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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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08.18.13:06

本能寺の変の真実④ -真犯人!?天海の正体-

天正10年(1582年)6月2日(新暦6月21日)、京・本能寺では実際は一体何が起こっていたのだろうか? まず、信長は”中国攻め”を行っていた秀吉から”援軍要請”を受け、”茶会”の予定があった京・本能寺で宿泊し、その後に中国地方へ向かう予定でした。しかし、これは宗久ら”商人/茶人”が仕掛けた”罠”ではないでしょうか。そして、”協力者”秀吉が信長をおびき寄せるために”援軍要請”をし、更には信長と光秀を引き離すために光秀を自軍の”部将”とするように信長に懇願しています。当然、本来”格下”であるはずの秀吉の”部将”など光秀にはもっての外の話。しかし、これに反論した光秀を信長は叱責し、「近江・坂本、丹波・亀山から出雲・石見へ領地を移封する。」という無理難題を押し付け、光秀を無理矢理”中国討伐”へ向かわせますが、この”領地移封”の話も”秀吉の時代”更には”江戸時代”に書かれた書物の中に書かれていたのであり、実際信長がこういった命令を下していたのかは不明のようです。そして、光秀は居城である丹波・亀山城を出て、進路を突如京へ向け、「敵は本能寺にあり!」と家臣に訴え、京・本能寺に向かう事になりますが、これは本当に信長を討つためだったのだろうか? いや、むしろ信長を救うために本能寺へ向かった可能性もあるのではないでしょうか? 光秀も、”謀反”を唆されていただけに秀吉による”援軍要請”が信長をおびき寄せるための”罠”であることに気付いたのでしょう。しかし、これこそ秀吉の仕掛けた罠だったのでしょう。”本能寺の変”の”実行犯”を光秀に仕立て上げるために!

では、実際に本能寺で信長を襲ったのは誰だったのだろうか? おそらく、井上慶雪氏が著書「本能寺の変・秀吉の陰謀」に書いているように秀吉の妻・おねの親族である杉原家次率いる軍だったのでしょう(他の”光秀冤罪説”を唱える研究者の説では、黒田官兵衛、細川藤孝、蜂須賀小六らの軍も参加していた、という説がある)。となると、信長を討ったのは”秀吉軍”という事になるのだろうか? もし、そこに光秀が大軍を率いて現れたとしたら、”秀吉軍”による信長襲撃は阻止できたでしょう。しかし、本能寺には突如火がかけられ、そして信長をはじめ側近らは自刃。されど、肝心な”遺体”が発見されていないんです。それによって、”地下道”から密に逃げたのではないか?といった説もあるようです。いや、”何者か”が信長を連れ出し、”別の場所”で殺した、という説もあります。そして、”サイキックエンターティナー”にして”漫画家”の飛鳥昭雄氏もかつて著書の中で「信長は”秦氏”によって薩摩に連れ出され”処刑”された。」みたいなことを書いていましたが、更に、最近のある著書では「信長は”陰陽師”天海に殺された。」と書かれていました。飛鳥氏はあくまでも”陰陽師・天海”と書いており”明智光秀”とは書いていないんです。という事は、やはり天海と光秀は”別人”であり、信長を殺したのは光秀ではなく天海、という事になるのではないでしょうか。それでは、何故後の天海にまつわる史跡には光秀とのかかわりが深いのだろうか? それは、ずばり光秀が天海の代わりに秀吉によって討たれてしまったからに他ならないからでしょうか。

