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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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11.26.12:43

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12.08.23:50

上杉謙信とイエス・キリスト-女説の真相と義人伝説-①

”戦国武将”の中で”野心”のためではなく”義”のためだけに生きた武将、と言われている”越後の虎”上杉謙信。そして、自らを”毘沙門天の生まれ変わり”とし、そういった”信仰心”から生涯妻を娶らなかった、とされています。しかし、そのエピソードを時代が下るにつれて多くの歴史家が”疑問視”し、いつしか”同性愛者説”がはびこるようになり、更にそれから10年以上も経った今、今度は”女性説”があたかも”真実”であるかのように世にはびこるようになりました。まぁ、こういった”展開”自体に既に”矛盾点”が現れているのですが、まずは謙信が”男性”か”女性”かの検証をしてみたいと思います。

これまでの”同性愛社説”では、只単に「”戦国武将”のクセに”結婚”しないのは不自然であり、しかも、”戦場”に女性を連れて行けないため、代わりに”小姓”を女性代わりにしていたのが常識だった。」としていたのに対して、”女性説”が唱えられるようになってから、いきなり多くの”根拠”が発見されているんですよ、まるで作られたかのように(汗) これらをざっと挙げれば、①彼の”死”の原因が”脳溢血”ではなく、女性の”更年期障害による夫人病の一種”である”大虫”である、という記録がある事。②合戦中にも関わらず1ヶ月周期で腹痛を訴え、兵を引き部屋に引き篭もったりしている事。③謙信の遺品の衣類を見てみると真っ赤であったり、とても男物とは思えないものを好んで着ており、更に彼が”傾奇者”だった、という記録はないとの事。④謙信が書いた手紙などを見ると、表現や気の使い方が女性的で男性とは思えない事。⑤スペインの国王宛に書かれた手紙には「景勝の叔母」と記載されている。 ⑥当時、民衆の間で「男もおよばぬ大力無双」(男性を差し置いて、またとない強さ)と歌った歌がある。 ⑦当時、女性城主は珍しくなく(例えばおつやの方)、江戸時代に入ってから武家諸法度により初めて女性城主が認められなくなった。そのため江戸時代から今現在に至るまで「城主=男」という常識が存在する事。⑧ 関ヶ原の戦い以前から徳川家と対立しており、やっと許しをもらったばかりの上に、外様大名で立場が弱かった上杉家は大幅に土地を没収されることは目に見えており(実際、米沢30万石に減転封されている)、その上武家諸法度の城主=男により「謙信の代でお家断絶している」と更に言い掛かりをつけられるのを恐れ、謙信が女性という証拠になるものを処分し、無理矢理男性にする必要があった事。⑨ 上杉謙信の肖像画は見るからに男性であるが、これは江戸時代に作成されたもので、謙信を男にする必要があったため不自然にヒゲを生やした男の肖像画を描かせたのではないか?と考えられ、また、江戸時代まで肖像画がなかったという点も不思議で、上記理由により処分してしまったと考えると辻褄が合う事、などが挙げられます。この検証は後ほどするにして、 僕が思うには、こんな”根拠”が出てくる以前に、何故”同性愛者説”が出てきたのだろうか? このような”根拠”があるにもかかわらず10年以上も”同性愛者説”が唱えられていたのはおかしいです。それに”生涯独身”という事であれば、”応仁の乱”の立役者の一人、細川勝元の嫡男政元も”独身”だったのに、彼は”同性愛者説”更には”女説”はありません。更に、”戦国武将”が結婚しないのを”不自然”とするなら、”女性”が”戦国大名”になるのは尚更”不自然”なはず! 

もっと掘り下げれば、”下克上”の時代にそもそも家臣達が女性を”大名”に押し立てるのはおかしいです。この時代の”血の気の荒い武将”であれば、”女領主”なんてとっくに殺して自らが”当主”になる事を選ぶのが普通でしょう。それに、謙信は”関東管領”上杉憲政の”養子”となって”関東管領”を引き継いでいます。謙信が”女性”だった場合、”名門”上杉家がそれを認めるはずがないと思います。さらに、謙信は13代将軍足利義輝とも謁見しているはず。”足利将軍家”が”女性当主”なんて認めるはずがないと思います。ましてや”関東管領”であれば尚更です! 上記の”女性説”の根拠の⑦に関しても、”おつやの方”は表向きにはあくまでも”養嗣子”坊丸の”後見人”であり、このような例なら北条政子や淀君、それから少し違うが日野富子にも見られる事です! さらに”一豪族”と”戦国大名”では”格”が違いすぎです。こうして考えると、ちょっと”女性説”には無理があるようにも思えます。というか、このような”説”が出てきた背景には”何か”を隠す目的があるようにも思えてならないんです。おそらく、”真に秘密”を隠すための”カムフラージュ”ではないか?と思うんですよ。

