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10.30.17:48
かなり久しぶりに書き込みます(汗) 現在、大河ドラマで「龍馬伝」が放送されている事から、空前の”龍馬ブーム”で賑わっているようですが(というか、ちょっと遅すぎるが(苦笑))、この間の日曜日に書店で買った「真説 坂本龍馬:加野厚志著」を読みました。この著書には、これまで扱われた事がなかった”最新説”が書かれてありました。で、この新説に触れる前に、既出の仮設をざっと紹介していきたいと思います。 ①新撰組犯行説・・・龍馬が暗殺された場所は京の料亭「近江屋」ですが、京の警備を任されていた新撰組が、当時京で”お尋ね者”となっていた龍馬を暗殺した、という説。しかし、加野氏の見解では、京都守護職:松平容保の配下であった新撰組は、龍馬を正々堂々と捕縛、ないしは抵抗にあった際に返り討ちする事はあれど、正体を明かさずに”闇討ち”にしたとは考えにくく、新撰組局長:近藤勇が”龍馬暗殺”の嫌疑で尋問を受けた際にも、「坂本さんは若い時分の”剣友”であり(龍馬が千葉道場で修行していた際、近藤の属していた試衛館との交流試合を行っていたとの事)、”大政奉還”を行った事によって幕府を救った恩人です。」と言って無罪を主張しており、更に”証拠品”とされた原田左之助のものと思われる鞘もそれを現場で証言した元新撰組隊士:伊東甲子太郎のでっち上げであるとして否定。 ②伊東甲子太郎一派犯行説・・・伊東は、龍馬が「近江屋」で暗殺される数日前から龍馬の元を頻繁に訪れており、龍馬が暗殺された後も何食わぬ顔をして現場に現れ、落ちていた鞘と龍馬死後2日間は存命だった龍馬の盟友:中岡慎太郎の証言した「こなくそ!」という西国方言から、新撰組の伊予出身者:原田左之助が犯人ではないか?と証言しており、その事が反対に伊東率いる”高台寺党”こそが真犯人であり、新撰組に罪をなすりつけた、とする説。しかし、加野氏の見解では、伊東は確かに新撰組を離れ、”勤王討幕派”に寝返ったが、だからと言って”龍馬暗殺”の動機は薄く、むしろ、新撰組の恐ろしさを知っている伊東が本気で新撰組を疑い、それに小細工を加えて新撰組が疑われるように仕向けたが、それによって伊東は3日後に新撰組に暗殺されたのではないか、としている(ちなみに、高台寺党の中には”西国出身者”は存在しないとの事)。 ③紀州藩士復讐説・・・慶応3年4月19日、龍馬率いる海援隊は大洲藩から借りた運搬船:いろは丸に大量の品物を載せて長崎を出港したが、その途中紀州藩の蒸気船:明光丸と衝突。それによって、龍馬ら海援隊が紀州藩から多額の賠償金を支払わせた事から、その復讐によるもの、とする説。しかし、加野氏の見解では、元紀州藩士であった海援隊隊士:陸奥陽之助(後の宗光)の思い込みであり、この説を裏付ける証拠はほとんどないとしている。 ④海援隊内部犯行説・・・隊長である龍馬ばかりが目立つ海援隊の中で、手柄を横取りしたいのでは、と思った人物がいたのではないか?とする説で、事実、維新後、海援隊の”参謀格”であった陸奥陽之助は宗光と名を改めて、後に”外務大臣”として”条約改正”に貢献するなどの活躍をしたことから、龍馬の元妻:お龍や龍馬と親しい人間がこの事を快く思っていなかった事から、”元海援隊士”が龍馬暗殺に一枚噛んでいたのでは?とする説。しかし、加野氏の見解では、”北辰一刀流免許皆伝”の達人である龍馬を簡単に斬り殺せるような剣の達人は海援隊には存在しない、として一蹴。 ⑤土佐藩家老:後藤象二郎黒幕説・・・本来、”上士”である後藤と”下士”である龍馬は折り合いが悪く、しかも、龍馬の”幼馴染”であった武市半平太を死に追いやった張本人である後藤は仇敵であった事から、後に両者の利害関係が一致した事によって和解して龍馬が土佐藩に帰参し”海援隊”を結成するも、彼らを利用するだけ利用して、”大政奉還”が実現した時点でその手柄を横取りするために、用済みになった龍馬を暗殺した、とする説。しかし、加野氏の見解では、どうやらこれは龍馬ファンが”強面”の後藤を悪役に仕立てようとするために噂されるようになった説のようで、実際に”高慢”で”横柄”で”金銭感覚”の鈍かった性格ではあったものの、”大政奉還”を幕府に直接働きかけたのは後藤であり、”大政奉還”を成功させたのは後藤であると自負するのは当然である、としている。(付け加えると、後藤は”師”であり”叔父”である吉田東洋同様、”下士”に対しては比較的寛容で、事実、東洋と後藤の祖先は”関ヶ原の役”では”西軍方”であったため(後藤の祖先は真田幸村と共に”大坂の陣”で豊臣方”についた後藤又兵衛と言われている)、”上士”も”譜代上士”と”新参上士”の二派に分かれていたのではないか?と僕自身は考えております。) ⑥中岡慎太郎心中説・・・中岡は龍馬の唯一無二の”親友”として語り継がれてきたが、しかし、”懐柔派”の龍馬と違い、あくまでも”武力討幕派”の中岡とは思想が異なるため、武力討幕を目指す中岡が、死を覚悟で龍馬を殺害し、自らも命を絶った、とする説。しかし、加野氏の見解では、中岡が龍馬の正真正銘の”親友”であった事は、龍馬の元妻:お龍の証言からも明白であり、更に、龍馬暗殺当日、中岡が「近江屋」を訪れたのも”武力討幕”を実行するためではなく、新撰組につかまった同志の処遇について相談するためであった事が発覚しているので、この説を否定。 ⑦陸援隊隊士犯行説・・・”陸援隊隊長”である中岡慎太郎が龍馬の”真の盟友”である事によって、”龍馬暗殺者”ではないとすれば、その部下達であればあり得るのでは?とする説で、事実、”刺客”達は「近江屋」を訪れた際、応対した龍馬の下僕に対して「十津川郷士ですが・・・」と名乗っているが、陸援隊には”十津川郷士”が数多くいた事からその可能性を指摘された説。しかし、加野氏の見解では、彼らが龍馬一人を殺すのならともかく、”隊長”である中岡を殺した時点で隊は存続不能になる上、そもそも”隊長”である中岡の指示なしにこのようなリスクを伴う事をするとは思えないため却下。 ⑧岩倉具視黒幕説・・・”王政復古の大号令”を実行した公卿:岩倉具視には、かねてから”孝明天皇毒殺“の噂があり、しかも”王政復古”の前に”大政奉還”を成就させた龍馬が邪魔になり”暗殺”を企てた、とする説。しかし、加野氏の見解では、後藤象二郎と同じく”悪人相”である事から、”黒幕”と決めつけられただけであり、岩倉に龍馬を殺す決定的な”動機”は見当たらず、それどころか、龍馬とは”志”がほぼ一緒であり(”勤王思想”と”海外遠征”等)、龍馬と中岡の死をたいそう惜しんだと言われているため、否定。(ただし、僕の考えでは”有力説”ですので、この件に関しては次章で触れる事にします。) ⑨西郷隆盛黒幕説・・・一般的に”人柄のいい大人物”と評されているものの、”写真”が一枚も見当たらないところから、その”実像”が定かではない薩摩の英傑:西郷隆盛が怪しい、とする説で、事実”武力討幕”を目指した西郷ら”薩摩藩士”の思惑を尻目に”大政奉還”を成就させてしまった龍馬が邪魔になり暗殺した、とする近年最も”有力視”される説。しかし、加野氏の見解では、龍馬曰く「小さくたたけば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」という通り、決して”暗殺”等の姑息な事をするとは思えない正々堂々とした”豪傑”で、事実、”安政の大獄”が行われた頃に、薩摩びいきの攘夷派の僧:月照と共に”逃亡”を計った際にも、月照を殺して一人逃げたのではなく、一緒に”心中”しようとしていたし、”西南戦争”の際にも、”不平士族”に同情する形で戦に加わり、そして最後は”自刃”しており、更に龍馬が伏見の船宿「寺田屋」で襲撃された際にも、龍馬を保護したのは西郷だった、という事から”討幕実行”のために卑劣にも龍馬を”暗殺”したとは考えにくい、という事で否定。 ⑩京都見回り組犯行説・・・”龍馬暗殺”に関してかなり古い時期から”最有力説”として浸透していたのがこの説で、これは龍馬の名を一躍有名にしたかの司馬遼太郎著「龍馬がゆく」の中で司馬氏が著書の中で書かれたものであり(勿論”フィクション”だが)、それが元で幅広く定着してしまった説。しかし、加野氏の見解では、そもそも”京都見回り組”とは旗本の次男ないし三男によって構成された”お坊ちゃま集団”であり、実際彼らが行っていたのは京の街の巡回や警備ぐらいで、実際、”勤王討幕派”の志士の捕獲及び殺害を行っていたのは”新撰組”の方であり、”見回り組”の”隊長”で”龍馬暗殺の主格”と考えられてきた佐々木只三郎は、かなり遅れて”見回り組”に加入したために”動機”も薄く、明治になって自首した元見回り組隊士:今井信朗や渡辺篤の証言も暗殺時に現場に訪れた土佐藩士:谷干城の証言とは大きく矛盾している事から否定。 これらが、加野氏の著書に書かれていた”定説”と加野氏の”検証の結果”ですが、これに加えて、他にも”有力説”としては”龍馬寺田屋襲撃事件”を指揮した”京都守護職:松平容保黒幕説”や、龍馬との親交が深く情に厚い西郷ではなく龍馬との親交が薄く理知的な薩摩の大久保一蔵(後の利通)が親交の深い公卿:岩倉具視と共謀した”岩倉・大久保共謀説”、それから龍馬と親交が深かった”イギリス武器商人:グラバー黒幕説”等もあります。