天海は、本能寺周辺にて”光秀軍”と”秀吉軍”が戦っている最中、突如本堂に火を放ち、そして、信長を担ぎ上げ、”地下道”を通って本能寺を脱出。その後は、おそらく堺で家康を接待していた今井宗久、津田宗及らを通じて密に堺から海路を通って薩摩へ向かい、薩摩で”秦氏系”の戦国大名・島津義久の立会いの下に信長を”処刑”した、という事なのではないでしょうか。その間、明智光秀は毛利と”和睦”し、中国地方から”猛スピード”で京付近へ戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉と山崎で戦い、敗北、逃げる途中で京の小栗栖という所で”落ち武者狩り”に遭い殺害されます。そして、秀吉が”謀反人・明智光秀”を”敵討ち”した功績によってやがて”関白”、更には”太政大臣”となり、名実ともに”天下人”となります。しかし、このことがその後の天海を一生後悔させたのは言うまでもないでしょう。光秀が自分の代わりに殺されたばかりか、”謀反人”という汚名まで着せられたわけですからね。天海は、家康の”参謀”を務める傍ら、生涯光秀を弔い続けなければならなかったのではないでしょうか。では、一体天海とは何者だったのだろうか?

天海という人物は、”記録”では東北地方の豪族・蘆名氏の出自で陸奥出身とされていますが定かではなく、前半生がほぼ不明に近いのは事実。それ故”天海=明智光秀説”が今日では”有力説”にまでなってしまったのでしょう。しかし、もし本当に天海が光秀なのだとすれば、1527年生まれの光秀は、1643年に”116歳”で死んだことになります。でも、いくらなんでも、”最先端医療”の発達した平成25年(2013年)現在ですら”116歳”という高齢は珍しいのに、”戦国時代(室町時代後期~安土桃山時代)”にこの年齢まで生きるのはほぼ不可能と考えていいでしょう。それによって、光秀の”娘婿”にあたる明智秀満(左馬之助、光春とも)という説も出てきますが、彼もまた1536年生まれで1643年時点では”107歳”となり、こちらも無理があるばかりか、両者ともそもそも家康とそこまで関わりが深いとは思えないんです。もし彼らが天海なのであれば、もっと早くから家康と関わっていなければおかしいはずですからね。いずれにしても、天海はかなり早い段階から家康と関係していたと考えた方が妥当なんです。では、天海は果たして何者なのか?

飛鳥昭雄氏は、ある著書では「天海は、信長が伊賀、甲賀、雑賀、等の”忍者の拠点”を襲った仕返しとして信長を殺した。」といったことを書いていましたが、となれば天海は”忍者”だったのだろうか? 家康配下の”忍者”として有名なのが服部半蔵正成。半蔵は、”本能寺の変”の後、家康を連れて家康の人生最大の”苦難”とされた”伊賀越え”の道案内をしています。そうしたことを考えると、”天海=服部半蔵”という可能性も出てくると思います。服部氏は”機織り”が転じた名前で、”秦氏”の一族といわれています。生まれ年も家康と同じ1542年で、まだ光秀、秀満に比べれば可能性はあると思います。1597年に死去した、とされていますが、その時点で本格的に”天海”という僧になっていたとすれば、その”死”を”フェイク”と捉えることもできるでしょう。しかし、そうだとすると、天海に関わる記録には”伊賀忍者”と関連する記録が全くと言っていいほどないんですよ。とすれば、天海は”歴史上人物”と”同一人物”とは考えない方が良さそうです。

おそらく、単純に考えれば、天海は家康の配下にいた無名の”陰陽師”だったと考えた方が妥当なのだと思いました。”戦国大名”の多くは戦場には必ず”陰陽師”を連れて行っていたようで、これは”長篠の戦”の屏風にも描かれています。逆に言えば、信長を殺した”真犯人”の可能性のある天海が、当時”無名の陰陽師”だったとしたら、秀吉が”敵討ち”をした所で到底”天下人”にはなれません。されど、”将軍家”更には”摂関家”ともつながりがあり、”織田家臣”の中で事実上”ナンバー1”と言っても過言ではない明智光秀であれば、”敵討ち”をすれば”天下”を取れる、と秀吉は考えたのでしょう。そして、光秀は、秀吉の”天下取り”のために”無実の罪”を着せられ殺されました。そして、”真犯人”天海はこのことを一生悔やみ続け、生涯を家康と光秀に捧げた、という事ではないでしょうか。
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