で、その”真相”を探る前に、まず謙信というと”生涯独身”というイメージが浮かびますが、多くの人は”戦国武将”が”独身”である事はあり得ない、としています。でも、僕はそうは思いません。”戦国時代”という時代は、隣国との関係を保つために”政略結婚”が頻繁に行われ、それによって”妻”の数が増え、”建前上”の”正室”、”側室”はあれど、それらがやがて”家督争い”につながるのは必定だったはず。だからこそ、それを逆手にとってあえて”独身”という手段を選び、”家督争い”を避けた、という見方もできると思うんですよ。”家督争い”は最悪の場合”御家分裂”を招き、それが原因で滅ぶ事もありうる訳ですからね。これは謙信自信も味わっている事ですから。でも、どうしても家臣が”実子”でなければ跡を継がせなければならない、という声があったのならば、”愛人”を作ればいい話なんです。事実、謙信にはかつて”恋人”と思われる女性がいた事が記録されていたはずなんです。でも、最近これらは”無視”されています。”否定”ではなく”無視”です! そして、その女性とは別れた、という事になっていますが、もし、彼女が”内縁の妻”になっていたとしたら? 更に、その女性との間に生まれた子こそ謙信の”後継者”である景勝だとしたら? そして、謙信の姉(仙桃院)夫婦(一族の長尾政景夫婦)の”実子”として育てられ、やがて謙信の”養子”という形になったとしたら? まぁ、”根拠”は全くないですが、”可能性”がないとは言えないと思います。現に、景勝の父とされる長尾政景が妙な死に方をしているようですからね。それに、どうも政景には景勝の前に”長子”が存在していて”早世”している、という部分も引っかかります。まぁ、いずれにしても、もし、謙信に”内縁の妻”と”隠し子”が存在していたとすれば、”義将伝説”に傷が付きます。それによって、おそらく”封印”されたのでしょう。ちなみに、謙信が本当に”女性”だった場合、それを隠すためにむしろ”カムフラージュ”として”妻”を娶ったはず! しかし、堂々と”女性”であると名乗っているのなら、最初から彼女は”女性”として歴史舞台に登場しなければおかしいはずなんです!

となると、謙信は本当に”義の武将”だったのか?という部分も怪しくなると思うんです。でも、彼は後世”義人”とされています。そして、”歴史上人物”では聖徳太子や空海が”義人”、”聖人”とされています(石田三成や大石内蔵助はあくまでも主君に対して”義”を通しただけで、”義人”と呼べる器ではなかったと考えています。)。それと、源義経もそれに近いかもしれません。彼らの共通点は、”秦氏”であり、さらには”イエス・キリスト”も関係してくるでしょう。となると、僕は謙信にも”秦氏”さらには”イエス・キリスト”との関連があるのではないか?と考えているんです。そして、そこに知られてはならない”秘密”が隠されているのではないかと考えています。次の章で、その事を詳しく検証したいと思います。

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12.04.22:12

第四の人種、オーストラロイドの謎③-インド大陸の分裂と北上-

まず、飛鳥昭雄氏は著書「地球膨張の謎と超大陸パンゲア」 の中で、地球には元々大陸は一つしかなく(超大陸パンゲア)、”ノアの大洪水”によって海中に沈み、やがて地球がその水を吸収した事によって”膨張”し、それによって大陸が今の形に分裂した、としています。その過程の中で、インドはおそらく初めはアフリカにくっついていたのでしょう。それから”分裂”し、インド洋を北上。そして、ユーラシア大陸とドッキングし、それによって”造山運動”が起こり”ヒマラヤ山脈”が出来た、という事になるでしょう。

