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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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11.01.10:32

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11.15.09:03

仕組まれた太閤びいき

豊臣秀吉・・・”農民”の子として生まれ、いくつかの家に転々と仕えた後、最後に”覇王”織田信長に仕えた事によって見る見るうちに”大名”にまでのし上がり、主君・信長が”本能寺の変”で明智光秀に討たれるや、すぐに”敵討ち”を果たし、ついには”天下人”にまでなってしまった戦国武将です。そうした”功績”が後の時代にも語り継がれ、今でも彼は”英雄”として日本国民から愛されています。

一方、秀吉の死後、”関ヶ原の戦い”に勝利し、豊臣家から天下を奪い”江戸幕府260年”の礎を築いた徳川家康は、今一つ人気がありません。彼らの時代を扱ったドラマなどでも、大抵家康は”悪者”として描かれる事が多いです。しかし、では”秀吉=正義”、”家康=悪”という考え方は本当に正しいのでしょうか?

まず、秀吉は主君・織田信長が京の本能寺にて明智光秀に討たれるや、”毛利攻め”のために出向いていた中国地方から目にも留まらぬ早業で京へ取って返し(俗に言う中国大換えし)、逆臣・明智光秀を討ち取って信長の”敵”を討ちました。とここまでは、確かに秀吉は”主君”であり”恩人”である信長に対する”弔い”を行ったとして評価できるでしょう。しかし、それが”天下取り”につながるとなるとどうなのでしょうか? いくら、秀吉が光秀を倒したからといって、彼の”立場”はあくまでも信長の”家臣”なんです。次の”後継者”を織田家から選ぶのは当たり前。事実、その直後に清洲城で行われた”評定”では、次男・信雄、三男・信孝を退けて嫡男・信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)が後継者に決まったはず。それによって対立した”信孝派”の柴田勝家を”賤が岳の戦い”で討ち破ると、本格的に”天下人”の道へ突き進む訳ですが、それでも本来は三法師こそ”真の後継者”のはずなんです。しかし、秀吉は”天下取り”の欲に駆られてその事をそっちのけで朝廷から”関白”、更には”太政大臣”並びに”豊臣姓”を賜って”天下人”になってしまいます。この時点で、彼がした事は果たして”正義”なのでしょうか?

その後の秀吉は、信長とは違って”懐柔策”を持ってして全国を統一します(唯一小田原攻めだけは軍事侵攻ですが)。しかし、日本全土を統一して名実共に”天下人”となった秀吉は、次第に傲慢になり、政を”私物化”するようになり、自分に楯突く人間は次々と”厳罰”にし(千利休、豊臣秀次、キリシタンなど)、その一族までも”皆殺し”するようになり(秀次一族処刑)、更には無謀とも言える”朝鮮出兵”という途方も無い戦を仕掛けるようになり、秀吉は次第に”暴走”し、そして”自己崩壊”に至ってしまいます。そうした最中に、彼の周りでは、まず、正室・北政所と側室にして嫡男・秀頼の母・淀君が対立、秀吉の”懐刀”である石田三成を中心とした”官僚派家臣”と、”豊臣二大武将”と言われる加藤清正、福島正則を中心とした”武功派家臣”が対立し、豊臣政権は”分裂状態”になってしまいました。こうした状況を、後に天下を取る事になる徳川家康は、勿論”チャンス”だとは思ったでしょうけど、同時に将来への”不安”を感じたのは確かではないでしょうか。

そして、秀吉の死後、当時”五大老筆頭”だった徳川家康は、次第に”勢力”を拡大させ、”政(まつりごと)”を専横するようになり、”五奉行”の一人、石田三成と対立した事によって”関ヶ原の戦い”が勃発する事になります。しかし、問題は、ここで”家康=悪”、”三成=正義”とするのは果たして正しいのだろうか? 秀吉は、多くの諸将の妻を”人質”として大阪へ集めており、そのために心の内では秀吉に”恨み”を持つ武将は少なくなかったはず。特に、秀吉の”後継者”となった甥・秀次が”謀反”の疑いで”切腹”させられると、その妻子、家臣、全てが”処刑”になりましたが、その中には秀次の”妻”となった最上義光の娘・駒姫がおり、また、伊達政宗も秀次と入魂の仲だった事から咎めを受けたため、”東北諸将”の多くは秀吉に少なからず”恨み”を抱いたと思われます。それから、”無謀の戦”でしかなかった”朝鮮出兵”も尻切れトンボの状態で兵を引き上げさせられますが、この事で三成と加藤、福島らの武将との”不仲”も激化しています。”大河ドラマ”等では、これらの事を家康が利用して”天下”を奪ったかのように描かれていますが、家康とてこれらの出来事に心から賛同してはいなかったはず。家康が本当に求めていたのは”天下取り”ではなく”天下泰平”ではなかったのではないでしょうか。でなければ、”江戸幕府”は260年と長きに渡り続く訳は無いんです。

