせるように指示されていたのではないでしょうか。

そして、”本能寺の変”の数日前、安土城にいた信長の元に秀吉から”中国・毛利攻め”の援軍要請があり、急遽、信長は家康の接待をしていた光秀を秀吉の部将として中国行きを命じ、信長は京の本能寺に立ち寄った後に中国へ向かう予定でした。しかし、”2つ目の居城”である丹波・亀山城で戦支度を整えた光秀は、突如進路を京に向け、そして、天正10年(1582年)6月2日(新暦6月21日)、信長が宿泊していた本能寺を襲撃(本能寺の変)、信長は49年の生涯を閉じました・・・。というのが、”通説”の”本能寺の変”の概要です。しかし、本当に本能寺にいる信長を襲ったのは光秀だったのだろうか? 井上慶雪著「本能寺の変・秀吉の陰謀」では、秀吉が妻・おね(北の政所)の親戚にあたる杉原家次である、としています。しかし、本能寺からは信長の遺体が発見されていません。一説では、本能寺は実は”火薬倉庫”であり、信長が本能寺に放った火が火薬に引火し、本能寺は爆発同然に焼失したため、信長の遺体が完全に消失し、”灰”になった、と。されど、信長は”何者か”に本能寺を連れ出され、”別の場所”で処刑された、という説もあります。”バテレン説”、”薩摩・島津説”、”四国・長宗我部説”等(ちなみに、島津氏と長宗我部氏も”秦氏”だといわれています。) ところが、飛鳥昭雄氏は、著書の中で「信長は伊賀、甲賀等の”忍者の里”や高野山を襲った罰として、”陰陽師”天海に殺された。」と書いています。天海といえば、”正体”は光秀である、とかねてから噂があり、日光東照宮に祀られている天海像の法衣に”桔梗紋”が彫られていたり、東照宮内に明智光秀が祀られていると思われる祠があったり、日光には天海が名づけたといわれる”明智平”という場所があったり、光秀の居城があった近江・坂本には天海が建立した”日吉東照宮”があったりと、天海の周辺には光秀に関わるものが数多く存在するのは事実です。しかし、1527年生まれの光秀が、1643年に死去している天海と”同一人物”とするには少々無理があるのと、光秀は”本能寺の変”の直前に安土城で家康の”接待役”を務めていましたが、それだけで後の家康の”参謀”になるとは思えません。

では、何故こうも天海と光秀には”関連性”が強いのか? そして、飛鳥氏の言うように”本能寺の変”の主犯が天海なのであれば、その正体はいったい誰なのか? 次章で検証したいと思います。

08.04.21:00

本能寺の変の真実② -安土・桃山の茶人の正体-

本能寺の変の直前、本能寺では”茶会”が行われており、信長はその席で多くの”名器”を客人に披露していたようです。この茶会に出席したのは、”関白”近衛前久をはじめとする多くの公卿、それから博多の商人で茶人でもある島井宗室とその弟子である神谷宗湛とのこと。しかし、井上慶雪著「本能寺の変・秀吉の陰謀」には、本来この茶会に招かれていたのは宗室と宗湛の2名で、近衛前久ら公卿は、どうやら茶会の事を聞き付けて後から押しかけてきた、と書かれています。理由は、信長の保有する”銘茶器”見たさのためとか。当時は、”銘茶器”を保有することが”天下”を左右するといわれていました。そして、これらの”茶器”を集めるには多くの茶人との交流が必要不可欠でした。

信長は、天下を治めるために莫大な”資金”を必要としていました。そこで、信長は堺の豪商・今井宗久をはじめとする多くの”商人”から融資を受け、それを”軍資金”にあてることで強大な”権力”を手に入れることができました。しかし、こうした商人たちを手名づけるには、”軍事力”で脅すだけにはいかず、”文化面”でのつながりが必要でした。そのもっとも手っ取り早い方法が”茶道”だったのです。宗久をはじめとする多くの商人は、”茶人”としての顔も持ち、その中には後に秀吉の”茶頭”となる千利休(当時宗易)もいました。当時の他の武将(武田信玄、毛利元就等)は”金山”、ないし”銀山”を重要視していましたが、信長はそれよりも商人からの”融資”を受けることの方が効率が良いことを早いうちから理解していたようですね。また、商人たちも信長程の”猛者”が味方に付けばまさに”鬼に金棒”ですからね。