しかし、”ノアの大洪水”が”史実”だとしたら、その頃既に人類は存在していた、という事になります。すなわち、アフリカ大陸にはノアの次男?、ハムとカインの血を引くエジプタスの間に生まれたカナンを祖とする黒人種が存在し、彼らはおそらくインドに相当する部分にも広がっていたのでしょう。しかし、やがてインド大陸はアフリカ大陸から分裂。インド大陸はそのままインド洋を北上。その際に、インド大陸にいた黒人種の一部は、舟でインドネシアから太平洋へ広がり”メラネシア人”の祖となったのではないでしょうか。

その頃、ユーラシア大陸では、他の人種とは隔離して生活していた、アダムとイブの長子で弟アベルを殺した罪により”死ねない体”になってしまったカインと、”クル病”を患った事によってやはり他の人種から隔離されていた”ネアンデルタール人”と呼ばれた人達が、やがて”共同生活”を始め、更に彼らの間に生まれた人種(後のオーストラリア原住民=アボリジニ)が未知の大陸”オーストラリア”を目指して南下。しかし、その頃はまだ”インド”はインド洋上にあったため、今のネパール辺りから舟に乗ってインドネシアなどの島々を渡りながらオーストラリアを目指したのでしょう。しかし、その一派の中にはオーストラリアと間違えてインドに漂着した人達もいた可能性はあるでしょう。それによって、先にその大陸にいた”アフリカ系黒人”とやがて融合。そして、大陸はその後ユーラシア大陸と衝突。それから月日を経た時、西方からイスラエル系の人達がやってきて彼らとも融合し”ドラヴィダ人”となり、”世界四大文明”の一つである”インダス文明”を築く事になります。しかし、北方からアーリア人が侵入。それによって”インダス文明”は崩壊し、ドラヴィダ人はインド南部へ追いやられる事になります。されど、後々アーリア人とも混血が進み現在のドラヴィダ人につながるのでしょう。故に、彼らの”髪質”は”波状毛”ないし”直毛”なのでしょう。

一方、インドネシアから太平洋へ渡った”アフリカ系黒人”は、その後そちらに渡ってきたアボリジニや南方モンゴロイド等と混血し、”メラネシア人”を形成していったのでしょう。

でも、”ある連中”にとってはこれらの事はおそらく”タブー”なのでしょう。”聖書”の記述が”史実”であり、”規定科学”の誤りが露呈する事を恐れた連中が、この事を封印するために”アフリカ黒人”と”メラネシア人”をあたかも”無関係”であるかのように仕立てたのではないでしょうか。そして、その”連中”とは? おそらく”聖書の記述”を”軍事機密”にし、いずれ来るであろう”終末戦争”に備えて”軍事力”を日に日に強化し、”世界の頂点”に立とうとしているアメリカを影で動かす”シークレットガバメント”と考えております。

最後に、念を押すようですが、これらに記事はあくまでも純粋に”人種の謎”に興味を持ち、それを解き明かすために書いたものであって、決して”人種差別”を促すために書いたものではございません! よって、”不当な書き込み”に関しては徹底的に削除させていただきます!

12.03.19:06

第四の人種、オーストラロイドの謎②-”史上最初の殺人者”カインとネアンデルタール人の関係-

まずは、”オーストラロイド”の代表格である”オーストラリア原住民(アボリジニ)”の謎を解明したいと思います。

”アボリジニ”の特徴と言えば、、①肌の色が黒い、②体毛が濃い、③髪の質は”波状毛”で時折金髪が混じっている、④眼窩上部の異常な発達、⑤丸い目玉、広い鼻、厚い唇・・・等ですが、①、②、③、⑤だけで考えれば”黒人”と”白人”の混血、という事で済むでしょう。でも、どうしてもわからないのが④なんです。現時点の”人種”の中で、このような特徴を持っているのはアボリジニやその近隣に住む人たちぐらいです。このような特徴は一体どのようにして生まれたのだろうか? 一説によれば、”人類”は”クロマニヨン人”のみの系統ではなく、他の”ジャワ原人”、”北京原人”、”ネアンデルタール人”などの”化石人類”との”混血”によって生まれたのではないか?という説がありました。しかし、”ジャワ原人”、”北京原人”に関しては”遺伝子配列”の違いから”交配”は不可能、と現代科学では説明されているようです。でも、最近の研究では、”ネアンデルタール人”に関してはゲノム(全遺伝情報)は少なくとも99・5%が同一と推定される事が明らかになったとか(こちらを参考)。となると、”クロマニヨン人(現生人類)”と”ネアンデルタール人”との間に”交配”が可能だった可能性が出てきたようです。