そして、加野氏の提唱する”新説”は以下の通りになります。 (新説)長州藩士:神代直人犯行説・・・神代直人という人物はあまり有名ではないが、長州出身で”兵部省長官”となった大村益次郎を暗殺した実行犯であり、その手口が”龍馬暗殺”と酷似している事から加野氏が新たに提唱した説。当時、長州藩士は”朝敵”だったため京に入る事は困難ではあったが、しかし”不可能”だった訳ではなく、事実、山縣狂介(後の有朋)率いる”御盾隊”は京に陣を構えていたし、龍馬暗殺後、長州藩の事実上の”リーダー”桂小五郎(この時改名して木戸貫二、維新後孝允)が翌日京に訪れている。桂は西郷と違い”逃げの小五郎”と呼ばれていたように、長州藩士が事を起こして失敗する度に部下を見捨てて逃亡を繰り返していた事から、他人には非情で、それ故”恩人”である龍馬さえも自分の”目的”のためには”暗殺”も辞さなかった可能性もあると言う。しかし、あの”奇兵隊”を結成した長州の異端児:高杉晋作さえ恐れた神代直人を桂が”暗殺犯”として雇うには少々無理があり、桂にそこまでの決断力があったとは思えないとも言う。いずれにしても、”何者か”が神代に”龍馬暗殺”を指示した可能性は高く、その”物証”として、彼が恩のある商人宛に送った手紙にこれから何かを実行する事をほのめかした文が書かれており、しかも、その日付が奇しくも龍馬が暗殺された”11月15日”であった事から、この手紙を”重要資料”として加野氏は考えている。 という訳で、上記の”定説”と”見解”、そして”新説”はどれも的を射ているように思えます。しかし、⑧の”岩倉具視黒幕説”に対する加野氏の見解に関してだけは”異論”があります。というのも、加野氏は、龍馬の事を”勤王の志士”と著書の中では何度も書いていましたが、僕は龍馬が純然たる”勤王の志士”だとは思えないんです。龍馬が”勤王思想”を持っていたのは、地元:土佐で幼馴染の武市半平太や岡田以蔵らとつるんでいた頃の話であり、その後、河田小龍、勝麟太郎(後の海舟)、ジョン万次郎、横井小楠、グラバー等から海外の文化、経済、政治の話を聞いた事によって龍馬の考えも次第に変化していき、最終的にはアメリカのような”議会制民主主義”を目標にした可能性が高いと思われます。その”突破口”として、龍馬が航海中に考案した「船中八策」の中では、まずは”天皇”を頂点に”将軍”を主軸とした”諸藩”との”合議制”を取る体制にし、そこから次第に”民主政治”に移行するという考えがあったように思われます。しかし、”洞察力”の鋭い岩倉は、龍馬が真の”勤王論者”ではなく、”議会制民主主義=大統領制”に着目している事を見抜き、それによって”天皇制廃止”につながる事を恐れて”龍馬暗殺”を企てた可能性は十分あり得ると思います。となれば、これは岩倉一人の考えではなく、天皇を含めた”朝廷関係者”全ての思いであり、更には朝廷を背後で動かす”影の存在”までそうした考えを持っていたとしたら、彼らのいずれかが”黒幕”という事になります。この部分について、次章では検証していきたいと思います。 PR
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12.06.14:16
ちょっと遅いくらいかもしれませんが、今巷では”歴史ブーム”が起こっています。特に”若い女性”の間で。これは、「戦国BASARA」等の”コンピューターゲーム”の影響と言われていますが、そういった背景から”歴女”と呼ばれる”歴史オタク”の女性が注目され、また”戦国居酒屋”や”戦国メイドカフェ”、”歴史専門ショップ”までもが出来るほどになりました。ただ、一つ引っかかる部分があるんです! それは、このブーム、”歴史ブーム”という割には、その時代が”戦国時代”と”幕末”に集中しすぎているんです! 確かに、これらの時代には多くの”偉人”、”英雄”が登場し、それから”西洋諸国”との交易によって様々な文化、物品が日本に入り込み、まさに”新時代”へ突入する時期でした。だから、これらの時代が注目されるのはわかります。しかし、本当の”歴史ツウ”であれば、これらの時代よりも遥かに”魅力”を感じる時代があるはずです。それは、やはり”謎”に満ちた”古代”! それも”縄文時代”から”大和時代”にかけてです!! でも、もしこれらの時代が”ブーム”になる事を恐れる輩がいるとしたら・・・・。 確か、今の”歴史ブーム”が起こる少し前に、フジテレビ系で玉木宏主演の「鹿男あをによし」という、考古学を扱ったドラマが放送されていましたが、その影響でその後の”ゴールデンウィーク”では奈良のホテルが皆埋まっており、自分もそちら方面へ行こうと考えていたのですが、断念した次第です。このドラマの中で”目玉”となっていたのが”三角縁神獣鏡”で、この鏡が”邪馬台国”の位置を決定付ける鍵を握っているとして注目されました。しかし、この時代の”謎”が次第に浮き彫りになればなるほど、それを厄介視する人間も存在するのは事実! よって、これらの時代から目を逸らさせるために、”何者か”がわざと”戦国時代”及び”幕末”の時代を”若い世代”に注目させるように仕向けたのではないでしょうか。 では、それは一体”何者”なのだろうか? まず考えられるのが、それこそ日本の”古代”の鍵を握る氏族といっても過言ではない”秦氏”です。彼らこそ、天皇家を陰で支援し、事実上日本の”古代史”を築き上げてきた氏族です。そして、日本最初の”歴史書”といわれる「古事記」、「日本書紀」の編纂を事実上行っていたのも秦氏だと言われています。ただ、その「古事記」、「日本書紀」の記述は、一見”勝者”の捏造した”嘘の歴史”と考えられガチですが、実はそこには”仕掛け”があり、その”仕掛け”を解いてしまえば、自然と解読出来るようになっているとの事です。つまり、彼らは”古代史”を完全に”隠蔽”している訳ではなく、公にならないようにわかりにくくしているだけのようです。では、何故彼らがそのような回りくどい事をしなければならないのだろうか? 実は、この両書は何と”聖書”と対応しているため、という説があり、もしそうであれば、それは”預言書”となる訳ですから、もしかすると、この事を公にしてはいけない、と言った”神のお告げ”的なものがあるのかもしれません。ただ、これはあくまでも「古事記」、「日本書紀」という書物に対しての事であり、実際の”古代史”が完全に知られる事を恐れているという事でもないのでしょう。ただ、それはあくまでもそれらを解こうとする人の”力量”に任せる、といった事であり、完全に封鎖しようとまでは考えていないのではないでしょうか。 しかし、その他に「古事記」、「日本書紀」に描かれる時代の”真実”がバレる事を恐れる輩がいるとしたら、彼らは一体”何者”なのだろうか? その前に、ここで描かれた時代には一体何が起こったのだろうか? 一つ言える事は、この時代の途中に”渡来人”による”侵略”があり、その”長”が後の”天皇”になった事であり、これらの”渡来人”が一体”何処”から来たのか?という事です。その事は以前にも何度かこのブログで取り上げていますが、飛鳥昭雄氏のいくつかの著書の中では彼らの”ルーツ”はイスラエル人であり、”北朝イスラエル王国”の末裔が”天皇家”であり、”南朝ユダ王国”の末裔で、イエス・キリストの”12使徒”の末裔を”秦氏”としています。そして、おそらく大和時代の”豪族”もこうした”部族”をルーツにしているのではないでしょうか。「古事記」、「日本書紀」を紐解けば、必ずこのような”真実”が浮かび上がってくるはずなんです。となれば、いわば日本のルーツがイスラエルであり、更にそこに”イエス・キリスト”も関わってくる可能性が出てきます。事実、飛鳥昭雄氏は多くの著書で、”天照大神=イエス・キリスト”という説を唱えています。このような事が多くの日本人に”一般化”される事を”ある輩”が恐れている可能性は大です! では、その”輩”とは一体何者なのだろうか? おそらく、その”連中”が日本とイスラエルの関係に気付いたのは、彼らが最初に日本を訪れる事になった”戦国時代”であり、それによって”日本征服”を企てるも当時の”日本武士団”をそう簡単に攻撃するのは難しく、やがてその”計画”が徳川幕府にバレる事によって、”鎖国”に近い体制が敷かれるようになり、それが”幕末”まで続く事になりますが、その頃イギリスで起こった”産業革命”により一気に”近代化”して技術を大きく進歩させた欧米諸国は、やがてアジア各地を”植民地化”し、そうした流れによってついには日本にも上陸しようとします。そして、巨大な”黒船”によって軍事力の違いを見せつけ、ついには日本を”開国”させます。その”黒幕”は”プロテスタント系キリスト教”の秘密結社”フリーメーソン”であり、そして、彼らは薩摩、長州、土佐等の”有力藩士”と手を結び”明治維新”を陰で動かしました。そして、彼らはやがて”本拠地”を”イギリス”から”アメリカ”へ移し、”第二次世界大戦”では日本に当時の最新兵器”原子爆弾”を広島と長崎に投下して日本を降伏させ、マッカーサ率いる”GHQ”によって日本を占領する事になります。