しかし、信長は次第に慢心になり、周囲の制止振り切ってまでも石山本願寺や高野山等”仏教寺院”を攻撃し、これまで存在しなかった6層7階の”天守(天主)”を要した”安土城”を建造し、その中に何と信長自身を祀る”総見寺”を建立、また、朝廷から賜った”右大臣”の官位をすぐに辞退し、”征夷大将軍”の話も辞退し、そして、時の天皇・正親町帝に対して”譲位”を勧めるなどしたことから「帝(天皇)の座を狙っているのでは?」という噂まで立つようになりました。更に、”極めつけ”は、御所の前で”馬揃えの儀式(一種の軍事パレード)”を行ったことです。これは、すなわち信長が”武力”によって”朝廷”を威嚇したことを意味するのです。こういった経緯から、上記の商人/茶人の心が次第に信長から離れっていったのは間違いないでしょう。そこで、井上氏が著書に記したように、信長を京におびき出し”茶会”をプロデュースした、という事ではないでしょうか。しかし、単なる”商人”ないし”茶人”ごときに信長程の武将を”暗殺”することなど可能なのだろうか? 実は、これらの”商人/茶人”は、単なる”商人/茶人”ではない可能性があるのです。彼らの”正体”は、おそらく”古代殖産豪族”秦氏の末裔ではないでしょうか。

”秦氏”という一族はいかなる一族か?というと、一般的には”渡来系殖産豪族”であるといわれ、朝鮮半島から渡来した一族で、主に”養蚕業”、”機織業”を日本に広めた一族だ、といわれており、そこから数多くの”商人”や”技術者”、更には”文化人”が派生したといわれています。しかし、これはあくまでも秦氏の”表向き”の姿であって、彼らの”真の姿”というのは、”サイキックエンターティナー”にして”漫画家”である飛鳥昭雄氏の著書の中では、秦氏は”イスラエル”から”シルクロード”を通って朝鮮半島で現在の”天皇家”につながる”騎馬民族・扶余族(正体は”北朝イスラエル10支族としている)”と合流し、日本へ渡来した”原始キリスト教徒(イエス12使徒)”の末裔である、と記しています。そして、彼らは今でも天皇家を陰で支えていると記しています。また、その後の”神道”および”仏教”を担っているのも秦氏であるとしています。このことが、”信長暗殺”の動機になったのは間違いないでしょう。

では、この計画に、光秀、秀吉、そして家康がどのように関わっていったのかを次章で検証していきたいと思います。

08.04.12:50

本能寺の変の真実① -光秀は冤罪? 黒幕は秀吉?-

”本能寺の変”は、”龍馬暗殺”と並んで、歴史上の”暗殺事件”の中でも未だに”謎”が多く、様々な”憶測”が展開されている事件です。そして、この事件には”黒幕”が存在し、足利義昭、正親町天皇、近衛前久、イエズス会、そして徳川家康、更には、最近もっとも有力視されているのが信長亡き後天下を取った豊臣秀吉の名が挙げられています。しかし、”実行犯”は依然として明智光秀、というのが通説でした。ところが、ここ最近では、どうやら明智光秀も”実行犯”ではなかったのではないか?という説が出てきています。

そこで、明智光秀が主君・織田信長を討った”動機”を幾つか挙げると、”遺恨説”、”ストレス説”、”野心説”、”スパイ・間者説”等があり、”遺恨説”には①”比叡山焼き討ち”を反対した際に信長の逆鱗に触れた事、②荒木村重方に”人質”にとられていた母を見殺しにされた事、③武田氏滅亡の祝宴の際での”一言”が信長の逆鱗に触れた事、④安土城での徳川家康の接待役を務めた際、料理人の作った料理が信長の舌に合わず、またも逆鱗に触れてしまったこと、⑤秀吉の”援軍要請”を受け入れた信長が、光秀を急遽秀吉の傘下に付け、その上従来の近江坂本、丹波亀山の領地を没収され、代わりにまだ毛利氏の領土であった出雲・石見の領地を与える、という命が下ったこと、などがありますが、どうやらこれらの多くは後年作られた”作り話”である可能性が高いと言われています。
”ストレス説”は、信長が”神仏”に刃向う行動をしたり、旧来の重臣であった林秀貞(通勝とも)、佐久間信盛を追放(事実上のリストラ)したことによって、次第に信長に対する”恐怖心”を感じるようになり、それが一気に爆発した、という事です。”野心説”は、元々光秀には”天下取り”という野心があった、とする説ですが、変後の光秀の行動を見ると、この可能性はかなり低いのでは?、と多くの研究家は考えているようです。で、問題の”スパイ・間者”説ですが、光秀は元々足利15代将軍義昭の家臣だったため、義昭追放後も密に義昭と通じていた可能性があり、更に”教養人”である光秀は”関白”近衛前久と入魂の中で、このような関係から正親町天皇ともつながっていたため、彼らの指示で光秀が動いた、とする説ですが、これが今の所最も”有力視”されている説で、さらにここに家康や秀吉が加担した、というのが昨今の”黒幕説”の全貌になっているのでしょう。

