11.25.18:22
|
12.09.08:03
上杉謙信にはいくつかの”義人伝”があり、北信濃の豪族、村上義清の領土を奪い返すために起こした”川中島の合戦”や、北条氏康を中心とした武田信玄の”近隣大名”による”塩止め”に加わらず、甲斐への塩の運搬を行い続けた、俗に言う「敵に塩を送る」というエピソードなどが揚げられます。でも、”戦国大名”たるものはこのような事を”戦略”としてワザと行うケースもありますから、この事が彼を”義人”とする根拠にはならないと思うのです。でも、何故そこまで謙信が”義人”として伝わっているのか? おそらく、彼を必要以上に”義人”に仕立て上げた”黒幕”が存在していたのでしょう。聖徳太子や空海、さらには源義経の背後に”秦氏”がいた事を考えると、彼の背後にもおそらく”秦氏”が関わっていたのではないでしょうか? そもそも、”戦国時代”を事実上”プロデュース”したのは秦氏だと考えておりますので。”秦氏”の正体は、イエス・キリストの12使徒の末裔である、と”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏はしています。 まず、謙信が他の武将に比べると極めて”信仰心”に厚く、中でも”毘沙門天”を崇拝していました。さらに、彼は自らを”毘沙門天の生まれ変わり”と信じていたようです。で、この”毘沙門天”ですが、別名を”多聞天(すべてを一切聞きもらさぬ知恵者、という意味で、 となると聖徳太子の逸話に一致する!)”といい、その”ルーツ”は古代インド神話の”クーベラ神”との事。しかし、中国では毘沙門天は同じく古代インド神話における”インド三神”の一神、ヴィシュヌと同一視しています。そして、このヴィシュヌ神は複数の”化身”を持っていた事から、おそらくクーベラ神はヴィシュヌ神と”同一神”だったのではなかろうか? となると、飛鳥昭雄氏はあらゆる”宗教”のルーツは”ユダヤ教”であり、”インド三神”はキリスト教の”御父、御子、聖霊”と同じものとしています。”インド三神”とは”創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァ”から成り、それを”キリスト教三神?”に当てはめれば、”ブラフマー=御父エロヒム”、”シヴァ=聖霊ルーハ”、そして”ヴィシュヌ=御子イエス・キリスト”となり、”ユダヤ教”で言えばイエスが”ユダヤ教絶対神ヤハウェ”と対応。飛鳥氏もイエスがヤハウェの”受肉”した姿だ、としている事から”イエス・キリスト=ヤハウェ”と成り、故に”毘沙門天=クーベラ=ヴィシュヌ=ヤハウェ=イエス・キリスト”となります。そして、謙信は”毘沙門天=イエス・キリスト”の”生まれ変わり”と信じている事に注目! これらを踏まえて、例の”女性説の根拠”とされるものを検証していきたいと思います。まず、①の謙信の”死因”が当時の婦人病を意味する”大虫”だったのでは?とする説ですが、”大虫”には”虎”、さらには”蛇”という意味があり、”虎”とは謙信の異名が”虎”である事と一致、そして”蛇”に見立てればそれはイエス・キリストの”象徴”になるんです。さらに、”虎=大虫”であれば、”虎”と同種の”大型肉食獣”ライオンすなわち獅子も”大虫”となるはず。”獅子”はイエスを含めた”イスラエル系ユダ族”の”シンボル”だったのです! という事は”大虫=イエス・キリスト”となり、それが”死因”となれば、イエスの”死因”は十字架に磔された”処刑”です。つまり、謙信は”処刑”されたのではないでしょうか? おそらく身近な人間、とりわけ家臣、いや”後継者”景勝が首謀者であるかもしれません。次に②の”一ヶ月周期の腹痛”ですが、これは”偽装”であり、相手の様子を伺うための戦略的な”口実”であり、さらにその間神への”祈祷”か何かを行っていたのではないでしょうか(おそらく何かしらの”意味”はあると思うのですが現時点ではそこまで解明出来ていません(汗))。③の謙信が”赤い衣服”を好んでいた事に関してもこれは非常に”重要な意味”を持っていると思います。