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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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11.17.04:09

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08.11.14:13

本能寺の変の真実③ -光秀の無実と秀吉、家康の正体-

今井宗久、千宗易(利休)、島井宗室らの”商人/茶人”たちは、どのようにして“信長暗殺”を実行に結び付けたのだろうか? まずは、彼らは当時信長の”参謀”的存在にして、文化面でも面識があり、”将軍家”や”摂関家”ともつながりがあった明智光秀を”実行犯”に仕立て上げようとしていたのではないでしょうか。光秀が時折信長と意見がぶつかっていたことを知っていた彼らは、その鬱憤を晴らさせようとしていたのでしょうが、おそらく光秀は思っていたより信長に対しては”忠義”を貫いていたのでしょう。信長にいかなる”仕打ち”を受けようとも、光秀の信長に対する”忠誠心”は揺るがなかったのではないでしょうか。宗久らが業を煮やしていると、とある武将から密書が届いたのでしょう。その武将とは、実は”中国攻め”をしていたはずの羽柴(豊臣)秀吉だったのではないでしょうか。秀吉は、その密書に、「光秀が動かないのであれば、それがしが協力いたしましょう。その代り、その代償として、それがしを”天下人”にしていただきたい。」といったことを書いたのではないでしょうか。しかし、表向きには”恩”のある信長を直接は殺したくなかった為、光秀に罪を着せようと画策したのではないでしょうか?

かくして、宗久、宗易(利休)らは秀吉の協力を得たわけですが、それでも彼らは秀吉をあまり信用していなかったのではないでしょうか。何故なら、秀吉は”通説”によるところの”農民出身者”ではなく、”山の民(山間で狩猟・採集生活を行ったり、行商、木地師、竹細工師、猿楽師、傀儡師等で生計を立てていた漂白民)”である可能性が高く、こうした人々は”忍者”のようなこともしていたようです。そもそも、”忍者”のルーツも実は”秦氏”といわれているのですが、”先住民”の血を濃く引いていると思われる”山の民”は、”秦氏”というよりは彼らの”ライバル”的な一族で、本来は”原天皇家(正確には”邪馬台国王族”)であった物部氏と融合したと思われます。すなわち、秀吉は”物部系”だったのではないでしょうか。そこで、宗久らは彼らと同じ”秦氏”系の”賀茂氏”の血を引くといわれている徳川家康に接近したのではないでしょうか。現に、”本能寺の変”当日、家康を堺に招いて接客していたのが今井宗久と津田宗及だったわけですからね。また、中にはそれでも光秀に”謀反”を起こさせようとしていた人物もいたわけで、有名な愛宕山の”歌会”で光秀に接近し、”謀反”を唆したとされる吉田兼見という”神官”で、「徒然草」の著者である吉田兼好と同じ”秦氏系卜部氏”の一族です。彼は、元々足利将軍家お抱えの神官で15代将軍・足利義昭に仕えていた光秀とは親密な間柄で、信長に”将軍職”を追われた義昭から光秀に”謀反”を起こさせるように指示されていたのではないでしょうか。

そして、”本能寺の変”の数日前、安土城にいた信長の元に秀吉から”中国・毛利攻め”の援軍要請があり、急遽、信長は家康の接待をしていた光秀を秀吉の部将として中国行きを命じ、信長は京の本能寺に立ち寄った後に中国へ向かう予定でした。しかし、”2つ目の居城”である丹波・亀山城で戦支度を整えた光秀は、突如進路を京に向け、そして、天正10年(1582年)6月2日(新暦6月21日)、信長が宿泊していた本能寺を襲撃(本能寺の変)、信長は49年の生涯を閉じました・・・。というのが、”通説”の”本能寺の変”の概要です。しかし、本当に本能寺にいる信長を襲ったのは光秀だったのだろうか? 井上慶雪著「本能寺の変・秀吉の陰謀」では、秀吉が妻・おね(北の政所)の親戚にあたる杉原家次である、としています。しかし、本能寺からは信長の遺体が発見されていません。一説では、本能寺は実は”火薬倉庫”であり、信長が本能寺に放った火が火薬に引火し、本能寺は爆発同然に焼失したため、信長の遺体が完全に消失し、”灰”になった、と。されど、信長は”何者か”に本能寺を連れ出され、”別の場所”で処刑された、という説もあります。”バテレン説”、”薩摩・島津説”、”四国・長宗我部説”等(ちなみに、島津氏と長宗我部氏も”秦氏”だといわれています。) ところが、飛鳥昭雄氏は、著書の中で「信長は伊賀、甲賀等の”忍者の里”や高野山を襲った罰として、”陰陽師”天海に殺された。」と書いています。天海といえば、”正体”は光秀である、とかねてから噂があり、日光東照宮に祀られている天海像の法衣に”桔梗紋”が彫られていたり、東照宮内に明智光秀が祀られていると思われる祠があったり、日光には天海が名づけたといわれる”明智平”という場所があったり、光秀の居城があった近江・坂本には天海が建立した”日吉東照宮”があったりと、天海の周辺には光秀に関わるものが数多く存在するのは事実です。しかし、1527年生まれの光秀が、1643年に死去している天海と”同一人物”とするには少々無理があるのと、光秀は”本能寺の変”の直前に安土城で家康の”接待役”を務めていましたが、それだけで後の家康の”参謀”になるとは思えません。

では、何故こうも天海と光秀には”関連性”が強いのか? そして、飛鳥氏の言うように”本能寺の変”の主犯が天海なのであれば、その正体はいったい誰なのか? 次章で検証したいと思います。

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