さて、ここからが問題の”実行犯”についてですが、これまではどのような”仮説”も”明智光秀実行犯”という説は揺るぎのないものでした。ところが、最近”明智光秀冤罪説”を唱える研究者も出てきており、その中の一人が「本能寺の変・秀吉の陰謀」の著者である茶道家・井上慶雪氏です。彼の見解によれば、”本能寺の変”以前の信長と光秀に関する記録と、変以降の記録には”矛盾点”が多く、それらを分析した結果、本能寺で信長を討った”実行犯”は明智光秀ではなく、秀吉配下の武将だった、としています。

ただ、正直僕はどうもこの著書にはすんなりのめり込めなかったのです。というのも、この著者は当時の記録の”原文”を載せたはいいですが、”漢文”で分かりづらく、必ずそこに”和訳”を入れれば分かりやすかったのに、それがあるものとないものがあったため、読者が今一理解しにくい文章になっていたのと、”茶道”の知識がなければ解読不能の見解が多かったため、結局は井上氏の”独断と偏見”が強すぎるように感じたのが正直な感想です。されど、気になったことが一つあります。それは、この事件には、多くの”文化人”および”商人”が関与していることです。安土・桃山時代最大の”豪商”今井宗久、”日本茶道の開祖”千利休をはじめ、津田宗及、島井宗室、里村紹巴、吉田兼見等で、井上氏は、彼らが秀吉の指示の元に”本能寺の変”をプロデュースした、としていますが、どうも僕は”逆”のような気がしてならないんです。上記の人達こそ、実は”真の黒幕”であり、秀吉はあくまでも”協力者”だったのではないか?、と思うのですよ。また、上記の中で、今井宗久と津田宗及は”本能寺の変”当日は堺で家康の接待をしていたのです。となると、家康も当然ながら”協力者”の一人、ということになるのではないでしょうか。ここら辺を、次章で検証してみたいと思います。

06.08.19:14

坂本龍馬暗殺の最終検証②

桂小五郎(当時は木戸貫治と改名)が何故”龍馬暗殺”を思いついたのだろうか? その”経緯”は、ズバリ龍馬の頭の中に”アメリカ式議会制民主主義”があったからに他ならないでしょう。このことは、龍馬が若かりし頃、絵師:河田小龍からジョン万次郎から聞いたアメリカの話で知る事となり、また、後に勝海舟からもこういった話を聞き、更には長崎での外国人との交流でますます「”議会制民主主義”こそが理想の国家体制だ!」と感じるようになったのではないでしょうか。そして、龍馬は”新政府”に最終的に”議会制民主主義”を導入しようと試みたのではないでしょうか。しかし、これは岩倉や桂の考えとは大きく食い違うものだったのではないでしょうか? あくまでも”天皇制”に拘る両者の頭の中には次第に”龍馬暗殺”の文字が浮かんだのではないでしょうか。しかし、岩倉は一方では西郷や大久保と頻繁に接触し”江戸総攻撃”を画策していました。それが故に、その邪魔になりかねない龍馬を薩摩藩士が暗殺した、という説も出ていますが、おそらく彼らは”龍馬暗殺”とは実は無関係だったのでしょう。桂とて、”長州討幕派”の筆頭として、”大室寅之祐=明治天皇”を擁立すれば当然自分の株は上がります。そのためにも”天皇制”を揺さぶりかねない”議会制民主主義”は言語道断だったのではないでしょうか。

さて、そうなると桂(木戸)はどのようにして”龍馬暗殺”を実行したのでしょうか。”実行犯”に関しては最近の研究、検証ではどうあがいても”京都見回り組”が最有力のようですし、DVDの中でも飛鳥昭雄氏は「京都見回り組の犯行」と断言しています。しかし、”動機”と”暗殺方法”がどうも釣り合わないんです。どう考えても何者かの”入れ知恵”なしには”京都見回り組”による”龍馬暗殺”は成し得なかったのではないでしょうか。ではどのように”入れ知恵”をしたのだろうか?