そして、”天皇制”を形式的に残す代わりに”軍事権”をすべてアメリカが握る形で”日本国憲法”が制定され、日本を事実上の”属国”にしました。その時に、以前にも書きましたが、GHQは”仁徳天皇陵”や”応神天皇陵”等の”巨大古墳”を徹底調査し、日本がイスラエルの”末裔”である事の決定的証拠を掴んだ上、それらを”トップシークレット”として隠蔽した、と飛鳥昭雄氏の著書「失われた古代王朝『大和』の謎」には書かれていました。そして、”連中”は現在アメリカの”巨大財閥”としてアメリカ政府と軍を事実上動かす”影の政府(シークレットガバメント)”と呼ばれています。 今や、アメリカは世界を動かす程の”大国”となり、そのアメリカを影で動かす”シークレットガバメント”は、自らをイスラエルの”直系”としているようです。しかし、本当の”イスラエル人”は”白人”にあらず! 現在の”白人系ユダヤ人”の多くは、8世紀頃に中央アジアに国家を築いていた”ハザール帝国”の末裔で、彼らは国を挙げて”ユダヤ教”に改宗しているため、現在”ユダヤ人”と名乗っているに過ぎないんです。”真のイスラエル人”は”モンゴロイド系”で、日本人はその”直系子孫”の可能性が高いとの事。こうなれば”シークレットガバメント”の連中の面子が潰れます。だからこそ、これらの事が白日の下にさらされないために、彼らは映画「ダビンチ・コード」では、イエス・キリストの末裔があたかもバチカン付近にいるかのように描き、日本で”歴史ブーム”が起こりつつあると、その矛先を”戦国時代”と”幕末”に集中するように仕向けたのではないでしょうか。それによって、縄文時代から大和時代までの”古代”から目を逸らさせるように意図的に仕掛けたのではないでしょうか。 大体、いくら”歴史ブーム”といったって、あまりにも”戦国時代”や”幕末”に集中しすぎているのは不自然。最も、”古代”が注目されずとも、平安末期から鎌倉時代にかけての”源平時代”や、”南北朝時代”がもう少し取り上げられてもいいはずなんです。それでも、やれ”戦国”とか”幕末”とかなるとその背後に”何者か”がいるような”疑念”を感じざるを得ないですね。 |
11.15.09:03
豊臣秀吉・・・”農民”の子として生まれ、いくつかの家に転々と仕えた後、最後に”覇王”織田信長に仕えた事によって見る見るうちに”大名”にまでのし上がり、主君・信長が”本能寺の変”で明智光秀に討たれるや、すぐに”敵討ち”を果たし、ついには”天下人”にまでなってしまった戦国武将です。そうした”功績”が後の時代にも語り継がれ、今でも彼は”英雄”として日本国民から愛されています。
一方、秀吉の死後、”関ヶ原の戦い”に勝利し、豊臣家から天下を奪い”江戸幕府260年”の礎を築いた徳川家康は、今一つ人気がありません。彼らの時代を扱ったドラマなどでも、大抵家康は”悪者”として描かれる事が多いです。しかし、では”秀吉=正義”、”家康=悪”という考え方は本当に正しいのでしょうか? まず、秀吉は主君・織田信長が京の本能寺にて明智光秀に討たれるや、”毛利攻め”のために出向いていた中国地方から目にも留まらぬ早業で京へ取って返し(俗に言う中国大換えし)、逆臣・明智光秀を討ち取って信長の”敵”を討ちました。とここまでは、確かに秀吉は”主君”であり”恩人”である信長に対する”弔い”を行ったとして評価できるでしょう。しかし、それが”天下取り”につながるとなるとどうなのでしょうか? いくら、秀吉が光秀を倒したからといって、彼の”立場”はあくまでも信長の”家臣”なんです。次の”後継者”を織田家から選ぶのは当たり前。事実、その直後に清洲城で行われた”評定”では、次男・信雄、三男・信孝を退けて嫡男・信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)が後継者に決まったはず。それによって対立した”信孝派”の柴田勝家を”賤が岳の戦い”で討ち破ると、本格的に”天下人”の道へ突き進む訳ですが、それでも本来は三法師こそ”真の後継者”のはずなんです。しかし、秀吉は”天下取り”の欲に駆られてその事をそっちのけで朝廷から”関白”、更には”太政大臣”並びに”豊臣姓”を賜って”天下人”になってしまいます。この時点で、彼がした事は果たして”正義”なのでしょうか? その後の秀吉は、信長とは違って”懐柔策”を持ってして全国を統一します(唯一小田原攻めだけは軍事侵攻ですが)。しかし、日本全土を統一して名実共に”天下人”となった秀吉は、次第に傲慢になり、政を”私物化”するようになり、自分に楯突く人間は次々と”厳罰”にし(千利休、豊臣秀次、キリシタンなど)、その一族までも”皆殺し”するようになり(秀次一族処刑)、更には無謀とも言える”朝鮮出兵”という途方も無い戦を仕掛けるようになり、秀吉は次第に”暴走”し、そして”自己崩壊”に至ってしまいます。そうした最中に、彼の周りでは、まず、正室・北政所と側室にして嫡男・秀頼の母・淀君が対立、秀吉の”懐刀”である石田三成を中心とした”官僚派家臣”と、”豊臣二大武将”と言われる加藤清正、福島正則を中心とした”武功派家臣”が対立し、豊臣政権は”分裂状態”になってしまいました。こうした状況を、後に天下を取る事になる徳川家康は、勿論”チャンス”だとは思ったでしょうけど、同時に将来への”不安”を感じたのは確かではないでしょうか。 そして、秀吉の死後、当時”五大老筆頭”だった徳川家康は、次第に”勢力”を拡大させ、”政(まつりごと)”を専横するようになり、”五奉行”の一人、石田三成と対立した事によって”関ヶ原の戦い”が勃発する事になります。しかし、問題は、ここで”家康=悪”、”三成=正義”とするのは果たして正しいのだろうか? 秀吉は、多くの諸将の妻を”人質”として大阪へ集めており、そのために心の内では秀吉に”恨み”を持つ武将は少なくなかったはず。特に、秀吉の”後継者”となった甥・秀次が”謀反”の疑いで”切腹”させられると、その妻子、家臣、全てが”処刑”になりましたが、その中には秀次の”妻”となった最上義光の娘・駒姫がおり、また、伊達政宗も秀次と入魂の仲だった事から咎めを受けたため、”東北諸将”の多くは秀吉に少なからず”恨み”を抱いたと思われます。それから、”無謀の戦”でしかなかった”朝鮮出兵”も尻切れトンボの状態で兵を引き上げさせられますが、この事で三成と加藤、福島らの武将との”不仲”も激化しています。”大河ドラマ”等では、これらの事を家康が利用して”天下”を奪ったかのように描かれていますが、家康とてこれらの出来事に心から賛同してはいなかったはず。家康が本当に求めていたのは”天下取り”ではなく”天下泰平”ではなかったのではないでしょうか。でなければ、”江戸幕府”は260年と長きに渡り続く訳は無いんです。 しかし、家康が”江戸幕府”を開き、豊臣氏を滅ぼすと、次第に西洋諸国との貿易が制限されるようになり、オランダを窓口国として長崎の出島の港のみを許可する事によって”鎖国”に近い体制が整います。これは、どうも”西洋諸国”が”日本征服”を企んでいた事に幕府が薄々感付いたからなのでしょうけど、それによって日本から追放されたスペインやイギリスが徳川に”恨み”抱くようになった可能性はあるでしょう。しかも、彼らは本来”キリスト教布教”を名目に日本と交易をしていましたが、この頃に既にプロテスタント派の”秘密結社”である”フリーメーソン”の母体が築かれており、やがて彼らを中心とした一派が”アメリカ独立戦争”を起こしたと言われています。そのアメリカが、1853年ペリー提督率いる黒船艦隊によって浦賀港に訪れ”開国”を要求しています。これらは果たして”偶然”なのだろうか? そして、やがて薩摩、長州、土佐藩士を中心とした”明治新政府”によって江戸幕府は滅ぼされる訳ですが、彼らの背後には”フリーメーソン”がいた事はほぼ間違いないようです。実は、この”フリーメーソン”と、本来徳川の”敵”であった薩摩藩(島津)、長州藩(毛利)、土佐藩郷士(旧長宗我部家臣)を中心とした”明治政府”こそ、”明治時代”以降に当時の日本の”庶民層”に”太閤びいき”の風潮を植えつけた”黒幕”ではないのでしょうか。 ”江戸幕府”を倒した薩・長・土中心の”明治政府”とその背後にいたイギリス、アメリカ等の”欧米列強”は、維新後”徳川=悪”という印象付けを日本国民に対して行うために、徳川の前に”天下”を治めていた豊臣秀吉を”英雄化”する事を画策したのではないでしょうか。そもそも、”明治政府”の要人の多くは”下級武士出身”です。よって、”農民”から出世して天下を取った秀吉を”英雄化”する事は彼らにとっては(特に”農民出身者”の伊藤博文にとっては)非常に好都合だったのは確かでしょう。それによって”天皇”を中心とした”中央集権国家”を目指す事になった訳です。また、”徴兵制”では主に”農民出身者”が兵として駆り出されましたが、それを実行するためにも”秀吉英雄化”は都合が良かったのは事実です。 しかし、時代は”昭和”に入り、”第二次世界大戦”に突入すると、日本はドイツやイタリアと手を組み、イギリスやアメリカとは対立します。そして、1945年8月、広島と長崎に”原子爆弾”が投下され、日本は”敗北宣言”します。