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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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04.25.20:08

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09.21.09:37

ガリレイ裁判の真実

前の記事でも書いたように、今の日本には”超常現象”を信じる人は大分減ってしまったのは事実です。もっとも、”否定派”の人は昔からいましたけど、こういった”否定派”の”否定派”たる信念には、17世紀ヨーロッパの”ある事件”が関わっており、彼らが窮地に立たされると、決まってこの事例を”切り札”として持ち出します。その事件とは、”ガリレイ裁判”なのです。”ガリレイ裁判”とは、1616年(日本では徳川家康が死去した年)に、イタリアの物理学者にして天文学者だったガリレオ・ガリレイの唱えていた”地動説”がローマ教会によって裁判にかけられ、以降”地動説”を唱えることが禁止され、ガリレイも生涯ローマ教会の監視下における苦しい生活を強いられた、という事件です。こうなった理由として、当時のローマ教会(カットリック教)の教義が”天動説”だったから、と言われてきましたが、どうもこの話は19世紀に作られた”作り話”だったようです(呆) その”真相”は、どうやらほぼ確信的になった”地動説”によって教会に対して発言力を増していったガリレイへの修道士達の”不満”によって起こったものだったようです。裏返せば、当時の”カトリック教徒”そのものが”科学”に対して無知だった訳では決してなかったのです。でも、このことが原因で、現在では”科学”と”宗教”ひいては”超常現象”が”相容れないもの”とされ、”科学びいき”の人の多くは、”宗教の教義”は、全て人間が作った”創作神話”であり、”超常現象”もその多くは”科学未発達による勘違い”か、果ては”インチキ”と決めつけてしまっているんです。そういった意味でも、こういった経緯に至った背景を説明しておく必要があると思います。

まず、古代の天文学者、哲学者、物理学者の多くは地球を中心に他の星が公転するといった”天動説”を唱えていましたが(実はこの頃も”地動説”を唱えていた人はいたようです)、”大航海時代”に突入し、”羅針盤”が登場すると、”星の動き”に矛盾点がみられることが発覚。それに対して”地動説”をもってそういった”矛盾点”を解決しようとした人物が、”カトリック祭司”だったニコラス・コペルニクスです。そう、”地動説”を事実上この世に轟かせた最初の人物は、何と”カトリック祭司”だったんです! これで、ちょうど彼が死んだ後(1543以降)日本に渡来したカトリック宣教師が、荒廃した仏教徒(比叡山や本願寺などの僧)を”皆殺し”にした織田信長によって手厚く”庇護”されことも納得がいくのです(ちなみに、この時の宣教師は、信長に地球が丸いこと、更には”自転”と”公転”をしていること、そして”地動説”を教えて、信長もそれを受け入れたようです。)。しかし、コペルニクスもその当時には”万有引力”の定義がまだなかったため(1665年にイギリスの哲学者・アイザック・ニュートンによって万有引力が発見される。)、高速で回転しているはずの地球上でその動きが感じられないのと、空を飛んでいる鳥が置き去りにされないこと、更には真上に投げた石が同じ場所に戻ってくることの理由が説明できず、やがて”天動説”を支持する者が増えてしまったようです。

されど、それでも”コペルニクス論”を支持する者は何人か登場し、”ケプラーの法則(惑星の公転軌道の法則(①楕円軌道の法則、②面積速度一定の法則、③調和の法則)”で有名なヨハネス・ケプラーによって地球の”公転”が証明され、そして、そういった理論を継承したガリレオ・ガリレイによって、”慣性の法則”の発見、””木星の衛星”、”金星の満ち欠け”の観測、更には”太陽の自転”等を確認することによって、”地動説”が優位になっていきました。ただし、この時はまだ”アイザック・ニュートン”はこの世に生まれていなかったので、鳥が空中に置き去りにされないこと、真上に投げた石が同じ場所に戻ってくること等は証明できずにいたようです。しかし、ガリレイは、”地動説”が確信的になると、ローマ教会に聖書の教義に”地動説”を載せるように働きかけ、しまいには当時のローマ教皇・ウルバヌス8世にまでそれを直訴して無理矢理許可を得ようとしていたので、ローマ教会の多くの司教達に反感を買ってしまったことが、その後の”裁判”に発展してしまった、という事だそうです。つまり、元々”ローマ教会”が”地動説”を否定していた、というよりは、ガリレイの強引な行動が結果的にローマ教会全体が”地動説”を否定せざる負えない状況へ導いてしまった、という事ではないでしょうか。

しかし、年代が下ると、”歴史”というものには洋の東西を問わず、”敗者”には”美談”が付いて回るのです。日本でいえば”忠臣蔵”がいい例です。”史実”では”敵役”とされた吉良上野介は本当は”名君”だったようですし、むしろ浅野内匠頭の方が”癇癪持ち”で、もっと言えば”バカ殿”だったのでは?という説もあるようですからね。源義経も実際には平家の兵が乗った舟の船頭をも殺している訳だし、坂本龍馬らの幕末の”土佐下級武士”も藩主・山内容堂や上士達によって必要以上の”差別”と”迫害”を受けていた、という話も本当かどうかは怪しいですからね。確かに、ガリレイを裁判にかけ、更には”罰”を与えたローマ教皇とローマ教会の人間は”権力”という化け物に憑りつかれていた事は確かなのでしょう。しかし、そのせいで”カトリック教”そのものが”虚構の塊”というレッテルを貼られてしまったのは事実です。まぁ、こういったことが原因で、やがて”プロテスタント派”が枝分かれすることになったのでしょうけど、結局は”宗教そのもの”に問題があるのではなく”権力”に問題があるのだと思います。そういった意味では、今の日本の学界だって、十分”権力の塊”に思えてならないんですがね(苦笑)

さて、となると、織田信長の時代に日本に渡来していたポルトガルの”カトリック宣教師”達は、信長に”地球が球体である事”、”地球が自転、公転をしている事”、”地球が太陽の周りをまわっている事(地動説)”を教え、信長はそれを受け取ったようですが、その当時はすでに”コペルニクス論”はあまり支持されなくなっており、カトリック教徒の間でも”天動説”の方が優位になっていたはずなのです。にもかかわらず、当時来日していた宣教師達は何故”地動説”を説いていたのか? 僕は、この時に日本に来ていた宣教師達が、実は”ただの宣教師”ではなかったんじゃないか?と考えているのです。かなり優秀な宣教師だったのではないでしょうか。だからこそ、信長は彼らを手厚く庇護したのだと思います。では、彼らを取りまとめていた”イエスズ会”は、何故そのような優秀な宣教師を日本に差し向けていたのだろうか? よく言われているような”日本征服計画”がその裏であったからなのだろうか? 確かに、その可能性もあるのでしょう。しかし、僕はこの”イエスズ会”というのが、実は”原フリーメーソン”だったのではないかと考えているんです。飛鳥昭雄氏は、「実は日本には古代から”フリーメーソン”が存在していた。」と言っていますが(おそらく”八咫烏”を中心とした秦氏勢力)、となると、ヨーロッパにも”宗派”にとらわれないキリスト教徒の”結社(フリーメーソン)”が古くから存在していてもおかしくないんです。となると、彼らは偶然日本に来たのではなく、もしかすると”秦氏一族”に招聘された可能性もあるのではないでしょうか。
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