今の季節”赤い服”と聞いて真っ先に思い浮かべるのはそう、”サンタクロース”ですよね! ”サンタクロース”の正体は、”東ローマ帝国”の配下にあった”小アジア(現在のトルコに相当する地域)”のカトリック司教、聖ニコラスです。そして、当時の”カトリック司教”の衣服は”赤”でした。それを裏付けるものとして、当時の”絵画”に見られるイエスの使徒であるヨハネ等の衣服、さらには「最後の晩餐」の絵の中にあるイエスの衣服はいずれも”赤”です! そして、”ユダヤ教”にまで遡れば、”赤い色”はさらに”重大な意味”を持ちます。「旧約聖書」における「出エジプト記」の記述には「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」という”神の言葉”があり、ようするに、神はモーセ率いる”イスラエル人”をエジプトから救出するために、”イスラエル人”達に家の門に”羊の血”を塗らせ、それによって”エジプト人”と区別させた、と言う事です。となると、”赤い色”は聖書的には非常に重要な意味になるのです! 謙信はおそらくそれを理解していたのではなかろうか? ④、⑤、⑥については後ほど詳しく述べるが、おそらく謙信の”姉”にして景勝の”母”とされている仙桃院が”鍵”を握っていると考えています。⑦に関しては、「上杉謙信とイエス・キリスト-女説の真相と義人伝説-①」の方で述べた通りです。⑧に関しては、謙信が”女性”だった所で、既に”会津120万石”になっており、さらに”豊臣五大老の一人”になっていた景勝を”改易”出来る程の理由にはなりません。しかし、謙信がもし景勝と家臣によって殺されたとなれば話は別。”大阪夏の陣”直後、秀頼に嫁いでいた徳川二代将軍秀忠の娘、千姫を貰い受ける事になっていながらそれを反故にされてしまった豊臣配下の武将、坂崎直盛がそれに逆上し、彼を諌めようとした家臣達によって殺される、という事件が発生。それによって、秀忠は”武家諸法度”の中で”家臣による主君の殺害”を”禁止”する事にしました。ですから、もし謙信が景勝と家臣によって殺されたとなれば、そちらの方がすぐさま”改易処分”をされるのは必定。だからこそ、それを隠すために彼らは謙信を必要以上に”義人”として扱うしかなかったのではないでしょうか(聖徳太子=蘇我入鹿説を唱える人は、聖徳太子が必要以上に”聖人扱い”されるのは、実は彼の”正体”が”朝廷”の人間によって殺された蘇我入鹿だからに他ならない、としています。何か、これに良く似ているのではないでしょうか?)。⑨に関しては、今話題になっている”ダビンチコード”のような”仕掛け”が施されているのではないでしょうか?(聖徳太子の画像も”髭”の部分がどうやら書き加えたらしい事が科学的調査で発覚。これも、もしかすると”仕掛け”があるのではなかろうか?)。というのが僕個人的な見解です。かなり”強引”ではありますけど(汗) で、”問題”なのは、謙信の”死”です。もし、彼が”処刑”されていた、とするならば、それはどのような経緯によって行われる羽目になったのか? そして、その事件を誰がどのように封印したのか? この事を次章で書きたいと思います。 PR
|
12.08.23:50
”戦国武将”の中で”野心”のためではなく”義”のためだけに生きた武将、と言われている”越後の虎”上杉謙信。そして、自らを”毘沙門天の生まれ変わり”とし、そういった”信仰心”から生涯妻を娶らなかった、とされています。しかし、そのエピソードを時代が下るにつれて多くの歴史家が”疑問視”し、いつしか”同性愛者説”がはびこるようになり、更にそれから10年以上も経った今、今度は”女性説”があたかも”真実”であるかのように世にはびこるようになりました。まぁ、こういった”展開”自体に既に”矛盾点”が現れているのですが、まずは謙信が”男性”か”女性”かの検証をしてみたいと思います。 これまでの”同性愛社説”では、只単に「”戦国武将”のクセに”結婚”しないのは不自然であり、しかも、”戦場”に女性を連れて行けないため、代わりに”小姓”を女性代わりにしていたのが常識だった。」