そして、日本はアメリカのマッカーサ率いるG.H.Q(連合国軍総司令部)に占領され、やがてG.H.Qの指示の元に”日本国憲法”が制定され、表面上は日本は”独立”する事になります。しかし、”軍事権”は全てアメリカに奪われ、日本各地に”米軍基地”を配置する事を余儀なくされた、事実上のアメリカの”属国”となってしまいました。しかし、それでも未だに”太閤びいき”の風潮が残っているのは何故なのだろうか? おそらく、事実上日本を支配しているアメリカを、更に支配している”黒幕”がそこに関わっているからではないでしょうか。それは、戦国時代に”日本支配”を考えたが”鎖国”によってその夢が閉ざされ、幕末にはペリー、ハリスの”黒船艦隊”によって”開国”に成功し、そして、”薩摩、長州、土佐”と手を組んで”明治維新”を背後から動かした”フリーメーソン”ではないでしょうか。彼らの一部は”ユダヤ財閥”を支配し、”軍需産業”を拡大させて”軍産複合体”となり、そしてアメリカを裏で動かす”影の政府(シークレット・ガバメント)”を組織するに至っているとの事。彼らは、完全な”国家体制”を作り上げた徳川家康を忌み嫌い、またそれ以前に強大な”軍事力”を手中に治めていた織田信長をも忌み嫌っているのではないでしょうか。彼らが日本を事実上支配するためには、日本人を”腑抜け”にする必要があります。そのためには、”人気”こそあれ最終的には”堕落”の道を歩む事になった豊臣秀吉を”英雄化”させるのは彼らにとってもまた”好都合”だったのでしょう。そういった意味で、信長に”冷酷残忍な魔王”のイメージを植えつけ、家康に天下を横取りした”ズル狸”のイメージを植えつける事によって、どんなに”矛盾点”があろうとも”豊臣=正義”という概念を無理やり植えつけているのだと思います。そして、それを実行しているのが彼らの”犬”に成り下がった”自民党政府”であり、そしてその管轄下にあるNHKが”大河ドラマ”という形でそういったイメージを視聴者に植えつけているのではないでしょうか。 もう一つ、多くの日本人がこうした”太閤びいき”のムードを受け入れやすい要因になっているのが、多くの日本人の”潜在意識”にあるのだと思います。日本人の”庶民層”の多くは少なからず”先住民(縄文人)”の血を受け継いでいます。秀吉は定説では”農民出身”となっていますが、検証によれば実は”山の民”だった可能性が高いようです。山岳地域を主な生活圏としている”山の民”にも”先住民(縄文人)”の血筋は少なからず受け継がれているはずです。だからこそ、多くの日本人は秀吉がどんなに”悪事”を働いても、それを潜在的に許してしまう傾向があるのだと思います。そして、こういった性質を”シークレットガバメント”が利用している可能性はあるでしょう。 まぁ、いずれにせよ、日本人は昔から”敵討ち”みたいなものに弱い所があって、”曽我兄弟”にしても、”赤穂浪士”にしてもこうした”仇討ち話=美談”にしてしまう所がありますから、主君・信長の”敵討ち”をした秀吉は、やはり”英雄”として崇め奉りたくなってしまうのでしょうね。 |
10.03.12:58
「織田がつき 羽柴がこねり 喰らうは徳川」 これはいわゆる”天下餅”という”天下”を”餅”に例えた場合の文句ですが、”群雄割拠”、”下克上”の”戦国乱世”を平定し、”天下”を治めた三武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が何故”天下人”になれたのか検証したいと思います。
そもそも、この3人は元々は比較的身分の低い武士の出身で、秀吉に至っては”通説”では”農民出身”という事になっています(近年では”山の民説”が有力?)。しかし、時は”下克上”の戦国時代。本来”身分の低い者”が実力によって”主君ないし身分の高い者”を倒して”上”にのし上がる時代でした。ただ、このような事が、本当にその武将の”実力”のみで成し遂げる事が出来たのだろうか? おそらくは、この背後には”黒幕”が存在した、と考えた方がではなかろうか。何故なら、元来日本という国は天皇家と共に朝鮮半島から渡ってきたと思われる”渡来系一族・秦氏”によって作られた、と言っても過言ではないからです。 されど、秦氏を後ろ盾に構築された”天皇中心の国家体系”も、藤原氏を中心とした”貴族”の台頭により”権力”が乗っ取られ、更に平氏、源氏といった”武士”の台頭によって政権が徐々に武士に移行。そして、1185年に源頼朝によって”鎌倉幕府”の下地が築かれ、1192年にその頼朝が”征夷大将軍”に任じられると、事実上”政権”は武士のものとなってしまいました。おそらくは、こうした”武士”の背後にはかつて秦氏、蘇我氏、聖徳太子の”連合軍”によって滅ぼされた”物部氏”の残党が関わっていたのではないでしょうか。というのも、”武士”を”もののふ”と呼ぶ事が物部氏と深く関わっている可能性があるからです。しかも、”秦氏”と”物部氏”は共に”祭祀氏族”であり、どちらも”ユダヤ人の末裔”と言われています。こういった両者の”対立構造”が”朝廷”と”幕府”という”二重構造”を生み出したのではないでしょうか。 そして、政権は”源氏”→”北条氏(平氏流)”→”足利氏(源氏流)”と移り変わります。しかし、どうも”騎馬民族”の要素の強い”源氏”は一族間の”結束”に乏しく、頼朝の時代も身内同士の争いが絶えなかったのに、足利氏の時代でもそれは変わらず、そうした構造が結果として”応仁の乱”という全国規模の”大乱”を生み出し、やがて”戦国時代”へと突入します。この時、日本を”裏”から動かしていた”秦氏”は、足利一族を筆頭とする”源氏一族”の粛清を考えたのではないでしょうか。もはや、”日本国”を治めるのに”源氏流”では不可能であると判断したのでしょう。そこで、まずは”足利一門”が”身内争い”をするように仕向け、そして実力のある”家臣”ないし配下の”国人”、”小領主”が”当主”の座を奪う、という”下克上”の風潮を生み出したのでしょう。しかし、そうした中でもひるまずに”戦国大名”として勢力を伸ばしていた”足利一門”の今川義元や、”源氏一族”である武田信玄がいました。彼らの勢力を削ぎ、そして、”天下人”にさせるためにその近隣の小大名だった織田信長と松平元康(後の徳川家康)に”白羽の矢”を当てたのでしょう。つまり、この時点で”次期天下人”の候補が実は決まっていた、という事ではないでしょうか。そのために、まず信長は”秦氏一族”の協力によって”桶狭間の戦い”にて今川義元を討ち、その後急速に”勢力”を拡大し、一方の元康も今川家を脱出し姓を”源氏流”の”徳川(本来は得川)”に改めて”系図”を改竄したのでしょう(もし、この頃にまだ”天下人”になる事が決まっていなかったとしたら、姓を改め系図を改竄するには時期が早すぎるんです)。いずれにしても、彼ら自身が”秦氏”と関係のある一族である事はどうやら間違いないようです。 こうして、織田信長と徳川家康は”次期天下人候補”に選ばれた訳ですが、この時点ではもう一人の”雄”である豊臣秀吉の名がありません。それもそのはずです。彼はこの時点ではまだ信長の”一家臣”でしかなく、更に言えば身分的にもかなり低かったはず。おそらく、当初はまずは信長に”天下”を取らせ、信長亡き後家康に天下を取らせる手はずだったのでしょう。しかし、信長は次第に”暴走”し、”天下人”になった後は”朝廷”ひいては”天皇”を脅かす存在になってしまいました。そこで、黒幕である”秦氏一族”は信長を暗殺する事を計画。”源氏一族”土岐氏の一族とされる家臣・明智光秀が”謀反”を起こすように仕向けたのではないでしょうか(光秀の出自については諸説ありますが)。ただ、そうなるとその後に家康が天下を取るにはちょっとタイミングが悪すぎるのは事実。柴田勝家、丹羽長秀といった”有力家臣”も健在でしたし、そこで家康が”天下取り”に動けばかえって”乱世”に逆戻りするは必定。そこで、急遽”次期天下人候補”に選んだのが”農民出身(実は山の民系商人(忍者と言う説も))”でありながら”織田家臣No.2”ぐらいまでに上り詰めた羽柴(後の豊臣)秀吉だった、という事ではないでしょうか。彼は”庶民(農民、商人)”からも人気があり、また”人たらし”と言われるように人心を掴む事を得意としている人物です。彼が”主君”信長の”敵討ち”をして、”天下人”となれば、多くの武将や庶民も納得する、と考えたのでしょう。 でも、秀吉がもし信長と家康の”つなぎ”でしかなかった、とすれば確かに頷ける部分はあります。何故なら、正直秀吉は”家臣”としては”優秀”でしたが、”天下人”としての器ではなかったように思えるからです。彼は”調略”によって”全国統一”を果たしましたが、その後の日本統治に関しては”グダグダ”だった事は否定出来ません。”身内びいき”が激しく、中でも側室・淀君に対する寵愛は目に余るものがあり、しかし、”世継ぎ”秀頼が生まれるや、それまでひいきしていた身内に対しては一変し、特に”関白職”を継がせた甥・秀次に濡れ衣を着せて”切腹”に追い込み、更にひどいのがその妻子、家臣全てを”処刑”してしまった事です。この中には”東北の雄”最上義光の愛娘・駒姫がおり、その事が多くの”東北諸将”の怒りを買い、”関ヶ原の戦い”の際に彼らを”徳川方”につかせる要因の一つになっています。