普通に考えれば幕府の”仇敵”であり、”朝敵”でもあった”長州藩士”の桂と”京都見回り組”との接触はほぼ不可能に等しいんです。しかし、桂小五郎=木戸孝允という人物を調べると、彼は江戸に遊学した際、”神道無念流”の練兵館に入門し、そこで”免許皆伝”を得て入門1年で”塾頭”になるほどの腕前だったとか。かの新撰組局長:近藤勇をしても「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたほどだとか。にもかかわらず、桂は実際真剣を用いた記録はなく、その後”逃げの小五郎”と揶揄されるように、直接的に相手と剣を交えることを避け、なるべく”権謀術数”を駆使して平和的に物事を解決していった人物だったようです。となると、考えられるのが、こうした”剣士”同士の”ネットワーク”を駆使して最終的に”京都見回り組”を焚き付け、坂本龍馬を暗殺させたのではないでしょうか。

されど、桂(木戸)は”実戦経験”がないに等しいんです。どのようにして、龍馬の”暗殺方法”を伝えたのだろうか? そこでふと思いついた人物がいるんです。以前ここのブログでの「坂本龍馬暗殺の最新説」という記事で取り上げた”大村益次郎暗殺”の実行犯:神代直人(こうじろ なおと)です。この説を唱えた加野厚志氏の見解では「大村益次郎暗殺の手口に似ている」という事でした。しかし、”京都見回り組”の犯行がほぼ間違いない以上、神代の出番はあるはずがありません。しかし、”実行犯”ではなく”計画犯”であれば、彼は十分関与していた可能性が出てくるんです。つまり、龍馬の”暗殺方法”を考案し、”剣士ネットワーク”を使って言い伝えた人物こそ、神代直人だったのではないでしょうか。しかし、そうなれば、神代の考案通りに実行できる”達人”がいなければ不可能なんです。しかし、それを出来たであろう人物をNHKで毎週水曜日に放送されている「歴史ヒストリア」の中で取り上げていました。その名は、桂早之助です。彼はどうやら”小太刀”の名人だったらしく、かなり狭かったと言われる近江屋の屋根裏部屋では”小太刀”は有利だったようです。龍馬が抵抗する前に攻撃するには”小太刀”ほど有効な武器はなかったのではないでしょうか。こうして、坂本龍馬は”京都見回り組”によって暗殺された、という事ではないでしょうか。

そして、”明治維新”によって”新政府”が樹立されてからは、はっきり言って”幕府”のメンバーが、”天皇”を頂点にした、公家や各藩の実力者に入れ替わっただけだったんです。”国民”の意向など当時は全くと言っていいほど反映されていなかったのでしょう。このことに”疑問”を抱き、やがて”国会設立”を唱えて”自由民権運動”を起こした人物が”旧土佐藩士”板垣退助なのです。龍馬と同じ”土佐出身者”なのです。おそらく、板垣は龍馬の”遺志”を受け継いだのでしょう。しかし、”国会”はすぐに設立されるも、”民主主義”が行われたのは”第二次世界大戦”終結後まで待たねばなりませんでしたけどね。

06.08.13:19

坂本龍馬暗殺の最終検証①

前章で書いた「坂本龍馬と幕末の謎」では、”龍馬暗殺”は”京都見回り組”の暴発だった、という事で一件落着してしまいました。しかし、だとすると腑に落ちない部分が多々出てくるんです。

まず、そのDVDの中で、飛鳥氏は「坂本龍馬は明治維新直後にはほとんど知られていなかったんです。」と冒頭で話しているのです。裏返せば”幕末期”にもおそらく龍馬の存在を知っていたのはごく一部だったのではないでしょうか。しかも、”大政奉還”の建白書を幕府に提出したのは龍馬ではなく、土佐藩参政:後藤象二郎だったのです。そして、後藤はこの功績を”下士”出身の龍馬のものとされるのは口惜しく感じ、あくまでも「自分が全てを考案した」と公言しているんです。となると、”大政奉還建白書”の内容を考案したのが後藤ではなく龍馬であると知っていたのは龍馬の”師”である勝海舟と、その勝の”上司”である永井玄蕃頭尚志ら数名であり、”京都見回り組”がそのことを知る由もなかったのではないだろうか? であれば、普通なら、彼らは龍馬ではなく後藤を襲わなきゃおかしいんです。にもかかわらず、見回り組は何故龍馬を襲ったのだろうか? ここに、何らかの”トリック”があるとしか僕には思えないんです。

