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最近会社へ向かう途中、コンビニで加治将一著「龍馬の黒幕」という本を買い読みました。この著書で書かれていたのは”幕末維新”と”英国フリーメイソン”の関係、”英国フリーメーソン”と維新に活躍した志士との関係、更には、坂本龍馬他何人かの幕末志士たちの”素性”について書かれていました。
まず、本当の意味で”幕末維新”を動かしたのは誰なのか?という事に触れていました。通説では、”薩摩藩”の西郷隆盛、大久保利通ら、”長州藩”の桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作ら、”土佐藩”の坂本龍馬ら”下級武士”を中心とした”日本の武士”という事になっていますが、これに対して著者は「日本の名も無き”下級武士”のみの力で幕府を倒す事など不可能。」としています。確かに、いくら”下級武士”たちの幕府に対する不満が頂点に達したからといって、せいぜい”桜田門外の変”や”蛤御紋の変”を起こすぐらいが関の山。日本の政局を根本からひっくり返すには、それ相応の”軍事力”及び”財力”が必要不可欠なのです。当時それができたのは誰なのか? それは・・・、日本にすでに在住していた”外国人”に他なりません。特に長崎で商社を設けていたトーマス・グラバーがその”筆頭”であり、更に彼の”バック”には”フリーメーソン”の存在があったとのことです。”フリーメーソン”というと、このブログでよく取り上げている”米国軍産複合体=影の政府(シークレットガバメント)”と誤解しがちなのですが、本来の”フリーメーソン”は実はその逆の組織で、あくまでも”自由”、”平等”、”博愛”をスローガンとした”秘密結社”なのです。しかし、彼らはどうやら完全に”一枚岩”にはなっておらず、その一部が”シークレットガバメント”のような”陰謀組織”を構成しているのでしょう。 次に、このグラバーら”英国フリーメーソン”と関わっていた志士と、幕末期に起きた英国相手の2つの戦争の真相について触れていました。まず、初めに起こった”薩英戦争”について。”薩英戦争”とは、薩摩藩主:島津忠義の父で”国父”と名乗り薩摩藩を事実上牛耳っていた島津久光が朝廷を後ろ盾に幕政への強制参加を企て江戸へ向かう途中の武州生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)にて薩摩の大名行列の前に立ちはだかったイギリス人を切り殺す事件(生麦事件)が起こり、そのイギリス側の”賠償請求”を飲まなかった薩摩との間に起こった戦争で、藩士の五代友厚と寺島宗則の乗っていたイギリスから買った汽船三隻がイギリス艦隊に拿捕されたことがきっかけで戦争が起こっています。でも、実はこれには”裏”があって、元々グラバーと交流があった五代と寺島がイギリスと共謀しワザと戦争を起こしたもので、イギリス艦隊の前に薩摩が引き下がると思いきや、プライドの高い薩摩藩士が意地と面子で無謀にも反撃したために鹿児島城下が火の海になる、という結末になってしまったもので、本来はイギリス側も五代らも”平和的交渉”をするつもりだったようです。 もう一つ、長州も下関でイギリスと戦争を起こしています(下関戦争) こちらは久坂玄瑞ら”長州攘夷派”がかねてから”攘夷決行”を企てていて、馬関海峡(現在の関門海峡)を通過するアメリカの商船を攻撃し、今度はアメリカ・フランスの連合艦隊に反撃されたために、長州は下関の港を封鎖しますが、それによって長崎における貿易に支障が生じたため当時のイギリス公使オールコック主導により港を強引に開港させるべくイギリス、アメリカ、フランス、オランダの”四ヶ国連合艦隊”によって下関港を攻撃した戦争で、これにより長州は惨敗。敗戦後の講和交渉の使者に抜擢されたのが本来”攘夷派”であった高杉晋作。しかし、どうやらここで一役買っていたのが、高杉の配下にいた伊藤俊輔(後の博文)と井上聞多(後の馨)で、彼らはこの戦争が起こる前にイギリスへ密航しており、この時すでに彼らもグラバーとつながっていたようです。そして、両者は上司である高杉を”開国派”へ方向転換させ、この交渉に及んだとしています。 そして、今名前の挙がった薩摩の五代友厚、寺島宗則、長州の伊藤俊輔(後の博文)、井上聞多(後の馨)ですが、彼らは本来”下級武士”であるにもかかわらず、何故英国に渡ることができたのだろうか? そして、グラバーや通訳アーネスト・サトウらが彼らを信頼できたのか? どうやら、彼らは元々藩の”諜報員”であり、やがてグラバーらイギリス人と通じている間に彼らによって”フリーメーソン”に勧誘されたか、そこまではなくてもそれに準ずる扱いを受けていた可能性があると著書には記されていました。”下級武士”であれば”諜報活動”をさせるには有利であり、問題があれば簡単に切り捨てることもできる。実は、この事が、幕末維新において多くの”下級武士”が活躍できた最大の理由だったのではないでしょうか。となれば、ここに名前の出ていない西郷隆盛、大久保利通も元はそういった役割だった可能性があり、そして家の坂本龍馬もどうやら土佐の”諜報員”であり、やがてグラバーとかかわることで”フリーメーソン”がバックにつくようになったようですね(ちなみに飛鳥昭雄氏は「失われたフリーメーソン『釈迦』の謎」の中では、龍馬の”有名な写真”の中で龍馬が着物の胸の辺りに手を入れているポーズがまさしく”フリーメーソン”のポーズであり、龍馬自身列記とした”フリーメーソン”のメンバーだったとしています。)。 次章では、いよいよ坂本龍馬の””正体”と”暗殺の真相”について触れたいと思います。 PR
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