それから、”朝鮮出兵”という無謀とも言うべき戦も起こしています。これは、”成り上がり者”の秀吉に”譜代家臣”が手薄だった事から、多くの武将をまとめめ上げるために起こしたとも言われていますが、後に徳川家光が発布した(原案は家康にあったと思われるが)”参勤交代”と比較すれば実に愚かな策であった事が伺われます。信長や家康のような”ニュートラル”な視点ではなく、かなり”偏った視点”で政治を行っていた点についても”天下人”としての器だったとは思えません。 では、信長と家康はどうだったのだろうか? まず、信長ですが、隣国の大敵・今川義元の2万の大軍をたった3千の兵で破り、その後は舅の斉藤道三を殺して当主となったその嫡男・義竜(本人はかつての美濃守護・土岐頼芸の実子だと思い込んでいたようだが、定かではない)の更に嫡男に当たる竜興を攻め滅ぼして美濃一国を支配する事になりますが、その時に後の”15代将軍”足利義昭が後に家臣となる明智光秀を従えて訪ねてきます。しかし、おそらくこの背後にも”仕掛け人”がいるのではないでしょうか。義昭を信長に頼るように仕向けた人間がおそらくはいたと思われます。信長が大きく”飛躍”するためにはどうしても”足利将軍”の力が必要だった事は事実です。そして、その後は自分に従おうとしない朝倉義景を討とうとしますが、その際に盟約を結んでいた浅井長政に裏切られ、後に両者とも滅ぼす事になります。これによって、信長は当時の戦国大名の中では”最大の勢力”を誇るようになります。その一方で、信長に立ちはだかる比叡山や本願寺の勢力を焼き討ちにしますが、これも”旧態然”として”形式的”になってしまった仏教徒(僧侶)に対する”戒め”の意味がありました。更に、信長に隣接する”もう一人の大敵”武田信玄が亡くなった事によって、今度は息子の勝頼を攻める一方で、将軍・足利義昭を京から追放し”室町幕府”を滅ぼします。こうして、事実上信長は”天下人”となり、本拠地を近江の安土に移し、そして武田を”滅亡”に追いやります。この間に、越後の上杉を重臣の柴田勝家に、関東の北条を同じく重臣の滝川一益に、中国の毛利を秀吉に、四国の長宗我部をやはり重臣の丹羽長秀に攻めさせていました。その時、秀吉からの”援軍要請”があり、急遽、明智光秀を向かわせ、自らも出陣し途中京の本能寺で宿泊する事になりますが、ここで突如光秀の”謀反”に合い、信長は49歳の生涯を閉じまることになりますが、おそらく、この背景には”シナリオ”があり、”信長暗殺計画”が実行された、と言う事でしょう。 ただ、信長は確かに”軍事面”に重点を置いていたようですが、実は”政治面”でも大きな”改革”を実行していたのは確かで、有名なのが商人達が自由に商売が出来るような権限を与えた”楽市楽座”です。”形式化”した寺社の勢力を削ぎ、合理的に”経済”を発達させるための仕組みを作りました。また、西洋との交易も重視し、更なる”経済発展”に努める事になります。それから、各大名、領主が治める土地に見合った年貢を正確に納めさせるための”検地”も実は秀吉ではなく信長が最初に始めたものだそうです。更に、秀吉の例を挙げるまでも無く、”身分”を問わずに”実力”のあるものは登用し、逆に”家柄”、”役職”の上にあぐらを書いて目立った実績の無いものは”家老”の林秀貞(前名:通勝)や佐久間信盛のように”リストラ”する等、今の時代からすれば実に理にかなった処置を取っていました。また、安土城を”拝観料”を払わせて庶民に見学させ、”権威”を示すと共に”拝観料”によって安土の”経済基盤”を築く一方で、そうした庶民と会話をする事で様々な”情報”を得ていたようです。ただ単に”目下”の者に”権威”を示しただけではなく、時には”同じ目線”に立つ、という事はこれまでイメージされていたように決して”恐ろしい独裁者”だった訳ではなく、”天下人”としての器がちゃんと備わっていた人物だった、という事でしょう。しかし、当時としてはあまりにも”最先端”過ぎて多くの人々がついてこれなかった事も否定できませんが。 一方の家康は、”幼少時代”にまず織田家の”人質”となり、やがて今川家に引き渡され19歳まで人質生活を送る事になるが、”桶狭間の戦い”で今川義元が信長に討たれるや、駿河を出奔し”居城”のある岡崎へ戻り、やがて”姓”を”松平”から”源氏系新田流”の”徳川”と改めます(この時点では、”天下”を目指すには程遠いはずにもかかわらず、ここで由緒ある姓に改めた事には何か”裏”があるはず)。そして、信長と”同盟”を結び、信長が”勢力”を拡大すると共に家康も信長ほどではないにしろ”勢力”を徐々に拡大していきます。”浅井・朝倉攻め”や”武田攻め”には信長に協力し、また、信長が”仏教勢力”を警戒した頃には家康も”一向一揆”に悩まされ、家臣・大久保忠世を筆頭に”鎮圧”に向かわせます(この頃、後に”側近”となる本多正信は”一向宗徒”であったため徳川家から出奔するも、後に帰参を許されます)。しかし、”長篠の戦”後、信長から正室・築山殿と嫡男・信康が武田と内通していた、と言いがかりをつけられ両者とも”死”に追いやられるも、家康は信長に従順し、武田家滅亡後駿河一国を与えられます。その翌年、信長が”本能寺の変”で暗殺されますが、家康もこの”計画”に加担していた可能性は否定出来ないでしょう。その直後に、家康は堺から急遽”伊賀超え”をして岡崎に引き上げますが、これは実は明智の軍から逃れるためではなく、”本能寺の変”に自分が関わっていた事をカムフラージュするためだったと言う説があります。 そして、後に秀吉が織田家重臣・柴田勝家を”賤ヶ岳の戦い”で破り、”天下取り”の勢いを見せると、家康は信長の遺児・織田信雄に担がれて”小牧・長久手の戦い”で秀吉と戦う事になりますが、実際この戦で勝っていたのは家康軍ですが、信雄が秀吉と勝手に和睦してしまったために秀吉軍の勝利、となってしまいましたが、実はこれは”やらせ”で、元々秀吉を”天下人”に仕立て上げる合戦だったと言う説があります。その後、家康は秀吉の”臣下”となり、更に”小田原攻め”の直後に”三河・遠江・駿河・信濃・甲斐”の五国から”関東八州”へ移封となりますが、これも”通説”では秀吉が家康を恐れて京・大阪から離れた関東へ遠避けた、と言われていますが、実はこれは家康の方から所望した、という説があります。すでに、この頃から”次の天下取り”の下地作りをしていたのではないでしょうか。そもそも、古来から平将門、源頼義・義家父子、源頼朝→鎌倉幕府・・・etcと関東地方は”武家政治の拠点”と目されていました。家康がそれを手本とし、”江戸幕府”の礎を関東地方で築き上げようとしたのは確かでしょう。1598年、秀吉が死去し、家康と共に”豊臣政権No.2”の座にあった前田利家が死去すると、家康は次第に権力を増幅させ、やがて1600年、”関ヶ原の戦い”で石田三成率いる”西軍”を破り、3年後の1603年に朝廷から”征夷大将軍”に任ぜられて”江戸幕府”を開き、その後約260年に渡る”徳川幕府”の布石を打つ事になります。もし、これらの背後に”黒幕”がいたとしたら、日本のような”縦長”の国を治めるには、京に”朝廷”と”幕府”の二つを置くのではなく、京と関東による”二元政治”こそふさわしいと考えたのでしょう。 いずれにしても、一つ言える事は、信長と家康が”源氏系有力武将”である今川と武田の”抑え”になっていた事と、信長の”奇抜さ”と”軍事力”、そして家康の”冷静さ”と”忍耐力”こそが”戦国の世”を治める要となっていた事は間違いないでしょう。で、秀吉はあくまでも信長の”手足”でしかなかったのが、信長死後の日本をまとめるために多くの武将、庶民を説得する事に最も適任だった事から”次期天下人”の候補に選ばれた、という事ではないでしょうか。しかし、今日どうも家康は”悪者扱い”される事が多いようですが、これはおそらく徳川から政権を奪った”明治政府”の陰謀が、今日の政府(自民党)の方針に受け継がれているのかもしれません。しかし、秀吉だって実は信長の”後継者”となったはずの三法師(後の織田秀信)から政権を奪っている訳ですから、そこを触れずに徳川ばかりを”悪者扱い”するメディアの捉え方は正直納得いきかねますがね。 |
08.01.19:05
”通説”では、石田三成は”恩人”である豊臣秀吉に対する”忠義”のため、秀吉との約束を反故にし次第に”権力”を振るうようになった徳川家康から豊臣家を守るために”関ヶ原の戦い”を起こした、と言われています。しかし、”前章”で書いたように、三成がいくら秀吉に”忠義”を感じていたとしても、むしろ”豊臣家乗っ取り”を疑わせる淀君の側に付いてまで豊臣家を守ろうとしたとは思えません。”頭脳明晰”で知られている三成であればこそ、秀吉亡き淀君牛耳る豊臣家の”天下”が無意味なものである事はわかっていたはずなんです。実際、当時の人々が最も求めていたのは”天下泰平”であり、そのためには徳川家康に”天下”を委ねる事こそ妥当な策である事ぐらいはわかっていたでしょう。であれば、三成は実は裏で家康と結託し、”関ヶ原の戦い”をでっち上げたのではないでしょうか? つまり、”関ヶ原の戦い”は”八百長”だったのではないでしょうか!?
