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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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04.24.18:50

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12.16.15:52

幕末維新を動かしたフリーメーソン② -坂本龍馬の正体と暗殺の真相-

坂本龍馬についてはこれまで何度も書いてきましたが、実は結構後から作られた話も多く、また、”土佐郷士出身”である龍馬が何故国を動かすことができたのか?という疑問が付きまとうのは事実。そして、”最大の謎”はやはり”暗殺”です。これまでも様々な”犯人候補”が挙げられましたが未だに確信に迫ることができません。

で、今回読んだ「龍馬の黒幕」ではこのようなことが書かれていました。まず、龍馬は単なる”郷士”だったのか?ということです。龍馬は青年時代に江戸に二度も修行に出ているし、その後脱藩した後も家族に何の咎めがないのもおかしい限りです。確かに龍馬の実家は「才谷屋」という商家ですが、実家が金を工面しただけで江戸に二度も出れたり、脱藩後も実家が”無罪”でいられたのだろうか? そこで、この著書では、前章で書いた五代や伊藤と同じく藩の”諜報員”だった可能性が高いとしています。特に、当時”山内家譜代家臣”を中心とした”上士(城士)”と”旧長曾我部家臣”を中心とした”下士(白札、郷士等)”と明確に分かれていた土佐藩では、”諜報員(スパイ)”といった”汚れ役”を”上士”にさせるはずがありません。それによって龍馬は、その”資質”上”諜報員”には適役だったようです。

でもって、龍馬の”脱藩”も、どうやら藩の指示された可能性が浮上してきたようです。江戸や他藩の動きを探るために龍馬をワザと江戸に送り、勝海舟と引き合わせた、と考えた方がなんかしっくりきますからね。二年前に放送された大河ドラマ「龍馬伝」では、龍馬はそれこそ”郷士身分”にして”脱藩”の身でありながら、なぜか当時”幕府政事総裁職”に就任していた前越前藩主:松平春嶽に謁見し、その春嶽の紹介で海舟に会うことになったのですが、このいきさつが正直”不自然”に思ったのは確か。そもそも、春嶽は前土佐藩主:山内容堂とは入魂の中であり、容堂がそのことを知らないはずがないばかりか、最終的に容堂が龍馬の”脱藩罪”を解いている所を見ても、むしろ容堂経由で春嶽に謁見し、海舟と会うことになった、と考えた方が辻褄が合うのです。そして、その勝もまた”下級旗本”出身です。彼もまた幕府の”諜報員”だった可能性が高い、と書かれています。

そして、”軍艦奉行”となった勝が幕府から任された”神戸海軍操練所”も、どうやら”表向き”の施設であり、その”実体”は”諜報機関”だったのではないか?と著者は記しています。イギリスやアメリカの水夫を”講師”に迎えて、”表向き”には”航海技術”や”英語”を習得し、実際は諸外国の情報を得ていたのではないか?としています。事実、勝と龍馬はその時点で長崎を訪れ、グラバーと会っています。また、その”門下生”は様々な藩から集まっており、無論”攘夷派”につながるものもいた模様。龍馬と同じ”土佐藩士”だった望月亀弥太もその一人です。それが幕府に発覚し、”神戸海軍操練所”は取り潰され、勝も”軍艦奉行”を解任されています。

その後、龍馬は薩摩藩に預けられますが、そこで龍馬は西郷吉之助(後の隆盛)と家老:小松帯刀に会っています。その後薩摩の後押しで再び長崎に入り、長崎で力を持っていた芸術家にして事業家であった小曽根乾堂の世話を受け、小曽根邸の裏山である亀山にあった亀山焼工場跡をその後設立する商社”亀山社中”の拠点としますが、この”亀山社中”も”商社”とは表向きで実際は”諜報機関”だったようです。表向きに薩摩名義でグラバーを通じてイギリスから武器や軍艦を買い、それを長州に売る。その裏でグラバーを通じてイギリス側から”薩長同盟”の構想を聞き、龍馬はいわば”エージェント”という形で”薩長同盟”を締結させたに過ぎない、と著書には記されています。

そして、その”薩長同盟”がひとたび締結されるや、一気に”討幕”の機運が高まっていきます。しかし、龍馬はどうもそれに乗る気がない様子。実は、龍馬が元々土佐藩の”諜報員”だったことを考えればそれも頷けるんです。”前藩主”にして事実上の”土佐藩トップ”であった山内容堂はあくまでも”佐幕派”であったからです。何故なら、彼の祖先である山内一豊が”土佐一国の大名”に成れたのも、一豊の”実直さ”と妻(千代という説があるが定かではない)の”機転”を買った徳川家康のおかげであり、山内家が今日存在し続けているのも幕府のおかげであると考えていたからです。そして、龍馬とともに”大政奉還”に奔走した土佐藩参政:後藤象二郎も当然ながら”佐幕派”です。しかし、龍馬はイギリスの”諜報員”でもあったわけで、イギリスも表向きには”平和的改革”をうたっているが、実際は”武力改革”を望んでおり、そのために多くの藩を武力で脅して”討幕派”に寝返らせています。それでも、”討幕”を疑問視していた龍馬は次第にイギリス側から距離を置かれたようです。

