忍者ブログ

僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
03 2024/04 1 2 3 4 5 67 8 9 10 11 12 1314 15 16 17 18 19 2021 22 23 24 25 26 2728 29 30 05

04.24.10:25

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

05.29.13:02

続・物部氏と蘇我氏の正体

先々週、飛鳥昭雄著の「失われた徐福のユダヤ人-物部氏の謎-」を買い、先週の日曜日ぐらいに読み終えたのですが、以前ここのブログでも書きましたが、物部氏は”2系統”あると想定していたのですが、それは”徐福率いる秦からの亡命者”とそれを征服した”騎馬民族系豪族”という構成ではなく、”徐福系”の”物部氏本隊”と”別働隊”であった”レビ系海部氏”という”2系統”によって構成され、最終的には”海部氏”が”物部本隊”が吸収した、といった内容でした。しかし、僕にはまだ何かスッキリしないものを感じるんです。確かに、徐福一行の中には”兵士”もいたかもしれませんが、しかし、徐福の伝説を記述する「史記」の中の「准南衡山列伝」には、「・・・振男女三千人を遣り、これに五穀の種と百工とを資して行かしむ。・・・」と書かれている事から、徐福が連れてきた主だった人々は”農民”や”技術者”であって、”軍事集団”ではなかった事になります。しかし、いつしか物部氏は強大な”軍事集団”となり、”もののふ”の”語源”となります。おそらく、この”謎”の鍵を握るのが、物部氏の”最大”にして"最強”のライバルとなる蘇我氏に他ならないのではないでしょうか。そして、その後の”武士”につながっていくのではないでしょうか。

蘇我氏の”ルーツ”とされる人物は、「古事記」、「日本書紀」に登場する武内宿祢と言われいます。しかし、調べてみると、武内宿祢からは蘇我氏以外にも、葛城氏、巨勢氏、平群氏、紀氏、そしてなんと波多氏(おそらく秦氏)までもがこの人物を”祖”としているのです。となれば、やはり以前ここで書いたように”蘇我氏=秦氏”であって、”大臣姓”を持つ豪族も皆”秦氏”の一族、という事になってしまうでしょう。では、この武内宿祢なる人物はいったい何者だったのだろうか? ”記紀”によれば、第12代景行天皇の時に東国・北国の”蝦夷征伐”を進言したり、13代成務天皇の時に神功皇后の”朝鮮出兵”を決定づけ、15代応神天皇の時に渡来人を率いて”韓人池”を作るなどしています。これだけでは少々情報が少ないですが、なんとなく彼が”軍事”に長けていて、しかも配下に”渡来系技術者集団”がいた事が伺われます。

しかし、最近の研究では15代応神天皇こそ”初代天皇”である可能性が高いと指摘されているため、それ以前の天皇は皆応神天皇と”同一人物”である可能性があるため、そうなると、それまでの歴代の天皇の時代の出来事の”時系列”が全て狂ってくる事になります。となれば、”神功皇后の朝鮮出兵”は実際は”朝鮮半島からの日本出兵”を意味した事になり、”蝦夷討伐”はそのまま”神武東征”ないし”日本武尊の東征”を意味するのではないでしょうか。しかも、この”蝦夷”には”縄文系先住民”のみならず、”弥生系渡来人=物部氏”も含まれていたのではないでしょうか。となれば、天皇一族を中心とした”渡来系騎馬民族”が物部氏を配下にし、やがて彼らに融合した”騎馬民族系豪族”もおそらくはいたと思われます。