何故、そう思えるのか? まず、この”関ヶ原の戦い”はこれまでの合戦の中ではその”参戦者”があまりにも豪華すぎるんです。まるで”プロレス”や”格闘技”のビッグイベントを思わせるものがあります。確かに”天下分け目の戦い”と言われている訳だから、全国から武将が集結するのは当然なのかもしれませんが、ここまで来ると”合戦”というより”お祭り”みたいにも思えます。それに、これだけ多くの武将が参加している割にはたった”1日”で決着が付いてしまっている事。通常の合戦なら、いったん兵を引き、再び陣を建て直して”再戦”を挑むはずなんです(同じような全国規模の”応仁の乱”は終結するまで10年もかかっています)。更には、”西軍”についているにもかかわらず”本領安堵”されている武将がいたり(島津義久)、反対に”東軍”についているにもかかわらず”加増”がなかった武将がいたり(伊達政宗、吉川広家(西軍だが東軍に内通))、という矛盾した恩賞。更に、この戦の”きっかけ”を作ったのが何故か三成の”盟友”であった上杉家家老・直江兼続のまるで”プロレス”のような”挑戦状”である事。しかも、その後に起こった”会津征伐→慶長会津合戦”が家康と三成の両者が警戒していたと思われる伊達政宗の”牽制”にもなっている事。(家康と三成だけの対立であれば、両者の間で先に戦が勃発してもおかしくないはず。) 合戦後の”西軍側”の”首実検”があまりにも大々的に伝えられているのが逆に大げさに思える事。そして、”関ヶ原の戦い”の後に江戸に”幕府”を開いた家康は、何故か石田三成と同じような”官僚”を重用し、本多忠勝、榊原康政といった”武功派武将”を中央政権から遠ざけた事。・・・こうして考えると、なんか”関ヶ原の戦い”は怪しく思えてならないんです。 しかし、仮に三成と家康が裏で結託しているとして、三成は何故家康を正々堂々と”天下人”に推薦しなかったのだろうか? それは、当然ながら”豊臣恩顧の武将”の反対にあう事と、更には島津家、毛利家(大江広元の末裔)、細川家、佐竹家(源氏の名門)、上杉家(実際は越後守護代長尾家)といった”古くからの名門”がそう易々と家康を受け入れるとは思えないためでしょう。だからこそ、三成はわざと家康と対立したふりをして、秀吉の死後淀君に接近していたと思われる”豊臣きっての二大武将”加藤清正と福島正則を淀君から遠ざけさせ、彼女と対立していた両人の”育ての母”北の政所を頼るように仕向け、そして北の政所とつながっていた家康側に付くように仕向けたのではないでしょうか。だからこそ、その”腹いせ”として彼らが起こした”三成暗殺未遂事件”の後に三成が家康の元を訪れたのも、両者が元々つながっていたから、とは考えられないでしょうか? さて、こうして”関が原の戦い”が起こったとした場合、そこで当然ながら”死傷者”も出た訳ですが、”八百長”だったとしたら何故”死傷者”が出たのか?という疑問も当然生まれるでしょう。その理由は、この戦の参加者全てが”八百長”と思っては戦っていなかったという事です。というより、”八百長”という事を知っていたのは家康、三成、その家臣、そして彼らと関係のある数名の”協力者”のみであり、それ以外の武将の多くは真剣に戦っていたのだと思います。しかし、その”死者”の内一人だけこの合戦の”真相”を知っていた、と思われる武将がいます。その名は大谷吉継。何故なら、彼は三成の盟友の一人であり、この頃彼は”らい病(ハンセン病)(一説では”梅毒”とも言われるが)”に冒され余命いくばくもない状態でした。だからこそ、彼は”死に場所”を求めてあえてこの合戦に参戦し、自ら誰かに討たれる事を望んだのではないでしょうか。問題は、誰に討たれるか?です。 実は、この戦に関して”問題点”がいくつかあります。まずは、一応”東軍”、”西軍”のいずれかに付くそぶりをしながら”本心”が良くわからない武将が何名かいた事。それから、家が2つに分裂していた武将がいた事です。まずは、家が分裂していた武将ですが、この両家が皮肉にも江戸幕府を滅ぼす事になる島津家と毛利家です。島津家の方は本来の当主で秀吉から嫌われていた島津義久の一派と秀吉に気に入られ新たな当主となった弟の島津義弘の一派で分裂しており、更に兄の義久の方が”中立”の立場を貫いていました(もしかすると家康と内応していたのでは?)。毛利家はやはり”親秀吉派”の参謀・安国寺恵瓊と”反秀吉派”の参謀・吉川広家が対立し、毛利家は分裂していました。更には、同じ一族の小早川家がその間に挟まり、しかもその当主がかつて秀吉の”養嗣子”であった小早川秀秋でした。恵瓊は、おそらく三成と親交があり”協力者”の一人と考えていいでしょう。対立する広家は家康に内通する事になりますが、”本心”は別の所にあったのでは? その両者に挟まれ、更に三成に不信感を抱く秀秋はこの戦でどう動くかを迷っていたのでしょう。そこで、三成は秀秋に”寝返り”を提案したのではないでしょうか。そして、彼が狙う相手こそ、大谷吉継だった、という事ではないでしょうか。 で、問題なのは、一応”東軍”、”西軍”いずれかにつくそぶりを見せながら”本心”がわからない武将だ。下手すると、この戦の”真相”に感づいていた可能性もあります。上記の島津義久もその一人ですが、彼は秀吉嫌いで、更に家康からは興味を持たれていたので家康と内通していた可能性はあると思います。その島津家と九州で対峙していた秀吉の元軍師・黒田官兵衛こそ三成、そして家康が警戒した武将の一人ではないでしょうか。官兵衛は、秀吉の2人目の”軍師”として、信長に謀反を起こした荒木村重を説得するために単身で村重の居城、伊丹有岡城に入るがそこで監禁され、約一年後に救出されるもそれによって片目と左足が不自由になる、という身を削った働きをしたにもかかわらず、秀吉が”天下人”となった頃には逆に秀吉に警戒され、”朝鮮出兵”の先方として福岡に追いやられてしまいます。おそらく、彼はこれは三成の策謀と疑っていたのではないでしょうか。そのために、やがて彼は豊臣家、特に三成に”恨み”を抱いた可能性はあると思います。そのために、近年では、官兵衛は”関ヶ原”のどさくさに紛れて”天下”を狙ったのではないか?と言われています。もう一人、三成と家康が警戒したと思われるのが、武田、織田、北条と渡り歩き最後に秀吉の臣下となって戦国の世を切り抜けてきた真田昌幸。彼もまた、官兵衛と同じ”軍師タイプ”の武将で、あの家康を一度負かせた事のある”名将”です。昌幸は、北条と手を結ぶために真田を利用し領地を奪おうとした家康に深い”恨み”を持っていました。そのために、彼は自らと次男・信繁(後の幸村)は”西軍”につき、嫡男・信幸(後の信之)を”東軍”につかせて家を存続させようとしました。しかし、彼らは共に”軍師”。おそらく、この戦の”真相”に感づいていたのではないでしょうか。だからこそ、家康は三男・秀忠を中仙道廻りで上田に向かわせ、そこで真田を釘うちにした、というのが実は真相だったのではないでしょうか。 ただ、黒田官兵衛も真田昌幸も”戦上手”とはいえあくまでも”軍師”です。彼らが仮に”天下”を取ったとしても、日本全国を統治出来たとは到底思えません。しかし、彼らが”ある武将”を”天下人”にしようとしていたとしたら、天下の形勢は大きく変わっていたかもしれません。そして、その武将は、三成、そして家康がもっとも警戒していた武将ではないでしょうか。もし、家康と三成がはじめから”直接対決”をしていたら、おそらくこの武将はその隙を突いて”天下取り”に動いたのは間違いないでしょう。その武将こそ、”奥州の覇者”伊達政宗です。彼が黒田や真田と手を結び、”天下”を目指せば一大事。再び”乱世”に逆戻りする事は必定。そうならないために、三成は”豊臣政権時代”に政宗を監視させるために越後から会津へ移封された上杉景勝を動かしたのではないでしょうか。そして、その”家老”にして三成の盟友でもあった直江兼続と計って家康に”挑戦状”を叩きつける芝居を打って、家康側についた多くの武将を”会津征伐”に向かわせたのではないでしょうか。これによって、政宗は身動きが取れなくなり、”天下取り”は夢に終わってしまったのです。その上、合戦後の”恩賞”が無いに等しかったのもこのためではないでしょうか。ただ、その時家康側にいた加藤清正は黒田官兵衛のいる九州に赴いています。これは家康の命ですが、このようにした理由は、1つ目は家康の配下に清正と正則の2人が揃ってはかえって不都合である事、2つ目は黒田官兵衛を油断させ、その動きを見やすくするためではないでしょうか。 そして、肝心な”合戦の内容”ですが、家康率いる”東軍”を勝利に導いたのは、”西軍”に属していた小早川秀秋の”裏切り”です。おそらく、これも”シナリオ通り”だったのでしょうが、実際はそう上手くいかなかったのでしょう。その理由は、1つは毛利家の分裂に巻き込まれていたため、2つ目は黒田官兵衛の嫡男・長政の妨害にあっていたためではないでしょうか。”通説”では黒田長政が小早川の”裏切り”を催促していた事になっていますが、長政に”別の思惑”があったとしたら、おそらく”逆”の事をしたでしょう。家康は黒田の”動き”を見るためにあえて長政を小早川の”催促役”にしたのではないでしょうか。また、毛利の参謀・吉川広家も”東軍”に内応しながら”別の事”を考えていた可能性はあります。ただ、彼は黒田、真田、そして伊達とつながっていたのではなく、あくまでも主君・毛利輝元に”天下”を獲らせようとしていたのではないでしょうか(当の輝元自身にはその気はもうとうなかったと思われるが)。だからこそ、彼は家康の”不信感”を買い毛利家は大幅に”減封”されてしまったのではないでしょうか。そして、本来”東軍”につくつもりが些細な誤解によって”西軍”についてしまった島津義弘が”本戦”でまったく動こうとしなかったのも、三成の”腰抜けぶり”に落胆したから、と言われていますが、無論、これは三成が島津の”戦気”を削ぐための芝居だったのでしょう。 という訳で、”天下分け目”の「関が原の合戦」は、たった一日で決着がついてしまった訳ですが、その後三成は逃亡し、そして”東軍方”に捕縛され、大々的に”首実検”される訳ですが、これはあくまでも”本物の首”である事をアピールするために他ならず、実際の”処刑”の際に”別人”とすり替えたのではないでしょうか。つまり、三成は密かに生きていた?という事になります。その他に処刑されたのが小西行長と安国寺恵瓊ですが、彼らがいずれも三成と親交のあった”協力者”だと考えれば合点がいくのです。更に、この合戦の”協力者”である上杉家が大幅な”減封処分”を受けたのも、伊達政宗をはじめとする”東北諸将”の不満を起こさせないためではないでしょうか。 まぁ、このようにしてやがて”江戸時代”へ突入する訳ですが、江戸時代の制度こそ、三成が”理想”とした”法治国家”の姿だったのではないでしょうか。 |
