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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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10.30.17:48

坂本龍馬暗殺の最新説①


かなり久しぶりに書き込みます(汗) 

現在、大河ドラマで「龍馬伝」が放送されている事から、空前の”龍馬ブーム”で賑わっているようですが(というか、ちょっと遅すぎるが(苦笑))、この間の日曜日に書店で買った「真説 坂本龍馬:加野厚志著」を読みました。この著書には、これまで扱われた事がなかった”最新説”が書かれてありました。で、この新説に触れる前に、既出の仮設をざっと紹介していきたいと思います。

①新撰組犯行説・・・龍馬が暗殺された場所は京の料亭「近江屋」ですが、京の警備を任されていた新撰組が、当時京で”お尋ね者”となっていた龍馬を暗殺した、という説。しかし、加野氏の見解では、京都守護職:松平容保の配下であった新撰組は、龍馬を正々堂々と捕縛、ないしは抵抗にあった際に返り討ちする事はあれど、正体を明かさずに”闇討ち”にしたとは考えにくく、新撰組局長:近藤勇が”龍馬暗殺”の嫌疑で尋問を受けた際にも、「坂本さんは若い時分の”剣友”であり(龍馬が千葉道場で修行していた際、近藤の属していた試衛館との交流試合を行っていたとの事)、”大政奉還”を行った事によって幕府を救った恩人です。」と言って無罪を主張しており、更に”証拠品”とされた原田左之助のものと思われる鞘もそれを現場で証言した元新撰組隊士:伊東甲子太郎のでっち上げであるとして否定。

②伊東甲子太郎一派犯行説・・・伊東は、龍馬が「近江屋」で暗殺される数日前から龍馬の元を頻繁に訪れており、龍馬が暗殺された後も何食わぬ顔をして現場に現れ、落ちていた鞘と龍馬死後2日間は存命だった龍馬の盟友:中岡慎太郎の証言した「こなくそ!」という西国方言から、新撰組の伊予出身者:原田左之助が犯人ではないか?と証言しており、その事が反対に伊東率いる”高台寺党”こそが真犯人であり、新撰組に罪をなすりつけた、とする説。しかし、加野氏の見解では、伊東は確かに新撰組を離れ、”勤王討幕派”に寝返ったが、だからと言って”龍馬暗殺”の動機は薄く、むしろ、新撰組の恐ろしさを知っている伊東が本気で新撰組を疑い、それに小細工を加えて新撰組が疑われるように仕向けたが、それによって伊東は3日後に新撰組に暗殺されたのではないか、としている(ちなみに、高台寺党の中には”西国出身者”は存在しないとの事)。

③紀州藩士復讐説・・・慶応3年4月19日、龍馬率いる海援隊は大洲藩から借りた運搬船:いろは丸に大量の品物を載せて長崎を出港したが、その途中紀州藩の蒸気船:明光丸と衝突。それによって、龍馬ら海援隊が紀州藩から多額の賠償金を支払わせた事から、その復讐によるもの、とする説。しかし、加野氏の見解では、元紀州藩士であった海援隊隊士:陸奥陽之助(後の宗光)の思い込みであり、この説を裏付ける証拠はほとんどないとしている。

④海援隊内部犯行説・・・隊長である龍馬ばかりが目立つ海援隊の中で、手柄を横取りしたいのでは、と思った人物がいたのではないか?とする説で、事実、維新後、海援隊の”参謀格”であった陸奥陽之助は宗光と名を改めて、後に”外務大臣”として”条約改正”に貢献するなどの活躍をしたことから、龍馬の元妻:お龍や龍馬と親しい人間がこの事を快く思っていなかった事から、”元海援隊士”が龍馬暗殺に一枚噛んでいたのでは?とする説。しかし、加野氏の見解では、”北辰一刀流免許皆伝”の達人である龍馬を簡単に斬り殺せるような剣の達人は海援隊には存在しない、として一蹴。