さて、以前蘇我の読みの”ソガ”の語源がサカ族の”サカ”が転じたものではないか?という記事を書きましたが、彼らはおそらく”スキタイ系騎馬民族サカ族”と関係があるかと思われます。更には”釈迦”にも通じる事から、”仏教”との関連もかなり古い段階であった可能性があります。で、僕が考えているのは、”天皇一族(北朝イスラエル系10支族)”の中には朝鮮半島にいた頃から”スキタイ系サカ族”の末裔が存在し、それとは別に釈迦(仏陀)入滅後、”カースト制”を嫌った一部の仏教徒(サカ族)がチベットを経て中国に入り、更に朝鮮半島へ移動して”天皇一族=北朝イスラエル10支族”と融合した可能性もあるのではないでしょうか。その一族が後の”蘇我氏”の母体になったのではないでしょうか。しかし、この状態では彼らはまだ”弱小勢力”でしかなく、後に他の”豪族”、更には秦氏に対して布教活動を行い、それらの豪族から”仏教徒”に改宗した人達がそのまま”蘇我氏”になったのではないでしょうか。であれば、蘇我氏の勢力が拡大したのに反して葛城氏、巨勢氏、平群氏等の勢力が衰退したのも理屈に適います。ただし、秦氏だけは”別格”としてその勢力を保ち続けたのでしょう。そして、そういった動きに対して大反発していたのが”神道”を奉じていた物部氏だった、という事になるのでしょう。

しかし、”正史”においては538年に来日した百済の聖明王によって仏教が伝えられた事になっていますが、これは本格的に仏教を”国教”にするために聖明王を招き入れた、というのが真相で、「日本書紀」においては蘇我氏の”素性”を隠すために聖明王によって伝えられた、と記されたのではないでしょうか。そして、仏教を”国教”にしようと画策した張本人も、実は蘇我氏ではなく秦氏だったのではないでしょうか。何故なら、蘇我氏が滅んだ後も仏教は”国教”として根付いているし、事実上仏教の全国的普及を示唆したのは蘇我馬子ではなく秦氏とただならぬ関係がある聖徳太子だからです。また、物部守屋を討とうとした張本人も実は秦氏で、彼を討って配下にいる物部一族を秦氏の配下に治める事が”真の目的”だったのはないでしょうか。更に、秦氏は物部宗家滅亡後、蘇我宗家を滅ぼして、仏教に関する”絶対的権限”も取得したのではないでしょうか。

こうしてみると、一部の古代史研究家が唱えるように、”皇族・藤原氏側(秦氏も含む)”が本当は”悪”であり、”物部氏・蘇我氏側(聖徳太子一族も含む)”が”正義”である、といった説に近いように感じますが、それでも飛鳥昭雄氏は著書「「未然紀」が解き明かす 真・日本史」の中で、何と”乙巳の変”の首謀者の一人である中臣(後の藤原)鎌足が「未然紀」に登場する鎌足の素性を読み取った上で、実は藤原鎌足は聖徳太子の子だったのではないか?としています。となれば、一変、やはり”皇族・藤原氏側”が”正義”となり、”物部・蘇我側”が”悪”ということになってしまいます。果たして、”真相”はいかに!? そこで、”鍵”を握るのが、物部氏、蘇我氏に融合した”スキタイ系サカ族”の血筋です。

物部氏と蘇我氏の”対立”の原因は、一般的には”宗教の違い”によるものとされていますが、果たして本当にそうなのだろうか? 物部氏と蘇我氏の”勢力拡大”の裏には”軍事力“が存在する事は間違いないでしょうし、その背景には”スキタイ系サカ族”の影がチラついていると思われます。そして、彼らが何故最終的に滅ぼされたのだろうか? 実はこの頃の物部氏、あるいは蘇我氏は”宗教”にそれほど深くは帰依しておらず、あくまでもそれを”道具”として利用していただけに過ぎなかったのではないでしょうか。すなわち、”武力”によって権力を握っていただけに過ぎなかったのでしょう。それによって、彼らは”天”から見放された、という事ではないでしょうか。

でも、物部氏と蘇我氏の中には生き残った者もおり、彼らは”天皇家”と和睦して物部氏が”石上(いそのかみ)氏”を名乗り、蘇我氏が”石川氏”を名乗るのですが、この両名の”語源”が僕が思うには”イスラエル系イッサカル族”にあるのではないか、と考えられるのです。つまり、”サカ族”とは、アッシリア滅亡の原因を作ったスキタイ人が北朝イスラエル人と融合した際、中でもイッサカル族と融合したためにスキタイの呼び方で”サカ族”になったのではないか、と。しかし、これらの一族の宗家もまた、没落の道をたどっているんです。その後、彼らの”残党”が歴史の”裏側”にまわり、秦氏中枢である”八咫烏”と対抗する勢力を作ったのではないでしょうか。