そこで、この背景には”何”が起こっていたのかを考えなければなりません。まず、德川慶喜が”大政奉還”によって朝廷に政権を返上した事で、”武力討幕”を足止めされた西郷、大久保ら”薩摩藩士”と公家の岩倉具視は業を煮やし何とか”武力討幕”を実行させるよう画策していました。しかし、これはあくまでも”表向き”の話。この”裏”で行われていたのが”天皇すり替え”です。こちらに加担していたのは、幕末まで”南朝天皇家”を預かってきた長州藩です。”幕末期”には”攘夷・討幕”をしきりに唱えていたのは長州藩士だったのに、”大政奉還”以降急にそれを薩摩藩士がやっていたことに誰も疑問を持たなかったのだろうか? 少なくとも、僕は「おかしい。」と感じていました。つまり、”明治維新”にシナリオがあったとすれば、薩摩藩士を中心にした”鳥羽伏見~戊辰戦争”はあくまでも”カムフラージュ”だったのではないでしょうか。その間に、一方の長州藩は”天皇すり替え”に奔走していたんです。でも、その前に急にしなければならないことが出来てしまったのです。それが”龍馬暗殺”だったのです!

”龍馬暗殺”を”京都見回り組犯行説”とする説では、暗殺の動機はあくまでも”大政奉還”そのもの、とする説が多いのです。しかも、それに逆上した見回り組の感情的な犯行だとすると、あまりにも”緻密”に暗殺が行われているんです。本当に”大政奉還”が龍馬暗殺の引き金になったのだろうか? 実は、”龍馬暗殺”を決定づけたものとして、これは大河ドラマ「龍馬伝」でも扱われていましたが、龍馬が諸藩の有力者に送った「新政府要綱」に書かれていた新政府の長”○○○”、俗にいう”龍馬コード”ですが、これこそ”龍馬暗殺”の”キーワード”であると言われているんです。僕は、この”○○○”はズバリ”大統領”ではないかと睨んでいるんです。既に龍馬の頭の中にはアメリカ式の”議会制民主主義”というものがあったのではないでしょうか。しかし、龍馬は”天皇”という存在がいかに日本という国には欠かせない存在であるかも知っていました。だからこそ、あえて龍馬は”天皇”と”大統領”を並立させようとしていたのではないでしょうか。しかし、この龍馬の案を、岩倉と、”龍馬暗殺”を事実上仕掛けた”黒幕”が反対したとしたら・・・。

岩倉の”明治維新”における”真の目標”は”天皇すり替え”だったのではないでしょうか。それまで日本の”頂点”に立っていた”北朝系天皇”から”正統”である”南朝系天皇”に戻す必要があったのです。その”南朝系天皇”の末裔であった”大室寅之祐(後の明治天皇)”という人物を預かっていたのは長州藩です。彼らにとっては、”天皇すり替え”を成功させた後、その天皇を日本の”最高権力者”にしようとしていたのは間違いないでしょう。ところが、そこへ龍馬が”議会制民主主義”を口にした訳です。おそらく、このことは龍馬と親しい人物にはかなり前から話をしていた可能性があります。実は、”龍馬暗殺”を企てた人物もその中の一人だったのではないでしょうか。そして、龍馬が暗殺される7ヶ月前に”結核”によって他界した高杉晋作は当時龍馬にとっては最も心が通じ合った人物だったのではないでしょうか。となれば、彼の”死”も本当に”病死”だったのだろうか? ”結核”であれば、毒によって”結核”に見せかけて殺すことも可能だったのではないでしょうか。”病死”にしては少々タイミングが良すぎるんです。おそらく、後に”龍馬暗殺”を企てた人物が、先行して龍馬と入魂の仲だった高杉を”毒殺”したのだとしたら・・・。このような”動機”と、それが可能だった人物、それはズバリ”桂小五郎(後の木戸孝允)”だったのではないでしょうか! さて、では桂(木戸)がどのような経緯で”龍馬暗殺”を計画し、どのように実行したかを次章で検証したいと思います。