しかし、これに対して飛鳥昭雄氏は、著書「超極秘ファイル ASUKA」の中で、「ネアンデルタール人は実は”クル病(軟骨化症)”をわずらっていた人達(現生人類)で、そもそも”旧人”なんて初めから存在しなかった。」としています。そして、彼らは”ノアの大洪水”直後に”日照不足”による飢饉が何度も起こったため、それによる”ビタミンD1不足”が原因で骨の”石灰沈着障害”を引き起こし、それによって脊椎や四肢骨等の各部の骨や、歯、更には頭蓋骨が変形。それによって、彼らは”正常人”と外見的な違いから、集団から隔離されたり、追放されたりして、洞窟などに身を隠して生活していたのではないか?としています。

しかし、もしこれが本当だとしたら、そのようにして”一般人”から隔離されて生活していた人が他にもいたとしたらどうでしょう? 実は、”ノアの大洪水”後に生き残ったのは”ノア一家”以外にもうもう1人いました。それは、「旧約聖書」によればアダムとイブの”長男”で、弟アベルを殺した罪によって体に”印(黒い肌とされる)”を付けられ、更に”死ねない体”にされてしまったカイン。彼が”ノアの大洪水”後も生きていたとしたら、その”罪悪感”から極力他の人とは距離を置いていたのではなかろうか? しかし、同じように他の人達と距離を置いて生活していた”ネアンデルタール人=クル病患者”と意気投合し、やがて”共同生活”を始め、そして彼らとの間に”子孫”を残したとしたらどうでしょう? そして、彼らはやはり他の人種とは極力距離を置くために17世紀まで公には発見されなかった未知の大陸オーストラリアへ向かったとしたら? おそらく、カインは”預言者”の資質を持っていたでしょうから、オーストラリアが長い間他の人種から隔離される事を知っていたのでしょう。そして、彼らの子孫はオーストラリアに辿り着き、そしてその大陸に住むようになった。これが”アボリジニ”の始まりではないでしょうか。それによって、彼らの”頭蓋骨”は他の人種に比べて”眼窩上部”が異常に発達しているのでしょう。

でも、彼らの髪質は”波状毛”であって”縮れ毛”ではありません。”混血”によるものかもしれませんが、そうなると、メラネシア人と比較した場合、彼らは”眼窩上部の発達”には差異が見られるのに、”髪質”がきっちり”縮れ毛”なのか? ”混血”にしては”混血”されている部分とされていない部分が明確に分かれているのは何故でしょう? 僕が思うに、そもそもカインは”黒い肌”であっても”縮れ毛”ではなかったのではなかろうか? そう、実は「旧約聖書」にはカインの他にも神に”呪い”をかけられた人物がいるんです。それはノアの息子ハムとカインの子孫であるその妻エジプタスの間に生まれたカナンです。カナンの父、ハムはある日父のノアが葡萄酒を飲んで酔っ払っている隙にノアの下着に隠された奥義(カッバーラ)を盗もうとして、それが神にばれたため彼も神に呪われ、将来他の人種の”奴隷”になるようにされてしまったようです。これが今の”アフリカ黒人”を指す事は明白。そして、”アフリカ黒人”の特徴としては、”黒い肌”の他に”縮れ毛”があります。おそらく、その”呪い”によってもたらされたのが”縮れ毛”ではないでしょうか。そして、話は変わるが”大陸移動”も”ノアの大洪水”の後に起こった、と飛鳥氏はしています。そう、かつてアフリカ大陸とインドは”陸続き”だった事が科学的に証明されています。