かくして、慶応3年(1868年)10月14日、京都二条城において15代将軍:徳川慶喜が”大政奉還”を正式に表明し朝廷がそれを受諾しています。龍馬や後藤の意向が遂に実現した瞬間でした。しかし、それも束の間、薩長藩はすでに”武力討幕”の準備を整えており、それを後押ししていたのがイギリスだった、と著者はしています。龍馬はこの時点で”幕府側”からも”討幕派”からも睨まれるようになり、また土佐藩も龍馬を危険視したため、現在の京都市河原町付近にあった、土佐藩邸とは道を挟んで向かい側にあった醤油屋:近江屋に隠れ住んでいました。この時龍馬は薩摩にいる”盟友”である中岡慎太郎に西郷の”武力討幕”をやめさせるように頼んでいたり、海援隊の”参謀格”である陸奥宗光に手紙でやり取りをしていたようですが、この時点で、中岡や陸奥は”討幕派”の手中にいた、と著書には書かれていました。しかし、彼らを信じる龍馬に”悲劇”が起こったのはその後。慶応3年(1867年)11月15日、龍馬と中岡は”刺客”2名によって龍馬が隠れ住んでいた近江屋で暗殺されます。享年33歳。

で、”暗殺劇”に関しても、”通説”では、まず”何者か”が近江屋の玄関の戸をたたき、その戸を龍馬の下僕となっていた元力士:藤吉が開けると2人の見知らぬ男が「十津川の郷士の者ですが」と言って藤吉に名刺を渡すと、それを持って龍馬へ渡すべく階段を上ろうとした瞬間、藤吉は後ろから2人のうちの1人に斬られ、その音を聞いた龍馬は「ほたえな!(騒ぐな、という意味)」と叫ぶと2人の男が部屋の襖を開け「坂本さん、お久しぶりです」と声をかけ、龍馬が「はて、おまん誰ぜ?」といった瞬間に「こなくそ!」の声とともに龍馬の額めがけて切りかかり、そして龍馬も奮闘するも最後に脳天を切られ床に倒れ、中岡もかなりの箇所を斬られ、龍馬はすぐに絶命、中岡は窓から落ち、2日後死亡。その中で、中岡が覚えている限りのことを、他の土佐藩士と話している、と言われています。しかし、ここにも多くの”疑問”が生じます。まず、誰がこの光景を見ていたのだろうか? おそらくは、こういった”証言”は後に時代に作られた話であり、”真相”は闇の中である。そこで、著者が言うには「剣に覚えがあり、しかも”寺田屋騒動(寺田屋事件とは別物)”において伏見の役人に対して”ピストル”で応戦している龍馬が、こうもあっさり斬られるはずがない。」とし、「龍馬を切った人物は、おそらく龍馬の顔見知りであり、龍馬が心を許せる人物」としています。その”答え”は、この時龍馬とともに近江屋にいた”盟友”中岡慎太郎その人です。そして、龍馬の死後現場に駆けつけて30年後に暗殺後の証言をした”土佐藩士”谷干城、同じく”土佐藩士”田中光顕、同じく”土佐藩士”毛利恭介、”海援隊隊員”白峰駿馬らが”共犯者”だった可能性があるとしています。更に当時現場にいたとされる”薩摩藩士”吉井幸輔が”黒幕”からの指令を中岡らに伝え、そして、この事件の”黒幕”こそ、一般的には”イギリス人通訳”として知られているアーネスト・サトウではないか?としています。何故なら、彼の書いた手紙からそれをにおわせる部分があり、また龍馬を斬った人間の人数も”3人”と記しているようです。しかし実際は中岡含めて5名。となると、おそらくはそのうち2人、さしずめ毛利恭介と白峰駿馬は”見張り役”で、そうなると”実行犯”は、中岡、谷、田中の3名となります。そして、中岡は龍馬の”反撃(もしかするとピストルで撃たれた可能性も?)”を受けた可能性が高く、それによって中岡は2日後絶命、生き残った谷と田中は維新後、政府の”要人”となっています。

最後に、自分の意見を加えたいと思いますが、確かに討幕派集団であった”陸援隊”の隊長であった中岡慎太郎だったら、確かに”動機”はあるだろうけれども、以前ここのブログでの「龍馬暗殺の最新説」という記事にも書きましたが、加野厚志著「真説 坂本龍馬」の中では、中岡が龍馬の元を訪れたのは”武力討幕実行”のためではなく、新選組に捕らえられた同志の処遇について相談するためであったことが、手紙などで発覚しているため、可能性は低い、とのことでした。それと、引っかかるのは、もし中岡が犯人だったとして、その場に谷や田中らがいたのだとしたら、普通であればその犯行を中岡一人に押し付け、自分たちはあくまでも龍馬の救援に駆け付けた、と証言するはずなのです。しかし、彼らはそのことを隠しています。となると、やはり、”中岡犯行説”には疑問点も少なくありません。しかし、アーネスト・サトウら”イギリス人”が裏で糸を引いていた可能性は否定できないでしょう。もっとも、所詮”通訳”ごときのサトウが完全な”黒幕”とは思えないので、もっと大きな存在(ロスチャイルド財閥等)がバックに控えていたのは確かでしょう。それと、”日本側”の黒幕もおそらく関わっていたでしょう。”明治天皇すり替え説”がある以上、”朝廷関係者”、天皇を背後で動かす”秦一族”、更にそれに対抗する”物部系結社?”が絡んでいる可能性はあると思います。
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無題

中岡が斬ることは出来ません。刀がそばにないのです。竜馬との間に火鉢もあります。
霊山歴史館に手紙があります。それによると慎太郎も刀を抜く暇がなく小太刀で鞘ごと受けたそうです。

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