08.01.09:39
慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康率いる東軍7万5000(別働隊含めて10万4000)、石田三成率いる西軍8万2000の兵が美濃・関ヶ原で激突した”天下分け目の戦い”、世に言う「関ヶ原の戦い」。この戦には、”東軍”には福島正則、細川忠興、浅野長政、池田輝政、藤堂高虎、黒田長政、山内一豊らが加わり(本戦以外では加藤清正、黒田官兵衛、伊達政宗らが加勢)、”西軍”には宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継、島津義弘、小早川秀秋らが加わる(本戦以外では毛利輝元、上杉景勝、真田昌幸らが加勢)といった”豪華メンバー”で行われ、結果は、西軍に属していた小早川秀秋の”東軍寝返り”によって東軍の”勝利”に終わりました。これによって、東軍の”総大将”であった徳川家康が、堂々と”天下人”を名乗る事となり、そして3年後に朝廷から”征夷大将軍”に任命され、”江戸幕府”を開き徳川260年間の礎を築く事になります。でも、この戦、本当に正真正銘の”天下分け目の戦い”だったのだろうか・・・。
まず、慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が62歳(数え年)で死去した訳ですが、当時の寿命から考えれば”60歳前後”というのは決して珍しい訳ではありませんが、しかし、秀吉に関しては、その”晩年”があまりにもみすぼらしい、というかかなり”もうろく”していた事が”テレビドラマ”のみならずちゃんと”記録”として残っているんです。これは”天下人”になった事による”驕り”からそのようになってしまった、という可能性も十分ありますが、本当にそれだけなのだろうか? 一説によれば”大腸がん”によって脳に異常をきたした為、とも言われていますが、その一方で”砒素”による”毒殺説”があるようです。”砒素”を少しずつ飲ませる事によって、体を弱らせ、そうなれば”脳”の働きも弱まってやがて”もうろく”し、そして”死”に至る。もし、この説が正しければ、この”犯人”は一体誰なのか? 一説によれば、事実上の”豊臣政権No.2”であった前田利家が”キリスト教庇護”のために毒殺した、という説もありますが、彼の”武骨”な性格から考えればそのような回りくどい事は嫌うはずですし、そうなれば”豊臣政権下最大の対抗勢力”にして”次期天下人”である徳川家康とも考えられますが、家康は当時”五大老筆頭”だったとは言え、”豊臣家”からは避けられていたため、やはり難しいでしょう。となれば、秀吉のそばに常に寄り添い、しかも”秀吉殺害”を考えそうな人物は、秀吉の”側室”にして秀頼の”母”である淀君をおいて他にはいないでしょう。 淀君は、近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の方の長女であったため、非常に”プライド”が高く、秀吉の”側室”になった後も”浅井家再興”ひいては”織田家再興”を考えていたのではないか?という説があります。そして、そのためには秀吉の”嫡男”を産み、正室・北の政所を見凌ぐ”権力”を身につける必要がありました。秀吉と北の政所の間には子がいなく、ある側室との間に嫡子(秀勝)を儲けるも幼くして死去。それ以来秀吉には子がいませんでした。しかし、秀吉が53歳の時に淀君との間に鶴松が生まれ、しかし、3歳で死去すると、なんともタイミングが良くその翌年に拾丸(後の秀頼)が誕生します。その時秀吉57歳。そのため、秀頼は秀吉の”実子”ではないのではないか?という噂が絶えなかったようです。事実、淀君には乳母・大蔵卿局の息子で淀君の側近だった大野治長がおり、秀吉の”側近中の側近”石田三成とも親密にしていたようです。ただ、秀頼は秀吉と違って大変”大柄(推定身長197cm?、推定体重161kg?、まるで”プロレスラー”!)”だったようで、小柄(身長150cm)な秀吉の子とは到底思えないのと(実際秀頼がそこまで大柄だったのかどうかも正直怪しいが)、三成もまた比較的小柄(推定身長156cm)だったため、やはり大野治長(身長180cm説あり)が怪しいか?(おそらく、三成はそれを疑っていたのではないだろうか?) そして、秀吉は鶴松の死後、文禄元年(1592年)”朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)”という無謀な戦に挑み、秀頼誕生後は”養嗣子”秀次に”謀反の罪”を着せ”切腹”を命じ、その一族全てを”死罪”にしてしまいました。(この中に、秀次に嫁いだばかりの最上義光の娘もおり、彼女も処刑されてしまった事が、東北諸将の多くが関ヶ原(厳密には慶長会津合戦)で”東軍”に付いた原因になったとも言われる)。更に、その後の秀吉は時より”言語障害”を起こしたり、”失禁”をするなどして次第に”衰え”を隠せない状況になったようです。これは、ただの”病気”とは正直思えませんね。その”異変”におそらく側近・石田三成は感づいていたと思われます。そして、秀吉が死去した後、秀頼の母である淀君が大阪城を占拠し、秀吉の正室・北の政所(高大院)を追放してしまいます。果たして、豊臣家中髄一の”切れ者”であった石田三成が、本気で淀君と手を組んで”豊臣政権”を守ろうとしたのだろうか? それで”天下泰平”の世を築けると思ったのだろうか? そこが僕の”疑問”に思う所なんです。 実は、かの石田三成も秀吉亡き後、日本全国を統治できる人材は徳川家康をおいて他にいないと確信していたのではないでしょうか? 事実、秀吉亡き後の豊臣家は、まず”正室”北の政所と”側室”淀君が対立していたし、また家臣の方でも石田三成、小西行長ら”官僚派”と加藤清正、福島正則ら”武功派”が対立していたため”真っ二つ”に割れていました。そこで、事実上の”豊臣政権No.2”であった前田利家なら豊臣家をまとめられるだろう、と考えている人も多いでしょうが、実は利家は”武将”としては優秀ですが、”政治家”としては無能に等しく、とても家臣をまとめられる器ではなかった、という話がありますし、それにどちらかといえば秀吉の”相談役”程度であって”政務”の方は専ら三成の方に託していたと思われます。同じ”五大老”の毛利輝元はやはり”外様”ですし、彼も”天下人”の器ではなかったと言われています。上杉景勝は養父・謙信譲りの”義人”でしたが、やはり”政治家”としては少々不器用で、三成とほぼ”同タイプ”の家老・直江兼続に政務を託していたようですから。宇喜多秀家に至っては”年齢的”にも”実力的”にも乏しいですからね。となれば、あくまでも”天下泰平”を築く事を考えた場合、いくら”豊臣家”を裏切る行為であろうともはや”天下”は家康に託すしかなかったのではないでしょうか。 また、三成はあの気丈な淀君を最初から信用はしていなかったのではないでしょうか。だからこそ、それを警戒する意味であえて淀君に接近していたのではないでしょうか。それに、秀吉は最初の嫡子・秀勝を亡くして以来子に恵まれなかったのに、50歳を過ぎて淀君を”側室”に迎え入れたとたんに2人の子供が生まれるのは正直不自然。更に、淀君のそばには常に側近・大野治長がいました。となれば、三成はこの両者の関係を疑ったのは間違いないと思います。されど、この三成の言葉をも秀吉は次第に聞き入れようとしなくなったのでしょう。そして、秀吉はますます淀君にたぶらかされて”人格崩壊”がエスカレートし、やがて死んでしまいます。この秀吉の”死”をもおそらく三成は疑った事でしょう。 となれば、秀吉の死後、三成のとった行動は・・・。もはや家康と手を組むより他に道がなかったのではないでしょうか。(つづきは②の方で) |
06.21.13:40
僕は、かねてから”上杉謙信女性説”は何者かが意図的に流した説であり、謙信の”真の正体”はイエス・キリストと何らかの関係があるのでは?と書いてきましたが、日本人の”主流”である天皇家を中心とした”大和民族”が”北朝イスラエル十支族”の末裔であり、更にその”天皇家”を陰で動かしてきたと言われる”秦氏”は”ユダヤ系原始キリスト教徒”ではないか?ともこのブログでは書いてきました。そして、その”秦氏”の幹部(飛鳥昭雄氏の言う所の”八咫烏(やたがらす)”)の更に”頂点”にいる”太秦(ウズマサ)(飛鳥昭雄氏が言う所の”金鵄”)”が”裏天皇”であり、そして”真の天皇”であるとも書きました。で、もしかするとここに”イエス・キリスト”の血が流れているのではないか?とも書きました。