では、次に”インド大陸の移動”とメラネシア人、更にはドラヴィダ人の謎について書きたいと思います。

12.03.16:26

第四の人種、オーストラロイドの謎①-規定人類学による定義-

まず、今から書く事は決して”人種差別”を示唆するものではありません。あくまでも、僕が小学生の時から純粋に思っていた”疑問”を解明すべく、記事にしたものです。

僕が、”小学生”の時には家にも10数種類の”図鑑”、更には”百科事典”があり、そういったものを暇さえあれば眺めていたのですが、”人体”、”人類”に関する”図鑑”や”百科事典”を見た時、”人種”の分布図が載っていて、そこには”黒人種”と思われる人達がアフリカ以外にもオセアニアにも存在する事を知りました。そして、彼らの間には何かしらの関係があるのか?と長い間疑問に感じていたんです。で、当初はメラネシア人(パプア人、ネグリートも含む)は”黒人種”とされ、オーストラリア原住民(アボリジニ)は”分類不能”とされていました(南インドのドラヴィダ人は後から知りました)。でも、アフリカ黒人の船による移動を”アカデミズム”は断固否定していたようです(まぁ、ヨーロッパ人の”航海技術”が発達したのが15世紀である、という理由もあるが、おそらく”何か”を隠しているのでしょう)。しかし、時代が下ると、”遺伝子工学”の発達から”DNA鑑定”による検証が普及したために、その”データ”からそれらの人種は”第四の人種・オーストラロイド”として他の人種とは区別されるようになりました。更に彼らと酷似しているアフリカ黒人とは”遺伝子”的には遠い、という判断がされました(おそらく”真実”を隠すための改竄が行われたのではないか?と睨んでいます)。でも、さすがにそれでは”無理”があることに気付いたのか、最近の学説では、彼らは”最初の現生人類”であるアフリカ黒人から一番最初に分かれた人種で、彼らはアフリカを出て中東辺りからインド方面に向かい、そこから当時陸続きだったインドネシアを伝ってオーストラリアやパプア・ニューギニア等に広がったのではないか?としています。

そこで、まずこの”オーストラロイド”には大きく分けて”3タイプ”存在し、まずはオーストラリアの原住民、アボリジニがそうで、彼らの”身体的特徴”としては、①肌の色が黒い、②体毛が濃い、③髪の質は”波状毛”で時折金髪が混じっている、④眼窩上部の異常な発達、⑤丸い目玉、広い鼻、厚い唇・・・等が揚げられます。次にインドネシア、パプア・ニューギニア、南太平洋にまたがるメラネシア人で、彼らの特徴は①肌の色が黒い、②髪の質が”螺状毛(縮れ毛)”、③丸い目玉、広い鼻(パプア人の場合は鉤鼻)、厚い唇、④眼窩上部、体毛には”差異”がある(おそらく混血の可能性アリ)・・・等であり、そして、南インドのドラヴィダ人の場合は、おそらく北インドのアーリア人その他との混血によっておそらく”原型”から大きくずれているのでしょうが、①黒い肌、②濃い体毛、③髪の質は”波状毛”ないし”直毛”で、髪の色は黒、④丸い目玉、高い鼻、深いほり、やや厚い唇・・・等といった感じで、おそらく彼らはいくつかの一派に分かれていて、それらが互いに混ざり合ったりして、更に近隣の人種との混血によって今日の形になっていったのでしょう。

しかし、”聖書”の記事をほぼ”史実”と解釈する”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏によれば、「”人種”は、ノアの三人の息子、セム(黄色人種の祖)、ハム(黒人主の祖)、ヤフェト(ヤペテ)(白人種の祖)の子孫である。」としています(参考サイト:「旧約聖書・薮にらみ:創世記5(バベルの塔)-神の領域を犯す組織の力」)。更に”黒人種”の”真のルーツ”はアダムとイブの間に生まれた長子で、弟で”聖人”とされたアベルを殺した罰として、神から体にある”印(おそらく黒い肌)”を付けられ、さらに”死ねない体”にされてしまったカインで、”ノアの大洪水”後も彼は生きていた、としています。(参考サイト:「旧約聖書・薮にらみ:創世記3(カインとアベル物語)-神の自由(支配)と、人間の自由」)となれば、この説が仮に正しければ、”第四の人種”すなわち”オーストラロイド”など元々存在しない、という事になってしまいます! では、彼らに隠された”真実”とは一体なんだったのか!? それをこれから検証していきたいと思います。いずれにしても、「旧約聖書」における”ノアの大洪水”が全ての”鍵”を握っているのは間違いないでしょう。

11.30.23:18

織田信長と坂本龍馬-日本を代表する革命家とその死の真相-(後)

