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02.11.15:02
ここ最近、飛鳥昭雄氏は著書の中で「聖徳太子と秦河勝は同一人物です。」としきりに書いています。これまで、僕は秦河勝は聖徳太子の”実父”だと考えていたのですが、どちらもひも解けば”イエス・キリスト”を彷彿させ、どちらも秦氏を束ねる”長”であり、更にどちらも”大工の祖”とされている以上、”上司と部下”でもなければ”親子”でもない、”同一人物”とした方が辻褄が合う、ということなのでしょう。まぁ、このくらいなら”序の口”です。今度は小野妹子、そして蘇我馬子も聖徳太子と同一人物である、と著書に書いています。小野妹子は”遣隋使”として「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。・・・」といった挑発的な言葉を隋皇帝・煬帝に言い放ったが、飛鳥時代の一介の役人が当時の日本よりは遥かに国力が上だった隋の皇帝に向かってこのような発言はまず許されないため、妹子の正体はそれだけの地位のある人物である可能性がるため、”聖徳太子”と同一人物である可能性があると指摘しています。また、蘇我馬子の名前をそのまま意訳すると「我蘇りし馬の子」となり、”馬小屋”出身で処刑された後に復活したイエス・キリストを連想させるため、同じように”馬小屋”出身とされる聖徳太子と同一人物の可能性がある、とのことです。そして、調べたところ、聖徳太子=小野妹子=蘇我馬子であれば、小野妹子の息子に”毛人(えみし)”という名の者がいることを考えても、蘇我馬子には”蝦夷(えみし)”という名の息子がいる事と共通することから、両者は”同一人物”である可能性があると思います。
でもって、今まで飛鳥氏は”秦氏の中の秦氏”としてきた”八咫烏”を”物部氏”であることを暴露したため、こちらは”大混乱”をしているのです(慌) 僕は、てっきり”聖徳太子=秦河勝”こそ”八咫烏”の祖だと考えていました。しかし、実際は”八咫烏”を監視するための”志能備(しのび)=忍び=忍者”の祖だったようです。となると、それまでの”物部氏VS蘇我氏”の対立は、”八咫烏VS秦氏”の対立だった、という事なのだろうか? おそらくは、”八咫烏=レビ族=鴨族=海部氏”という事になると思いますので、表向きな”物部氏”、つまり”軍事氏族(スキタイ系?)”としての物部氏を”聖徳太子=蘇我馬子=秦河勝”が討伐した、という事なのでしょう。ただ、これによって物部氏は完全に滅亡した訳ではなく、一族は逃げ延び行方知れずになったようです。この戦(丁未の乱)以降、”八咫烏”は天皇家の裏側に回り”裏天皇”として機能するようになったのではないでしょうか。 しかし、そうなると蘇我蝦夷、入鹿親子は一体何者なのだろうか? 彼らは聖徳太子の子ないし孫なのだろうか? されど、飛鳥氏は以前「「未然紀」が解き明かす 真・日本史」という著書の中で蘇我の入鹿を討った中臣(後の藤原)鎌足は聖徳太子の息子としているんです。では、一族同士の争いだったのだろうか? となると、何故”日本書紀”は両者を”赤の他人”として記録したのだろうか? 実は、この答えが蘇我蝦夷の”名”に隠されているのではないでしょうか。”蝦夷”というのは言うまでもなく”先住民系蝦夷”を意味するのではないでしょうか。ただ、ここで注意しなければならないのが、彼らは”東国縄文系蝦夷”ではなく”西国弥生系蝦夷=出雲族”だったのではないでしょうか。”出雲族”とは物部氏の”祖先”を意味し、おそらくかの”邪馬台国”を担っていた一族だったのではないでしょうか。となれば、蘇我蝦夷=物部氏という事になってしまいます。つまり、蘇我蝦夷は”丁未の乱”を逃げ延びた物部氏から聖徳太子=蘇我馬子に”入り婿”した者だったのではないでしょうか。その息子が蘇我入鹿という事になります。そして、太子の実子=中臣鎌足と”外孫”蘇我入鹿が対立し、”乙巳の変”によって蘇我蝦夷、入鹿親子は殺され”大化の改新”につながっていくのです。ちなみに、聖徳太子の息子とされる山城大兄王(中臣鎌足?)が蘇我入鹿に暗殺された事件は、実は”乙巳の変”と同一の事件だった可能性があります。 蘇我蝦夷、入鹿親子が抹殺されたことによって表向きの”物部氏=邪馬台王族”は滅亡し、これらの一族ないし配下の者たちは”秦氏”もしくは”八咫烏”の配下に下り、多くは”山の民”となったのではないでしょうか。これらも後の”忍者組織”の中に組み込まれっていったことは間違いないと思います。しかし、鎌足とともに”乙巳の変”を起こした中大兄皇子が後に天智天皇となり、彼の死後”実弟”とされる大海人皇子が”壬申の乱”を起こして天智天皇の後継者だった大友皇子(弘文天皇)を殺し、天武天皇となりましたが、これには”黒幕”がいた可能性があります。”大海人(おおあま)”という名称から”海部氏”が関与している可能性があり、となるとその”黒幕”は”八咫烏”だったのだろうか? しかし、”八咫烏”は基本的には表の政治には関与しない、というのが原則のようです。となると、この”黒幕”は別にいる、という事になります。おそらく、最後まで”天皇”ないし”秦氏”に組しなかった”物部一族”が歴史の”裏側”にまわって”秦氏”ないし”八咫烏”に対抗したのではないでしょうか。道鏡や平将門、平清盛、源頼朝、織田信長らのバックには”物部残党組織”が関与しており、”明治新政府軍”のバックにも彼らが関与していたのではないでしょうか。そして、現在も”暴力団組織”を陰で統括しているのではないでしょうか。 この世は常に”陽”と”陰”で成立しており、”男”と”女”、”白”と”黒”、”光”と”闇”、”偶数”と”奇数”等2つの対照的な存在の上で成り立っています。そういった意味では”天皇”と”八咫烏”、”秦氏”と”物部氏”という”陰陽関係”も成立していることになります。更には、天皇のみを”表”とすると、”八咫烏”、”秦氏”、”物部氏”という3つの”裏組織”となり、これはユダヤ密教”カッバーラ”によるところの”三位三体”を構築していることになります。”日本書紀”で書かれていたことは、まさにこういった”天皇”とその”裏組織”の歴史を綴ったものだった、という事ではないでしょうか。 PR
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聖徳太子の正体が”側近中の側近”である秦河勝であり、更には”遣隋使”として日本と隋との”交易”の橋渡し役となった小野妹子であり、そして、太子の”義父”であり、当時の政権の”実権”を握っていたといっても過言ではない蘇我馬子である、となれば、その馬子の息子とされる蘇我蝦夷にも”別名”がある可能性があるのではないでしょうか?
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