06.08.10:06

DVD「坂本龍馬と幕末の謎」を見て思ったこと

この間、「円盤屋」のネットショップで「飛鳥昭雄のエクストリームサイエンス⑤ 坂本龍馬と幕末の謎」を買い、水曜日にDVDを見ました。率直な感想としては、ここのブログでも何度も書きましたが、これまで様々な”憶測”をされてきたことが全て覆される非常にあっけない内容でした(汗) しかし、それでもいくつかの”疑問点”も感じたので、今からそのことを書きたいと思います。

その前に、これまでの坂本龍馬にまつわることをざっと挙げたいと思います。①土佐の郷士出身である。②18歳の時に江戸に遊学し、千葉道場の門下生となる。③同志、武市半平太の結成した”土佐勤王党”に加入。④27歳の時に脱藩。⑤脱藩した同年に江戸で勝海舟の門弟となり、後に海舟らとともに”神戸海軍操練所”を設立。⑥海軍操練所が廃止されると長崎に渡り、操練所の仲間であった沢村惣之丞、近藤長次郎、陸奥陽之助(宗光)らとともに”亀山社中”を設立。⑦慶応2年(1866年)1月8日、龍馬の仲介で”薩長同盟”が締結。⑧”薩長同盟”締結より2週間後の1月23日、京・伏見にある船宿”寺田屋”で伏見奉行所の役人に襲撃される。⑨土佐藩参政:後藤象二郎に協力を求められ、土佐への帰還が認められ、”海援隊”を設立。⑩長崎から兵庫へ渡航中に後藤象二郎に提示した政治要綱”船中八策”をもとに、慶応3年(1867年)10月13日、京・二条城において”大政奉還”が15代将軍:徳川慶喜によって宣言される。⑪慶応3年(1867年)11月15日、京・河原町の醤油商:近江屋にて、”刺客”に襲撃され、同志:中岡慎太郎とともに絶命。(享年33歳)・・・といった感じです。そして、”龍馬暗殺”に関しては、これまで”京都見回り組犯行説”、”新撰組犯行説”、”薩摩藩士犯行説”、”陸援隊犯行説”、”紀州藩黒幕説”、”松平容保黒幕説”、”岩倉具視-大久保利通黒幕説”、”フリーメーソン黒幕説”などの説が唱えられてきました。しかし、その”真実”は・・・。

でもって、DVDの内容ですが、”雑談”で長々と引っ張った後、ある一枚の写真が出されました。


幕末志士集合写真

この写真の”真偽”は正直怪しい限りですが、この写真には坂本龍馬はもちろん、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、大隈重信ら”幕末の英雄”がオランダ人法学者:フルベッキ博士を中心に集結しているんです。飛鳥氏曰く、”幕末”に起こった出来事は全て”シナリオ通り”に行われたものであって、”欧米列強(悪玉系近代フリーメーソン?)”から日本を守るために、日本元来の”フリーメーソン”に関わる人たちが団結して行ったものであって、その”最終目的”が”天皇すり替え”だったとのことです。実は、この写真には後に”明治天皇”になったといわれている”大室寅之祐”なる人物が載っており、その為に孝明天皇とその皇太子である睦仁親王を岩倉具視と伊藤博文が殺した、と言っていました。その証拠は当時の宮中の記録に残っているそうで、更に伊藤博文を暗殺し、現在では韓国で”英雄”となっている安重根(アン・ジュングン)が取り調べの際、「伊藤は天皇を殺した。」と証言しているそうです。でもって、”龍馬暗殺”についてですが、これは単に”京都見回り組”が暴発して殺しただけ、と言っていました。正直あっけなさすぎます(汗)

ただ、これに対して”疑問点”が残るのも事実。ここまでの”経緯”については確かに可能性はあるでしょう。”歴史”の多くは”勝者”によって作られたものであり、そのために”ヤラセ”、”演出”みたいなものは当たり前のようにあったと思います。しかし、”龍馬暗殺”となるとこうも単純なものではないと思うんです。おそらく”裏”があると思うんです。そして、飛鳥氏はそのことを知っているのではないでしょうか? でも、”天皇家”の威信に関わるからあえて誤魔化しているのでしょう。で、次の章で、今度こそ”龍馬暗殺”についての”最終検証”をしたいと思います。