⑤土佐藩家老:後藤象二郎黒幕説・・・本来、”上士”である後藤と”下士”である龍馬は折り合いが悪く、しかも、龍馬の”幼馴染”であった武市半平太を死に追いやった張本人である後藤は仇敵であった事から、後に両者の利害関係が一致した事によって和解して龍馬が土佐藩に帰参し”海援隊”を結成するも、彼らを利用するだけ利用して、”大政奉還”が実現した時点でその手柄を横取りするために、用済みになった龍馬を暗殺した、とする説。しかし、加野氏の見解では、どうやらこれは龍馬ファンが”強面”の後藤を悪役に仕立てようとするために噂されるようになった説のようで、実際に”高慢”で”横柄”で”金銭感覚”の鈍かった性格ではあったものの、”大政奉還”を幕府に直接働きかけたのは後藤であり、”大政奉還”を成功させたのは後藤であると自負するのは当然である、としている。(付け加えると、後藤は”師”であり”叔父”である吉田東洋同様、”下士”に対しては比較的寛容で、事実、東洋と後藤の祖先は”関ヶ原の役”では”西軍方”であったため(後藤の祖先は真田幸村と共に”大坂の陣”で豊臣方”についた後藤又兵衛と言われている)、”上士”も”譜代上士”と”新参上士”の二派に分かれていたのではないか?と僕自身は考えております。)

⑥中岡慎太郎心中説・・・中岡は龍馬の唯一無二の”親友”として語り継がれてきたが、しかし、”懐柔派”の龍馬と違い、あくまでも”武力討幕派”の中岡とは思想が異なるため、武力討幕を目指す中岡が、死を覚悟で龍馬を殺害し、自らも命を絶った、とする説。しかし、加野氏の見解では、中岡が龍馬の正真正銘の”親友”であった事は、龍馬の元妻:お龍の証言からも明白であり、更に、龍馬暗殺当日、中岡が「近江屋」を訪れたのも”武力討幕”を実行するためではなく、新撰組につかまった同志の処遇について相談するためであった事が発覚しているので、この説を否定。

⑦陸援隊隊士犯行説・・・”陸援隊隊長”である中岡慎太郎が龍馬の”真の盟友”である事によって、”龍馬暗殺者”ではないとすれば、その部下達であればあり得るのでは?とする説で、事実、”刺客”達は「近江屋」を訪れた際、応対した龍馬の下僕に対して「十津川郷士ですが・・・」と名乗っているが、陸援隊には”十津川郷士”が数多くいた事からその可能性を指摘された説。しかし、加野氏の見解では、彼らが龍馬一人を殺すのならともかく、”隊長”である中岡を殺した時点で隊は存続不能になる上、そもそも”隊長”である中岡の指示なしにこのようなリスクを伴う事をするとは思えないため却下。

⑧岩倉具視黒幕説・・・”王政復古の大号令”を実行した公卿:岩倉具視には、かねてから”孝明天皇毒殺“の噂があり、しかも”王政復古”の前に”大政奉還”を成就させた龍馬が邪魔になり”暗殺”を企てた、とする説。しかし、加野氏の見解では、後藤象二郎と同じく”悪人相”である事から、”黒幕”と決めつけられただけであり、岩倉に龍馬を殺す決定的な”動機”は見当たらず、それどころか、龍馬とは”志”がほぼ一緒であり(”勤王思想”と”海外遠征”等)、龍馬と中岡の死をたいそう惜しんだと言われているため、否定。(ただし、僕の考えでは”有力説”ですので、この件に関しては次章で触れる事にします。)

⑨西郷隆盛黒幕説・・・一般的に”人柄のいい大人物”と評されているものの、”写真”が一枚も見当たらないところから、その”実像”が定かではない薩摩の英傑:西郷隆盛が怪しい、とする説で、事実”武力討幕”を目指した西郷ら”薩摩藩士”の思惑を尻目に”大政奉還”を成就させてしまった龍馬が邪魔になり暗殺した、とする近年最も”有力視”される説。しかし、加野氏の見解では、龍馬曰く「小さくたたけば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」という通り、決して”暗殺”等の姑息な事をするとは思えない正々堂々とした”豪傑”で、事実、”安政の大獄”が行われた頃に、薩摩びいきの攘夷派の僧:月照と共に”逃亡”を計った際にも、月照を殺して一人逃げたのではなく、一緒に”心中”しようとしていたし、”西南戦争”の際にも、”不平士族”に同情する形で戦に加わり、そして最後は”自刃”しており、更に龍馬が伏見の船宿「寺田屋」で襲撃された際にも、龍馬を保護したのは西郷だった、という事から”討幕実行”のために卑劣にも龍馬を”暗殺”したとは考えにくい、という事で否定。