そして、ようやく実権を握るようになった中大兄皇子が”天智天皇”と名を変え、やがて死去すると、弟の大海人皇子が”クーデター”を起こし、”天武天皇”となりますが、その背景に物部と蘇我の”残党勢力”が関わっていた可能性はありますね。”奈良時代”の後期に登場した天皇になろうとした僧・道教、”武士の台頭”と”幕府の成立”、”南北朝動乱”、”応仁の乱”、”本能寺の変”、時代は流れて”坂本龍馬暗殺”、”討幕・明治維新”、”5.15/2.26事件”といった歴史的出来事にも彼らはおそらく関わっているでしょう。更には、現在の政府、警察、あるいは暴力団にも彼らは絡んでいるのではないでしょうか。世の中が”陽と陰”で構成されているのだとすれば、”八咫烏”に対する”反勢力”はおそらく存在し、それによって鎌倉時代以降日本は”二元政治”を行われており、現在では”天皇家”はあくまでも”象徴”であるため、事実上国を動かしている政府に連中が関わっている可能性は考えられます。

まぁ、これらはあくまでも僕の”推測”に過ぎないのですが、世の中には必ず”理不尽”な部分が付きまとっており、それらが暗黙の内に見過ごされ、それを言及した人間があべこべ”不幸”になる! なんだかんだ言っても、世の中”正義”より”悪”が優遇されているように見えてならないのは事実! これらを意図的に仕掛けている連中がいる可能性はあると思います。
PR

無題

はじめまして。サカ族や蘇我氏を調べていて辿り着きました。大変興味深い内容ですね。
坂本龍馬の墓石には「坂本龍馬紀直柔」と彫られていますが、紀氏なのでしょうか。そしてサカ族なのでしょうか。ちなみに武内宿禰はブナイ・ヤドヤと読めますが、B'nai Judaとはユダヤ人の意味になります。
武内宿禰→紀氏→坂本家の系図
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-kishi.html
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-sakamoto.html

その場合、明治維新の目的は何だったのでしょうか。幕末志士の写る「フルベッキ写真」の宣教師フルベッキはユダヤ系のようですね。イエズス会等もそうかもしれませんが、ユダヤ教を布教するためにキリスト教のふりをして旧約聖書を広めるという場合があると思います。

  • 2011年09月13日火
  • もっちゃん
  • 編集

蘇我氏について

蘇我氏は謎の氏族ですね。

蘇我馬子 = 蘇る我は馬小屋の子

聖書の内容を知っていたようです。
伊勢地方には、「蘇民将来」の護符が年中掲げられています。

  • 2011年09月17日土
  • 蘇我
  • 編集

無題

聖徳太子誕生逸話の
>皇女が「仰せのままに」とうなずくと、
という部分は特に、聖母マリアの「神の御心のままに」とガブリエルにつぶやいた言葉を知っていたとしか思えません。英語ではLet it beで、ビートルズがMother Mary...と歌いますが。

ところでキルギスのイシク・クル湖では、サカ族の墳墓群や青銅器などが発見されているようですが、イシク・クルはそのまま、イッサカルだと思います。私はキルギスに住んでいましたが、大切な客にパンと塩を戸口で与える、女性は頭にかぶりものをする、誘拐結婚など、古代イスラエルの習慣が残ります。日本人とは昔兄弟だったと誰もが話します。
武内宿禰からは蘇我氏もですが「坂本臣」が出ているので、龍馬の先祖(紀氏)もそこから坂本姓を名乗ったのではないでしょうか。

  • 2011年09月19日月
  • もっちゃん
  • 編集

ユダヤ人とサカ族

”南朝系ユダヤ人”と”サカ族”は直接的には関係ないかと思いますが、中央アジアに国家を築いていた”ハザール人”が”ユダヤ人”に成りすましたように、”ユダヤ人”に成りすました”サカ族”も存在した可能性があるかと思います。