さて、”本能寺の変”と”龍馬暗殺”の”真の黒幕”は果たして誰だったのか? ここで、話を”整理”すると、信長と龍馬の”共通点”には”規定概念に捉われない部分”、”新し物好き”、”欧米文化・技術への興味”がありました。それによって、彼らが最終的に到達した”思想”は、”欧米的国家作り”だったのではなかろうか? しかし、それを実行するために、場合によっては”日本の伝統的文化・風習の破壊”もいとわない、という考えもあったでしょう。そして、その”最たるもの”として彼らが考えていたのが”天皇制廃止”だったとしたら? 信長は自信の”野望”と”理想”のために自らが”最高権力者”となって日本を根底から変えよう、という考えがあった可能性はあるでしょう。龍馬は”船中八策”においては「天皇を頂点とし、将軍と諸大名も”新政府要因”に加えるべし。」としていたものの、どうやら最終的には”アメリカ式民主主義=大統領制”を理想としていたのではないでしょうか。

となると、”天皇家”更にその背後にいる”八咫烏”にとっては、これらの人物は”目の上のこぶ”。多くの”民衆”に慕われ(現在も)、しかし、”天皇家”に”刃”を向けるかもしれない人物を”八咫烏”が見逃すはずがない! しかし、彼らが直接この二人を殺す訳には行きません。そこで、まず別の”実行犯”を立てる必要がありました。”本能寺の変”においては、信長に終始追随しながらも根本的な”思想の違い”があったであろう明智光秀を”実行犯”とし、”龍馬暗殺”においては、”幕府方急進派”であった佐々木只三郎率いる”京都見廻り組”を”実行犯”としたのでしょう。そして、その”協力者”も必要でした。次の”天下人(政治中心人物)”になる人間を立て、彼らに信長もしくは龍馬殺害の”橋渡し役”をさせ、そして、彼らの”弔い合戦”の意味を含めて”天下取り”をさせました。”本能寺の変”の後に”天下”を取ったのが豊臣秀吉。”龍馬暗殺”の後に”王政復古の大号令”を後押しして、”錦の御旗”を掲げて事実上の”新政府軍総指揮官”として江戸幕府を崩壊させた西郷隆盛。彼らは共に”山の民(またぎ(猟師、きこりなど)、木地師、竹細工師、鍛冶師(たたら)、陶芸師、傀儡師(人形使い)、旅芸人、猿楽師などで、その”正体”は”八咫烏”の配下組織)出身”と言われています。彼らは、おそらく”真の黒幕”の正体を隠すために”黒幕”に仕立て上げられたのではないでしょうか。更に、信長、龍馬に関する”情報提供者”として、前者は徳川家康、後者は勝海舟(自信はないが(汗))ではないでしょうか。家康は信長の生涯の”同盟者”でした。でも、”本能寺の変”後、彼はすぐさま堺を脱出、伊賀を越えて急いで浜松へ戻りました。秀吉の”中国大返し”に引けを取らない早さだったとか。そして、彼は最終的に”天下人”になって、信長によって崩壊された”幕府”を復活させ、信長が擁護した”キリシタン”の”禁止令”を出し、そして”鎖国”を行うなど、まるで信長の”正反対”の事をやっています。一方の勝は龍馬の”師匠”でした。そして、龍馬をはじめとする”土佐脱藩浪人”やその他の”幕末の志士”とも交流がありました。にもかかわらず、何故”軍艦奉行罷免”だけですんでいるのか? さらに、海舟が龍馬と交流がありながら、何故殺されなかったのか? ”江戸城無血開城”が何故成立したのか? 薩長はあくまでも”武力倒幕”が本意だったのではなかろうか? いずれにしても、家康や勝が”八咫烏”とつながっていた可能性は高く、更に彼らは”秦氏出身”だったようです。