としていたのに対して、”女性説”が唱えられるようになってから、いきなり多くの”根拠”が発見されているんですよ、まるで作られたかのように(汗) これらをざっと挙げれば、①彼の”死”の原因が”脳溢血”ではなく、女性の”更年期障害による夫人病の一種”である”大虫”である、という記録がある事。②合戦中にも関わらず1ヶ月周期で腹痛を訴え、兵を引き部屋に引き篭もったりしている事。③謙信の遺品の衣類を見てみると真っ赤であったり、とても男物とは思えないものを好んで着ており、更に彼が”傾奇者”だった、という記録はないとの事。④謙信が書いた手紙などを見ると、表現や気の使い方が女性的で男性とは思えない事。⑤スペインの国王宛に書かれた手紙には「景勝の叔母」と記載されている。 ⑥当時、民衆の間で「男もおよばぬ大力無双」(男性を差し置いて、またとない強さ)と歌った歌がある。 ⑦当時、女性城主は珍しくなく(例えばおつやの方)、江戸時代に入ってから武家諸法度により初めて女性城主が認められなくなった。そのため江戸時代から今現在に至るまで「城主=男」という常識が存在する事。⑧ 関ヶ原の戦い以前から徳川家と対立しており、やっと許しをもらったばかりの上に、外様大名で立場が弱かった上杉家は大幅に土地を没収されることは目に見えており(実際、米沢30万石に減転封されている)、その上武家諸法度の城主=男により「謙信の代でお家断絶している」と更に言い掛かりをつけられるのを恐れ、謙信が女性という証拠になるものを処分し、無理矢理男性にする必要があった事。⑨ 上杉謙信の肖像画は見るからに男性であるが、これは江戸時代に作成されたもので、謙信を男にする必要があったため不自然にヒゲを生やした男の肖像画を描かせたのではないか?と考えられ、また、江戸時代まで肖像画がなかったという点も不思議で、上記理由により処分してしまったと考えると辻褄が合う事、などが挙げられます。この検証は後ほどするにして、 僕が思うには、こんな”根拠”が出てくる以前に、何故”同性愛者説”が出てきたのだろうか? このような”根拠”があるにもかかわらず10年以上も”同性愛者説”が唱えられていたのはおかしいです。それに”生涯独身”という事であれば、”応仁の乱”の立役者の一人、細川勝元の嫡男政元も”独身”だったのに、彼は”同性愛者説”更には”女説”はありません。更に、”戦国武将”が結婚しないのを”不自然”とするなら、”女性”が”戦国大名”になるのは尚更”不自然”なはず! もっと掘り下げれば、”下克上”の時代にそもそも家臣達が女性を”大名”に押し立てるのはおかしいです。この時代の”血の気の荒い武将”であれば、”女領主”なんてとっくに殺して自らが”当主”になる事を選ぶのが普通でしょう。それに、謙信は”関東管領”上杉憲政の”養子”となって”関東管領”を引き継いでいます。謙信が”女性”だった場合、”名門”上杉家がそれを認めるはずがないと思います。さらに、謙信は13代将軍足利義輝とも謁見しているはず。”足利将軍家”が”女性当主”なんて認めるはずがないと思います。ましてや”関東管領”であれば尚更です! 上記の”女性説”の根拠の⑦に関しても、”おつやの方”は表向きにはあくまでも”養嗣子”坊丸の”後見人”であり、このような例なら北条政子や淀君、それから少し違うが日野富子にも見られる事です! さらに”一豪族”と”戦国大名”では”格”が違いすぎです。こうして考えると、ちょっと”女性説”には無理があるようにも思えます。というか、このような”説”が出てきた背景には”何か”を隠す目的があるようにも思えてならないんです。おそらく、”真に秘密”を隠すための”カムフラージュ”ではないか?と思うんですよ。 で、その”真相”を探る前に、まず謙信というと”生涯独身”というイメージが浮かびますが、多くの人は”戦国武将”が”独身”である事はあり得ない、としています。でも、僕はそうは思いません。”