しかし、家康が”江戸幕府”を開き、豊臣氏を滅ぼすと、次第に西洋諸国との貿易が制限されるようになり、オランダを窓口国として長崎の出島の港のみを許可する事によって”鎖国”に近い体制が整います。これは、どうも”西洋諸国”が”日本征服”を企んでいた事に幕府が薄々感付いたからなのでしょうけど、それによって日本から追放されたスペインやイギリスが徳川に”恨み”抱くようになった可能性はあるでしょう。しかも、彼らは本来”キリスト教布教”を名目に日本と交易をしていましたが、この頃に既にプロテスタント派の”秘密結社”である”フリーメーソン”の母体が築かれており、やがて彼らを中心とした一派が”アメリカ独立戦争”を起こしたと言われています。そのアメリカが、1853年ペリー提督率いる黒船艦隊によって浦賀港に訪れ”開国”を要求しています。これらは果たして”偶然”なのだろうか? そして、やがて薩摩、長州、土佐藩士を中心とした”明治新政府”によって江戸幕府は滅ぼされる訳ですが、彼らの背後には”フリーメーソン”がいた事はほぼ間違いないようです。実は、この”フリーメーソン”と、本来徳川の”敵”であった薩摩藩(島津)、長州藩(毛利)、土佐藩郷士(旧長宗我部家臣)を中心とした”明治政府”こそ、”明治時代”以降に当時の日本の”庶民層”に”太閤びいき”の風潮を植えつけた”黒幕”ではないのでしょうか。

”江戸幕府”を倒した薩・長・土中心の”明治政府”とその背後にいたイギリス、アメリカ等の”欧米列強”は、維新後”徳川=悪”という印象付けを日本国民に対して行うために、徳川の前に”天下”を治めていた豊臣秀吉を”英雄化”する事を画策したのではないでしょうか。そもそも、”明治政府”の要人の多くは”下級武士出身”です。よって、”農民”から出世して天下を取った秀吉を”英雄化”する事は彼らにとっては(特に”農民出身者”の伊藤博文にとっては)非常に好都合だったのは確かでしょう。それによって”天皇”を中心とした”中央集権国家”を目指す事になった訳です。また、”徴兵制”では主に”農民出身者”が兵として駆り出されましたが、それを実行するためにも”秀吉英雄化”は都合が良かったのは事実です。

しかし、時代は”昭和”に入り、”第二次世界大戦”に突入すると、日本はドイツやイタリアと手を組み、イギリスやアメリカとは対立します。そして、1945年8月、広島と長崎に”原子爆弾”が投下され、日本は”敗北宣言”します。そして、日本はアメリカのマッカーサ率いるG.H.Q(連合国軍総司令部)に占領され、やがてG.H.Qの指示の元に”日本国憲法”が制定され、表面上は日本は”独立”する事になります。しかし、”軍事権”は全てアメリカに奪われ、日本各地に”米軍基地”を配置する事を余儀なくされた、事実上のアメリカの”属国”となってしまいました。しかし、それでも未だに”太閤びいき”の風潮が残っているのは何故なのだろうか? おそらく、事実上日本を支配しているアメリカを、更に支配している”黒幕”がそこに関わっているからではないでしょうか。それは、戦国時代に”日本支配”を考えたが”鎖国”によってその夢が閉ざされ、幕末にはペリー、ハリスの”黒船艦隊”によって”開国”に成功し、そして、”薩摩、長州、土佐”と手を組んで”明治維新”を背後から動かした”フリーメーソン”ではないでしょうか。彼らの一部は”ユダヤ財閥”を支配し、”軍需産業”を拡大させて”軍産複合体”となり、そしてアメリカを裏で動かす”影の政府(シークレット・ガバメント)”を組織するに至っているとの事。彼らは、完全な”国家体制”を作り上げた徳川家康を忌み嫌い、またそれ以前に強大な”軍事力”を手中に治めていた織田信長をも忌み嫌っているのではないでしょうか。彼らが日本を事実上支配するためには、日本人を”腑抜け”にする必要があります。そのためには、”人気”こそあれ最終的には”堕落”の道を歩む事になった豊臣秀吉を”英雄化”させるのは彼らにとってもまた”好都合”だったのでしょう。そういった意味で、信長に”冷酷残忍な魔王”のイメージを植えつけ、家康に天下を横取りした”ズル狸”のイメージを植えつける事によって、どんなに”矛盾点”があろうとも”豊臣=正義”という概念を無理やり植えつけているのだと思います。そして、それを実行しているのが彼らの”犬”に成り下がった”自民党政府”であり、そしてその管轄下にあるNHKが”大河ドラマ”という形でそういったイメージを視聴者に植えつけているのではないでしょうか。

もう一つ、多くの日本人がこうした”太閤びいき”のムードを受け入れやすい要因になっているのが、多くの日本人の”潜在意識”にあるのだと思います。日本人の”庶民層”の多くは少なからず”先住民(縄文人)”の血を受け継いでいます。秀吉は定説では”農民出身”となっていますが、検証によれば実は”山の民”だった可能性が高いようです。山岳地域を主な生活圏としている”山の民”にも”先住民(縄文人)”の血筋は少なからず受け継がれているはずです。だからこそ、多くの日本人は秀吉がどんなに”悪事”を働いても、それを潜在的に許してしまう傾向があるのだと思います。そして、こういった性質を”シークレットガバメント”が利用している可能性はあるでしょう。

まぁ、いずれにせよ、日本人は昔から”敵討ち”みたいなものに弱い所があって、”曽我兄弟”にしても、”赤穂浪士”にしてもこうした”仇討ち話=美談”にしてしまう所がありますから、主君・信長の”敵討ち”をした秀吉は、やはり”英雄”として崇め奉りたくなってしまうのでしょうね。
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無題

確かに、天下をとってもおかしくない器の武将は東北や西国に多かったです。

いずれも、縄文の血が濃いとみられる地域ですね。

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