でも、実は”黒幕”の可能性が高い連中が他にも存在するんです! それは”西洋人”です。信長の時代も龍馬の時代も西洋からの”渡来人”が頻繁に出入りしていた時代です。それによって、多くの”文化”、”製品”、”食品”、”武器”などが日本に入ってきました。そして、彼らの多くは”キリスト教徒”だったはず。となれば、彼らが日本人の”文化”、”風習”を見て何か気付かなかったのか? 実は”幕末期”に日本を訪れた欧米人は”日本人”と”ユダヤ人”の”共通性”を指摘したようです。となれば、おそらく戦国時代に日本を訪れたヨーロッパ人もおそらく”この疑問”を感じた事は確かでしょう。とすれば、”日本神道”こそ実は”原ユダヤ教”更には”原キリスト教”を受け継ぐ宗教である事にも気が付いたはず。となれば、彼らにとってはただ事ではなかったはず。されど、そのような国である以上、他の”アジア諸国”のように容易に”植民地”にする事もできなかったのでしょう。もっとも、アメリカのペリー率いる”黒船”の来航は、その事を知った上でのものだったような気がしてなりません。彼らが恐れたのは、日本の”技術力”よりも”宗教力?”の方だったのではないでしょうか? だからこそ、彼らは日本に様々な”品物(食品、武器も含む)”をもたらして、日本人の”興味”を惹き、信長や龍馬といった”変わり者”と接触する事によって更に日本との”友好”を深める事によって日本を油断させ、その”隙”をついて”植民地化”も図ったのではないでしょうか。でも、日本は彼らが思った以上に”技術力”更には”軍事力”がありました。それゆえ、彼らの”親玉”に当たる”白人メーソン(後のフリーメーソン)”の指揮によって信長や龍馬は”殺害”された、とする見方も出来る訳です。事実、信長は本能寺で死んだのではなく、バテレンに捕まって”抜け穴”から引き出され処刑された、とする説があり(飛鳥氏はそれらが秦氏としている)、龍馬も薩長と手を組んでいたイギリス武器商人グラバー(彼もフリーメーソンのメンバーだったとか)の差し金によって殺された、とする説があります。更に龍馬が”白人メーソン”とつながっていた、という説もあるようです。いずれにしても、信長や龍馬の”貿易相手”の中に”武器商人”がいた事は確かでしょうし、彼らは当然ながら”キリスト教徒”で、さらにその事実上の”頂点”にいた”白人メーソン(今で言う所のフリーメーソン)”とつながっていたとしたらどうでしょう? ”武器商人”はやがて”財閥”に発展した可能性もあるでしょう。その”フリーメーソン”と”イギリス財閥”が結びつき、更にアメリカに渡ったものが飛鳥昭雄氏がいう所の”米国影の政府(シークレットガバメント)”という事になるのではないでしょうか。それが出来た事によって英米の立場は完全に”逆転”したのでしょう。思えば、日本とイギリスは”国土”といい、”民族構成”といい何か似た部分があるんですよね。

あるいは、これらの”両黒幕”の合意によって彼らが殺された可能性もあるのかもしれません。ただ、言える事は、”江戸時代”が始まると”鎖国”が行われ、”幕末”になると”開国”し、”明治”に入って一気に”近代化”、”西洋化”の波に乗ったという事。いずれにしても、そこで守られたのは他ならぬ”天皇家”である事は間違いないでしょう。まぁ、これらの”いずれか”が”真の黒幕”だと僕は睨んでいます。

11.28.23:25

織田信長と坂本龍馬-日本を代表する革命家とその死の真相-(前)

日本の”歴史上人物”の中で、今でも多くの日本人から人気が高いのが織田信長と坂本龍馬。一見”対照的”にも思えるが、この両者には多くの”共通点”があります。①規定概念には捉われない。②新物好き。③海外文化・技術を積極的に導入。④次の時代への”幕開け”を演じた。(将軍を退位させている) ⑤志半ばでの死。(番外編)モジャモジャ頭にだらしない服装(笑) ・・・等が挙げられます。

でもって、問題はその”死”です。二人とも「これから!」という所で命を落としています。そして、その”暗殺劇”には様々な”謎”を残しています。まず、”実行犯”ですが”本能寺の変”の方は言わずと知れた明智光秀。当初は、信長による様々な仕打ち(事ある事への八つ当たり、母の見殺し、知行地の配置換えなど)による”遺恨説”が定説でしたが、後々これらの多くが後世の”作り話”である事が発覚。つづいて、”ストレス説”が唱えられました。信長のような”激しい性格”の人間の下で働く事によって蓄積した”ストレス”、それから林通勝、佐久間信盛らの重臣の相次ぐ”追放”による”不安”、これらに耐えかねて起こした事件では?という説です。しかし、このように”精神不安定”な状態でこのような事件を”計画”し、”実行”するだけの”冷静さ”を果たして持てるだろうか? それによって、”黒幕説”が生まれました。一方の”龍馬暗殺”の方は表向きには”不明”ですが、”有力視”されているのが佐々木只三郎率いる”京都見回り組”。彼らは、15代将軍徳川慶喜に”大政奉還”をさせた坂本龍馬を”逆恨み”し、それによってこの”事件”を起こしたのでは?とされてきましたが、それなら、何故彼らの”正体”は割れなかったのか? それと、幕府内には龍馬を擁護していた人物(永井尚志など)も存在していたようですから、いずれにしてもこの事件は”幕府側”も”犯人追求”をする必要があったはず。それによって、こちらにも”黒幕説”が浮かび上がりました。