で、ぶっちゃけた話、上杉謙信に”イエス・キリスト”の血が流れているとしたらどうでしょう? 表向きには、謙信は越後守護代長尾為景の四男(もしくは三男)とされています。しかし、記録によれば、謙信は母・青岩院(虎御前)と姉・仙桃院(桃の方)に溺愛され、一方では父・為景と兄・晴景には嫌われていたようです。しかし、この理由が、謙信と母と姉が血がつながっていて、父と兄との血がつながっていないから、とは考えられないでしょうか? つまり、謙信の父親は長尾為景ではなく”裏天皇”だったとしたら、謙信はイエスの”末裔”と言う事になります。もっとも、何の根拠もありませんが(汗) ただ、母・青岩院は熱心な”観音菩薩信仰者”であり、また、謙信が後に信仰の対象とする”毘沙門天”に祈って謙信を授かった、と伝えられているようです。しかし、これは”表向き”の話であって、実はこの事が青岩院と”八咫烏”との関係を示している事を意味するのではないでしょうか。そもそも、”神”とほぼ無関係の欲に満ちた”俗将”ないし”賊将”だった父・為景に対して母・青岩院と謙信があそこまで”神仏”に傾倒しているのが不自然に感じるからです。 さて、仮に謙信が”イエス・キリスト”の末裔だとして、それを困る連中がおそらくいると思われます。”上杉一門”は当然でしょうが、もしそうであれば、”八咫烏”を中心とした”秦一族”、更には”皇室”までも関与してくるでしょう。でも、彼らはあくまでもこの事を”隠す”以外の事はおそらくしないはずなんです。でも、彼らの他に、この件を”問題視”する連中がいたとしたらどうでしょう? そして、そのためには”情報操作”はおろか、その”証拠隠滅”のために何らかの”攻撃”を仕掛けているとしたら・・・。 実は、”謙信女性説”が定着した時期と、世界中をセンセーショナルな渦に巻き込んだ映画「ダビンチ・コード」、そして2度目に起きた”新潟中越沖地震(柏崎付近を震源とした地震)”の時期がほぼ重なるのと、更に言えば小説版「ダビンチコード」が出版された時期と最初の”新潟中越地震(小千谷市付近を震源とする地震)”が起きた時期もほぼ重なります。更に”北朝鮮拉致問題”もまだこの頃騒がれていた時期でした。これらは、果たして”偶然”なのだろうか? それに、”地震”は人工的に作れる事が出来るようです。その”地震発生装置”更には”気象コントロール装置”を発明したのが、エジソンの”直流電気”に対して”交流電気”を編み出した科学者・ニコラ・テスラ。しかし、彼の”死”は結構不可解であり、一説によるとアメリカ政府ないし軍の差し金によって”暗殺”され、彼の残した多くの”発明品(地震発生装置、や気象コントロールシステムを含む。)”の設計図の全てが”何者か”によって持ち去られていたようです。 映画「ダビンチ・コード」が公開されて、最も注目されたのが”イエス・キリスト”の血筋です。しかし、この映画はあくまでも”アメリカ映画”である、という事を注意しなければなりません。当然、この物語に描かれている”シュチュエーション”は”フィクション”である、という事を念頭に置かなければなりません。となれば、これも一種の”情報操作”と考えるべきでしょう。言い換えれば、アメリカはイエス・キリストの”末裔”の”本当の居場所”を知っている、という事ではないでしょうか。飛鳥昭雄氏の著書の中では、アメリカは日本の”皇族”とイスラエルが関係がある事を既に知っていて、第二次世界大戦後、日本を占領したマッカーサ率いる”GHQ”が大阪府堺市にある”仁徳天皇稜”、”応神天皇稜”といった”巨大前方後円墳”の内部の調査を行っていて、そこに前方後円墳の”モチーフ”と思われる”黄金の壷(イスラエル三種の神器の一つ”マナの壷”?)”が安置されていた、といった事が書かれていました。おそらく、彼らは畿内とイスラエルの関係は徹底的に抑えており、そこから他国に情報が漏れないように今でも”米軍基地”を使って”監視”しているのではないでしょうか。しかし、新潟県が”ノーマーク”だったとしたらどうでしょう? 更に、上杉謙信が”生涯不犯”だったのは、”通説”であれば戦国の世を正すために毘沙門天と”誓い”を立て、それが成就するまで”不犯”を貫く、といった理由で彼は”生涯独身”だった、とされていますが、これは従来の日本人の”倫理観”からすれば、別におかしくも何もない概念だったのではないでしょうか。かつての日本人の多くは”神仏”を深く信仰していた訳ですから、一種の”願掛け”として”神仏”に誓いを立て”欲”を断つ、といった事はあってもおかしくなかったはず。にもかかわらず、昨今何故ここに”根拠”を求めようとして”同性愛者説”が出たり、果てはそれが”女性説”にまで発展していったのだろうか? こうした”概念”は従来の日本人の”倫理観”ではなく、戦後の”アメリカナイズ”された日本人の”倫理観”、もっと言ってしまえば、これは何事にも”科学的根拠”を追い求めようとする”欧米人”の”倫理観”ではないでしょうか? はっきり言ってしまえば、”謙信女性説”を最初に思いついたのは実は”欧米人”、特に”アメリカ人”だったのではないでしょうか。戦後日本の”高度経済成長”により、”メディア”の世界も急速な発展を遂げた日本は、”テレビ業界”が欧米諸国を追い越すほど発展。その中で”時代劇”がお茶の間の定番になり、それに興味を示した欧米人も決して少なくないはず。それによって、本格的に日本の”武士”を研究するようになった欧米人も当然いるでしょうからね。で、”同性愛社説”、”女性説”が囁かれる一方で、謙信とイエス・キリストをシンクロさせる欧米人だっておそらくいると思われます。特に”キリスト教”に深く傾倒しているヨーロッパ人は。でも、アメリカ人だって”キリスト教徒”は多いでしょうから、アメリカ人の中にもこのような考えを持つ人がおそらくいるでしょう。となると、アメリカの”トップ”の連中はどうなのだろうか? もし、そういった連中の中に謙信とイエスを関連付ける人間がいたとしたら、この事を”危険視”する可能性もあるのではないでしょうか。 もし、アメリカ以外の国が、日本とイスラエル、ひいては日本とイエス・キリストの関係に気づいたとしたら、アメリカにとっては厄介な事になるのではないでしょうか。せっかく、アメリカは日本を事実上の”植民地”にして日本の”軍事権”を掌握した訳ですからね。そのために、彼はおそらく皇室とある”約束”を交わして”天皇制”を形式的ではあるが存続させたのではないでしょうか。それによって、これらの”秘密”は”皇室および八咫烏”とアメリカの”上層部(その中心は軍産複合体が牛耳る”陰の政府(シークレット・ガバメント)””のみしか知らないはずなんです。しかし、上杉謙信とイエス・キリストが関係してくると”北朝鮮拉致問題”で新潟県に頻繁に訪れる北朝鮮の政府関係者に漏れる恐れがあるんです。しかも、北朝鮮の背後には中国が控えており、またロシアも控えている。更にロシアとアラブ諸国がつながっている可能性があります。そうなると、アメリカにとってはこの事は”重大な問題”である事は間違いないでしょう。最も”噂話”だけならいざ知らず、アメリカが恐れているのは”物的証拠”が北朝鮮に持ち去られる事ではないでしょうか。そのために、アメリカは”地震兵器”を使って人工的に”地震”を起こし、”物的証拠”をどさくさに紛れて持ち去り”証拠隠滅”を計ったのではないでしょうか。その”震源地”ですが、最初に起きた小千谷市は、謙信の”養子”である景勝の居城・坂戸城があった現在の魚沼市に隣接し、2度目に起きた柏崎市は謙信の居城・春日山城があった現在の上越市に隣接しています。やはり、何か匂います。 そもそも、僕が”謙信同性愛者説”や”謙信女性説”が怪しいと感じるのは、元々は単なる”珍説”でしかなかったはずなのに、いつの間にか”本流”を凌ぐ勢いになってしまっているのと、どうも今の日本人の”社会的傾向”に上手く乗っかっているからです。今や”同性愛者”は珍しくなくなりましたし、若い女性による”起業”も珍しくなくなっています。更に、”女性議員”や”女性政治家”だって今となっては普通にいます。となれば、戦国の乱れた時代に”女性大名”がいてもおかしくない、という風潮が起こっても仕方ないでしょう。でも、僕が思うに、いくら”戦国時代”の世が乱れていたからといって、古来の”格式”全てが乱れていた訳ではなかったのではないでしょうか。でなければ、織田信長という”斬新”で”奇抜”な武将が登場し、古い格式を全て壊してまったく新しい世の中に変えようとする人なんて現れなかったでしょう。それに、その当時、上杉謙信はむしろ”古い格式”を最も重んじる武将だったはず。それが”女性”だったとは正直考えられません。むしろ、”女性大名”を本格的に認めようとしたのは信長の方だったんじゃないでしょうか(実は、この事に”猛反対”していたのが家臣の明智光秀で、この事も”本能寺の変”の要因の一つになったのではないだろうか?)。だからこそ、その後に”天下”を取った徳川家康は、息子の二代将軍秀忠の時代に制定される「武家諸法度」の中に、あえて”女性当主”を禁ずる法を定めたのではないでしょうか。いずれにしても、このような”情報戦略”をアメリカが得意としているのは事実。だからこそ、”新兵器開発”を”宇宙開発”や果ては”UFO問題”に平気ですりかえる上、それをテーマとした”映画”まで公開して”情報撹乱”している訳ですからね。 いずれにしても、上杉謙信がいくら”生涯不犯”だったからといって、”同性愛社説”や”女性説”が有力視されるのはいくら何でも強引過ぎるんです。でも、この”強引”をさも”常識”であるかのようにやってのけるのが他ならぬアメリカだ、と言えると思います。 |