また、”物部系サカ族”と”蘇我系サカ族”は本来”別系統”で、最終的に融合した可能性はあるともいます。

坂本龍馬の出自

坂本龍馬自体は、元々「才谷屋」という”商人”の家柄ですが、曽祖父の時代に”郷士株”を買って”武士身分”になったといわれていますので、龍馬自体が”蘇我氏”や”紀氏”と関係あるかどうかは不明です。

ただ、名前に”坂、阪、酒・・・”等の文字が入る家系が”サカ族”の末裔である可能性は高いと思います。特に、”東漢氏(やまとのあやうじ)”の末裔とされている坂上田村麻呂は”日本最初の征夷大将軍”として”蝦夷征伐”をした事を考えても”サカ系騎馬民族”の血を引いていた可能性はあるかと思います。

ハザール人とユダヤ人をむすびつける理論の現状

お返事ありがとうございます。ハザール人=偽ユダヤ=アシュケナージ については、イスラエル建国させたくない反ユダヤ連中が広めている説で矛盾が多いと思います。ハザール自体がそもそも離散イスラエル支族である可能性があり、その子孫がカザフスタンやキルギスのY染色体R系統ではないでしょうか。
http://www.britam.org/Questions/QuesKhazars.html

ハザール説を言うキリスト教系日ユ同祖論者には注意が必要ではないでしょうか。ネオナチ系なのか縄文系なのか。。

  • 2011年09月19日月
  • URL
  • もっちゃん
  • 編集

ハザール人=アシュケナージ?

確かに、中央アジアに国を構えていたハザール人が、完全な白人だったのかどうかは疑問を感じていました。おそらく、ハザール国滅亡後、ヨーロッパに離散した後、その一部がある白人系民族に吸収される形でアシュケナージとなったのではないでしょうか。

そして、彼らはアメリカを背後で動かすようになり、そのアメリカ主導でイスラエルが建国されているのです。更に、本物のユダヤ人はその配下に治められているのです。そうなれば、イスラエル建国に反対する勢力が現れるのも当然かと思います。

  • 2011年10月09日日
  • 東国夷(携帯)
  • 編集

付け加えると・・・

最新記事の「現在の日本の仕組み」の中で紹介した、飛鳥昭雄/ベンジャミン・フルフォード著「二人だけが知っている超アンダーグラウンドの仕組み」には、”ヨーロッパ系悪魔教徒”の事が書かれていましたが、おそらくハザール人の一部がこういった連中に吸収され、乗っ取られる形でアシュケナージは形成されていったのではないでしょうか。

そして、彼らは”ユダヤ人”の名の下に”経済”を支配し、”軍事力”をも支配し、更に”アメリカ合衆国”を支配し、”イスラエル”を建国し、最終目的として”世界統一政府樹立”を企てている、という説があります。

ちなみに、本来のハザール人は、現在でもそうですが”モンゴロイド”をベースとし、そこに”白人系アーリア民族”が混血した典型的な”中央アジア系民族”だったと僕は推測します。そう考えれば、彼らの中にも”イスラエル系”の血筋が入っていた可能性はあると思います。

古代史を語るには 石渡信一郎から

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』

で、アメノタリシホコは
蘇我馬子であり
用明天皇でもあり
聖徳太子でもあります。

この4名は 実は たった一人の実在人物です。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

で、 通りすがりンのものですが 
石渡信一郎史学こそ 真の 日本古代史学です。
ぜひ感想聞かせてください。

  • 2012年08月29日水
  • むらかみからむ
  • 編集

無題

藤原氏は、悪者。蘇我氏は、ヒーロー。が事実ではないでしょうか?その反対を支持している、飛鳥あきお氏は、藤原氏だから蘇我氏は、悪者。藤原氏は、ヒーロー。だと言っているんだと思います。藤原不ひとと同じです。日本書紀の内容を改竄したのだから。

  • 2013年08月22日木
  • NONAME
  • 編集

寄生虫民族の阿責がしりたいw

ヲシテ文献をお読み下さい

嘘は無限 真実は一つ
近江泥棒伊勢乞食ってねw

  • 2013年12月24日火
  • OB-ONE
  • 編集
URL
FONT COLOR
COMMENT
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
PASS

TRACKBACK

TRACKBACK-URL