戦国時代”という時代は、隣国との関係を保つために”政略結婚”が頻繁に行われ、それによって”妻”の数が増え、”建前上”の”正室”、”側室”はあれど、それらがやがて”家督争い”につながるのは必定だったはず。だからこそ、それを逆手にとってあえて”独身”という手段を選び、”家督争い”を避けた、という見方もできると思うんですよ。”家督争い”は最悪の場合”御家分裂”を招き、それが原因で滅ぶ事もありうる訳ですからね。これは謙信自信も味わっている事ですから。でも、どうしても家臣が”実子”でなければ跡を継がせなければならない、という声があったのならば、”愛人”を作ればいい話なんです。事実、謙信にはかつて”恋人”と思われる女性がいた事が記録されていたはずなんです。でも、最近これらは”無視”されています。”否定”ではなく”無視”です! そして、その女性とは別れた、という事になっていますが、もし、彼女が”内縁の妻”になっていたとしたら? 更に、その女性との間に生まれた子こそ謙信の”後継者”である景勝だとしたら? そして、謙信の姉(仙桃院)夫婦(一族の長尾政景夫婦)の”実子”として育てられ、やがて謙信の”養子”という形になったとしたら? まぁ、”根拠”は全くないですが、”可能性”がないとは言えないと思います。現に、景勝の父とされる長尾政景が妙な死に方をしているようですからね。それに、どうも政景には景勝の前に”長子”が存在していて”早世”している、という部分も引っかかります。まぁ、いずれにしても、もし、謙信に”内縁の妻”と”隠し子”が存在していたとすれば、”義将伝説”に傷が付きます。それによって、おそらく”封印”されたのでしょう。ちなみに、謙信が本当に”女性”だった場合、それを隠すためにむしろ”カムフラージュ”として”妻”を娶ったはず! しかし、堂々と”女性”であると名乗っているのなら、最初から彼女は”女性”として歴史舞台に登場しなければおかしいはずなんです! となると、謙信は本当に”義の武将”だったのか?という部分も怪しくなると思うんです。でも、彼は後世”義人”とされています。そして、”歴史上人物”では聖徳太子や空海が”義人”、”聖人”とされています(石田三成や大石内蔵助はあくまでも主君に対して”義”を通しただけで、”義人”と呼べる器ではなかったと考えています。)。それと、源義経もそれに近いかもしれません。彼らの共通点は、”秦氏”であり、さらには”イエス・キリスト”も関係してくるでしょう。となると、僕は謙信にも”秦氏”さらには”イエス・キリスト”との関連があるのではないか?と考えているんです。そして、そこに知られてはならない”秘密”が隠されているのではないかと考えています。次の章で、その事を詳しく検証したいと思います。 |
11.30.23:18
さて、”本能寺の変”と”龍馬暗殺”の”真の黒幕”は果たして誰だったのか? ここで、話を”整理”すると、信長と龍馬の”共通点”には”規定概念に捉われない部分”、”新し物好き”、”欧米文化・技術への興味”がありました。それによって、彼らが最終的に到達した”思想”は、”欧米的国家作り”だったのではなかろうか? しかし、それを実行するために、場合によっては”日本の伝統的文化・風習の破壊”もいとわない、という考えもあったでしょう。そして、その”最たるもの”として彼らが考えていたのが”天皇制廃止”だったとしたら? 信長は自信の”野望”と”理想”のために自らが”最高権力者”となって日本を根底から変えよう、という考えがあった可能性はあるでしょう。龍馬は”船中八策”においては「天皇を頂点とし、将軍と諸大名も”新政府要因”に加えるべし。」としていたものの、どうやら最終的には”アメリカ式民主主義=大統領制”を理想としていたのではないでしょうか。 となると、”天皇家”更にその背後にいる”八咫烏”にとっては、これらの人物は”目の上のこぶ”。多くの”民衆”に慕われ(現在も)、しかし、”天皇家”に”刃”を向けるかもしれない人物を”八咫烏”が見逃すはずがない! しかし、彼らが直接この二人を殺す訳には行きません。そこで、まず別の”実行犯”を立てる必要がありました。”