そして、これらの”黒幕説”も二転三転があり、”本能寺の変”では”足利義昭説”、”徳川家康説”、”正親町天皇説”等が揚がり、”龍馬暗殺”の方は”松平容保説”、”大久保利通・岩倉具視共謀説”等が揚がりました。しかし、最終的に現在”有力視”されているのが、”本能寺の変”の方が豊臣秀吉、”龍馬暗殺”の方が西郷隆盛、とかつては絶対あり得ないはずの名が現在揚げられています。まぁ、”人の欲”など時には”恩人”や”友人”をも裏切る場合がありますからね(悲) こうして、秀吉は”天下人”となり、西郷は明治政府の”中心人物”となりました。しかし、これだけ”巧妙”にして”鮮やか”な”暗殺劇”を起こした割には、彼らの”最期”は結構”無様”なものでした。秀吉は”本能寺の変”直後すぐにその事実を知ると、毛利といとも簡単に”和睦”を結び、そして世に言う”中国大返し”をやってのけ、そして京の山崎にて明智光秀を打ち破っています。にもかかわらず、彼の晩年は”朝鮮出兵”という途方もない戦を仕掛け(実はこれは長子鶴松の死による”狂気”ではなく、”譜代”の家臣を持たない秀吉の大名に対する”不信感”によってわざと途方もない戦をさせた、とする説もある)、当時の”寿命”が60前後が一般的だったとはいえかなり”もうろく”が激しくなり、家臣が分裂した状態で(加藤清正、福島正則ら”武功派”と石田三成ら”官僚派”との対立)力尽きて亡くなってしまいました。そして、その2年後、”関ヶ原の戦い”で徳川家康率いる”東軍”が勝利し、豊臣家は家康に”天下”を奪われてしまいます。西郷も、事実上の”新政府軍総指揮官”として”江戸幕府”を崩壊させ、”明治維新”を築き上げましたが、”明治政府”発足後の”矛盾”に苛まれ、”徴兵制”によって農民がいやいや”戦争”に借り出されるようになって、それに不服を漏らす”不平士族”に同情。彼らのために当時”李王朝”の”独裁体制”によって衰退し、清や欧米に狙われていた朝鮮半島を日本が支配する、という”征韓論”を唱えるが、”遣欧使節団”としてヨーロッパを訪問していた岩倉、大久保、木戸らによって却下。それによって”不平士族”が各地で”反乱”を起こし、それに西郷が担ぎ上げられる形で”西南戦争”へと発展。しかし、西郷軍はあえなく敗退し、西郷は自刃しています。この二人のこのような”最期”を見る限り、それまでの手の込んだ”策略”がまるで”嘘”のようにも思えてならないんです。織田信長、坂本龍馬といった”2人の英雄”をわからないように殺したのに、自分達の”死”が極めて”不器用”だったのがどうも引っかかるんです。僕が思うに、この両者自体”何者か”に操られていて、その”何者か”こそ”真の黒幕”だったのではないか?と思えてならないんです。

ちなみに、秀吉も西郷も”山の民”の出身である、という説があり、彼らの”正体”は実は日本を裏で動かす”秘密結社”的なものだったとの事。となると、その”元締め”はおそらく”秦氏”であり、更にその”中核”をなす組織が、”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏によれば”八咫烏”と呼ばれる組織で、彼らが天皇を裏で動かす”裏天皇”を構成している、と飛鳥氏はしています。もう一つ、これらの事件の”背景”には”欧米人”の来航があり、彼らとの”接触”も無視できない、と考えています。(詳細は”後編”へつづく・・・)

11.28.22:05

ブログを開設いたしました

この度、”超常現象”、”歴史・古代史”、その他に関する”ディープ”なネタを扱うために新たなブログを開設いたしました。ただし、内容が内容なだけにこれまで運営していたブログとはあえて別に作り、そちらとは”HN”も使い分け、更にあえてリンクはさせていません。

”超常現象”、”歴史”などの”謎”とされる部分における既存の解釈とはまた違った解釈をいたしますので、少々引く様な内容の記事もあるかと思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。

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