⑩京都見回り組犯行説・・・”龍馬暗殺”に関してかなり古い時期から”最有力説”として浸透していたのがこの説で、これは龍馬の名を一躍有名にしたかの司馬遼太郎著「龍馬がゆく」の中で司馬氏が著書の中で書かれたものであり(勿論”フィクション”だが)、それが元で幅広く定着してしまった説。しかし、加野氏の見解では、そもそも”京都見回り組”とは旗本の次男ないし三男によって構成された”お坊ちゃま集団”であり、実際彼らが行っていたのは京の街の巡回や警備ぐらいで、実際、”勤王討幕派”の志士の捕獲及び殺害を行っていたのは”新撰組”の方であり、”見回り組”の”隊長”で”龍馬暗殺の主格”と考えられてきた佐々木只三郎は、かなり遅れて”見回り組”に加入したために”動機”も薄く、明治になって自首した元見回り組隊士:今井信朗や渡辺篤の証言も暗殺時に現場に訪れた土佐藩士:谷干城の証言とは大きく矛盾している事から否定。

これらが、加野氏の著書に書かれていた”定説”と加野氏の”検証の結果”ですが、これに加えて、他にも”有力説”としては”龍馬寺田屋襲撃事件”を指揮した”京都守護職:松平容保黒幕説”や、龍馬との親交が深く情に厚い西郷ではなく龍馬との親交が薄く理知的な薩摩の大久保一蔵(後の利通)が親交の深い公卿:岩倉具視と共謀した”岩倉・大久保共謀説”、それから龍馬と親交が深かった”イギリス武器商人:グラバー黒幕説”等もあります。そして、加野氏の提唱する”新説”は以下の通りになります。

(新説)長州藩士:神代直人犯行説・・・神代直人という人物はあまり有名ではないが、長州出身で”兵部省長官”となった大村益次郎を暗殺した実行犯であり、その手口が”龍馬暗殺”と酷似している事から加野氏が新たに提唱した説。当時、長州藩士は”朝敵”だったため京に入る事は困難ではあったが、しかし”不可能”だった訳ではなく、事実、山縣狂介(後の有朋)率いる”御盾隊”は京に陣を構えていたし、龍馬暗殺後、長州藩の事実上の”リーダー”桂小五郎(この時改名して木戸貫二、維新後孝允)が翌日京に訪れている。桂は西郷と違い”逃げの小五郎”と呼ばれていたように、長州藩士が事を起こして失敗する度に部下を見捨てて逃亡を繰り返していた事から、他人には非情で、それ故”恩人”である龍馬さえも自分の”目的”のためには”暗殺”も辞さなかった可能性もあると言う。しかし、あの”奇兵隊”を結成した長州の異端児:高杉晋作さえ恐れた神代直人を桂が”暗殺犯”として雇うには少々無理があり、桂にそこまでの決断力があったとは思えないとも言う。いずれにしても、”何者か”が神代に”龍馬暗殺”を指示した可能性は高く、その”物証”として、彼が恩のある商人宛に送った手紙にこれから何かを実行する事をほのめかした文が書かれており、しかも、その日付が奇しくも龍馬が暗殺された”11月15日”であった事から、この手紙を”重要資料”として加野氏は考えている。

という訳で、上記の”定説”と”見解”、そして”新説”はどれも的を射ているように思えます。しかし、⑧の”岩倉具視黒幕説”に対する加野氏の見解に関してだけは”異論”があります。というのも、加野氏は、龍馬の事を”勤王の志士”と著書の中では何度も書いていましたが、僕は龍馬が純然たる”勤王の志士”だとは思えないんです。龍馬が”勤王思想”を持っていたのは、地元:土佐で幼馴染の武市半平太や岡田以蔵らとつるんでいた頃の話であり、その後、河田小龍、勝麟太郎(後の海舟)、ジョン万次郎、横井小楠、グラバー等から海外の文化、経済、政治の話を聞いた事によって龍馬の考えも次第に変化していき、最終的にはアメリカのような”議会制民主主義”を目標にした可能性が高いと思われます。その”突破口”として、龍馬が航海中に考案した「船中八策」の中では、まずは”天皇”を頂点に”将軍”を主軸とした”諸藩”との”合議制”を取る体制にし、そこから次第に”民主政治”に移行するという考えがあったように思われます。しかし、”洞察力”の鋭い岩倉は、龍馬が真の”勤王論者”ではなく、”議会制民主主義=大統領制”に着目している事を見抜き、それによって”天皇制廃止”につながる事を恐れて”龍馬暗殺”を企てた可能性は十分あり得ると思います。となれば、これは岩倉一人の考えではなく、天皇を含めた”朝廷関係者”全ての思いであり、更には朝廷を背後で動かす”影の存在”までそうした考えを持っていたとしたら、彼らのいずれかが”黒幕”という事になります。この部分について、次章では検証していきたいと思います。
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