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”戦国武将”の中で”野心”のためではなく”義”のためだけに生きた武将、と言われている”越後の虎”上杉謙信。そして、自らを”毘沙門天の生まれ変わり”とし、そういった”信仰心”から生涯妻を娶らなかった、とされています。しかし、そのエピソードを時代が下るにつれて多くの歴史家が”疑問視”し、いつしか”同性愛者説”がはびこるようになり、更にそれから10年以上も経った今、今度は”女性説”があたかも”真実”であるかのように世にはびこるようになりました。まぁ、こういった”展開”自体に既に”矛盾点”が現れているのですが、まずは謙信が”男性”か”女性”かの検証をしてみたいと思います。 これまでの”同性愛社説”では、只単に「”戦国武将”のクセに”結婚”しないのは不自然であり、しかも、”戦場”に女性を連れて行けないため、代わりに”小姓”を女性代わりにしていたのが常識だった。」としていたのに対して、”女性説”が唱えられるようになってから、いきなり多くの”根拠”が発見されているんですよ、まるで作られたかのように(汗) これらをざっと挙げれば、①彼の”死”の原因が”脳溢血”ではなく、女性の”更年期障害による夫人病の一種”である”大虫”である、という記録がある事。②合戦中にも関わらず1ヶ月周期で腹痛を訴え、兵を引き部屋に引き篭もったりしている事。③謙信の遺品の衣類を見てみると真っ赤であったり、とても男物とは思えないものを好んで着ており、更に彼が”傾奇者”だった、という記録はないとの事。④謙信が書いた手紙などを見ると、表現や気の使い方が女性的で男性とは思えない事。⑤スペインの国王宛に書かれた手紙には「景勝の叔母」と記載されている。 ⑥当時、民衆の間で「男もおよばぬ大力無双」(男性を差し置いて、またとない強さ)と歌った歌がある。 ⑦当時、女性城主は珍しくなく(例えばおつやの方)、江戸時代に入ってから武家諸法度により初めて女性城主が認められなくなった。そのため江戸時代から今現在に至るまで「城主=男」という常識が存在する事。⑧ 関ヶ原の戦い以前から徳川家と対立しており、やっと許しをもらったばかりの上に、外様大名で立場が弱かった上杉家は大幅に土地を没収されることは目に見えており(実際、米沢30万石に減転封されている)、その上武家諸法度の城主=男により「謙信の代でお家断絶している」と更に言い掛かりをつけられるのを恐れ、謙信が女性という証拠になるものを処分し、無理矢理男性にする必要があった事。⑨ 上杉謙信の肖像画は見るからに男性であるが、これは江戸時代に作成されたもので、謙信を男にする必要があったため不自然にヒゲを生やした男の肖像画を描かせたのではないか?と考えられ、また、江戸時代まで肖像画がなかったという点も不思議で、上記理由により処分してしまったと考えると辻褄が合う事、などが挙げられます。この検証は後ほどするにして、 僕が思うには、こんな”根拠”が出てくる以前に、何故”同性愛者説”が出てきたのだろうか? このような”根拠”があるにもかかわらず10年以上も”同性愛者説”が唱えられていたのはおかしいです。それに”生涯独身”という事であれば、”応仁の乱”の立役者の一人、細川勝元の嫡男政元も”独身”だったのに、彼は”同性愛者説”更には”女説”はありません。更に、”戦国武将”が結婚しないのを”不自然”とするなら、”女性”が”戦国大名”になるのは尚更”不自然”なはず! もっと掘り下げれば、”下克上”の時代にそもそも家臣達が女性を”大名”に押し立てるのはおかしいです。この時代の”血の気の荒い武将”であれば、”女領主”なんてとっくに殺して自らが”当主”になる事を選ぶのが普通でしょう。それに、謙信は”関東管領”上杉憲政の”養子”となって”関東管領”を引き継いでいます。謙信が”女性”だった場合、”名門”上杉家がそれを認めるはずがないと思います。さらに、謙信は13代将軍足利義輝とも謁見しているはず。”足利将軍家”が”女性当主”なんて認めるはずがないと思います。ましてや”関東管領”であれば尚更です! 上記の”女性説”の根拠の⑦に関しても、”おつやの方”は表向きにはあくまでも”養嗣子”坊丸の”後見人”であり、このような例なら北条政子や淀君、それから少し違うが日野富子にも見られる事です! さらに”一豪族”と”戦国大名”では”格”が違いすぎです。こうして考えると、ちょっと”女性説”には無理があるようにも思えます。というか、このような”説”が出てきた背景には”何か”を隠す目的があるようにも思えてならないんです。おそらく、”真に秘密”を隠すための”カムフラージュ”ではないか?と思うんですよ。 で、その”真相”を探る前に、まず謙信というと”生涯独身”というイメージが浮かびますが、多くの人は”戦国武将”が”独身”である事はあり得ない、としています。でも、僕はそうは思いません。”戦国時代”という時代は、隣国との関係を保つために”政略結婚”が頻繁に行われ、それによって”妻”の数が増え、”建前上”の”正室”、”側室”はあれど、それらがやがて”家督争い”につながるのは必定だったはず。だからこそ、それを逆手にとってあえて”独身”という手段を選び、”家督争い”を避けた、という見方もできると思うんですよ。”家督争い”は最悪の場合”御家分裂”を招き、それが原因で滅ぶ事もありうる訳ですからね。これは謙信自信も味わっている事ですから。でも、どうしても家臣が”実子”でなければ跡を継がせなければならない、という声があったのならば、”愛人”を作ればいい話なんです。事実、謙信にはかつて”恋人”と思われる女性がいた事が記録されていたはずなんです。でも、最近これらは”無視”されています。”否定”ではなく”無視”です! そして、その女性とは別れた、という事になっていますが、もし、彼女が”内縁の妻”になっていたとしたら? 更に、その女性との間に生まれた子こそ謙信の”後継者”である景勝だとしたら? そして、謙信の姉(仙桃院)夫婦(一族の長尾政景夫婦)の”実子”として育てられ、やがて謙信の”養子”という形になったとしたら? まぁ、”根拠”は全くないですが、”可能性”がないとは言えないと思います。現に、景勝の父とされる長尾政景が妙な死に方をしているようですからね。それに、どうも政景には景勝の前に”長子”が存在していて”早世”している、という部分も引っかかります。まぁ、いずれにしても、もし、謙信に”内縁の妻”と”隠し子”が存在していたとすれば、”義将伝説”に傷が付きます。それによって、おそらく”封印”されたのでしょう。ちなみに、謙信が本当に”女性”だった場合、それを隠すためにむしろ”カムフラージュ”として”妻”を娶ったはず! しかし、堂々と”女性”であると名乗っているのなら、最初から彼女は”女性”として歴史舞台に登場しなければおかしいはずなんです! となると、謙信は本当に”義の武将”だったのか?という部分も怪しくなると思うんです。でも、彼は後世”義人”とされています。そして、”歴史上人物”では聖徳太子や空海が”義人”、”聖人”とされています(石田三成や大石内蔵助はあくまでも主君に対して”義”を通しただけで、”義人”と呼べる器ではなかったと考えています。)。それと、源義経もそれに近いかもしれません。彼らの共通点は、”秦氏”であり、さらには”イエス・キリスト”も関係してくるでしょう。となると、僕は謙信にも”秦氏”さらには”イエス・キリスト”との関連があるのではないか?と考えているんです。そして、そこに知られてはならない”秘密”が隠されているのではないかと考えています。次の章で、その事を詳しく検証したいと思います。 PR
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