本能寺の変”においては、信長に終始追随しながらも根本的な”思想の違い”があったであろう明智光秀を”実行犯”とし、”龍馬暗殺”においては、”幕府方急進派”であった佐々木只三郎率いる”京都見廻り組”を”実行犯”としたのでしょう。そして、その”協力者”も必要でした。次の”天下人(政治中心人物)”になる人間を立て、彼らに信長もしくは龍馬殺害の”橋渡し役”をさせ、そして、彼らの”弔い合戦”の意味を含めて”天下取り”をさせました。”本能寺の変”の後に”天下”を取ったのが豊臣秀吉。”龍馬暗殺”の後に”王政復古の大号令”を後押しして、”錦の御旗”を掲げて事実上の”新政府軍総指揮官”として江戸幕府を崩壊させた西郷隆盛。彼らは共に”山の民(またぎ(猟師、きこりなど)、木地師、竹細工師、鍛冶師(たたら)、陶芸師、傀儡師(人形使い)、旅芸人、猿楽師などで、その”正体”は”八咫烏”の配下組織)出身”と言われています。彼らは、おそらく”真の黒幕”の正体を隠すために”黒幕”に仕立て上げられたのではないでしょうか。更に、信長、龍馬に関する”情報提供者”として、前者は徳川家康、後者は勝海舟(自信はないが(汗))ではないでしょうか。家康は信長の生涯の”同盟者”でした。でも、”本能寺の変”後、彼はすぐさま堺を脱出、伊賀を越えて急いで浜松へ戻りました。秀吉の”中国大返し”に引けを取らない早さだったとか。そして、彼は最終的に”天下人”になって、信長によって崩壊された”幕府”を復活させ、信長が擁護した”キリシタン”の”禁止令”を出し、そして”鎖国”を行うなど、まるで信長の”正反対”の事をやっています。一方の勝は龍馬の”師匠”でした。そして、龍馬をはじめとする”土佐脱藩浪人”やその他の”幕末の志士”とも交流がありました。にもかかわらず、何故”軍艦奉行罷免”だけですんでいるのか? さらに、海舟が龍馬と交流がありながら、何故殺されなかったのか? ”江戸城無血開城”が何故成立したのか? 薩長はあくまでも”武力倒幕”が本意だったのではなかろうか? いずれにしても、家康や勝が”八咫烏”とつながっていた可能性は高く、更に彼らは”秦氏出身”だったようです。 でも、実は”黒幕”の可能性が高い連中が他にも存在するんです! それは”西洋人”です。信長の時代も龍馬の時代も西洋からの”渡来人”が頻繁に出入りしていた時代です。それによって、多くの”文化”、”製品”、”食品”、”武器”などが日本に入ってきました。そして、彼らの多くは”キリスト教徒”だったはず。となれば、彼らが日本人の”文化”、”風習”を見て何か気付かなかったのか? 実は”幕末期”に日本を訪れた欧米人は”日本人”と”ユダヤ人”の”共通性”を指摘したようです。となれば、おそらく戦国時代に日本を訪れたヨーロッパ人もおそらく”この疑問”を感じた事は確かでしょう。とすれば、”日本神道”こそ実は”原ユダヤ教”更には”原キリスト教”を受け継ぐ宗教である事にも気が付いたはず。となれば、彼らにとってはただ事ではなかったはず。されど、そのような国である以上、他の”アジア諸国”のように容易に”植民地”にする事もできなかったのでしょう。もっとも、アメリカのペリー率いる”黒船”の来航は、その事を知った上でのものだったような気がしてなりません。彼らが恐れたのは、日本の”技術力”よりも”宗教力?”の方だったのではないでしょうか? だからこそ、彼らは日本に様々な”品物(食品、武器も含む)”をもたらして、日本人の”興味”を惹き、信長や龍馬といった”変わり者”と接触する事によって更に日本との”友好”を深める事によって日本を油断させ、その”隙”をついて”植民地化”も図ったのではないでしょうか。でも、日本は彼らが思った以上に”技術力”更には”軍事力”がありました。それゆえ、彼らの”親玉”に当たる”白人メーソン(後のフリーメーソン)”の指揮によって信長や龍馬は”殺害”された、とする見方も出来る訳です。事実、信長は本能寺で死んだのではなく、バテレンに捕まって”抜け穴”から引き出され処刑された、とする説があり(飛鳥氏はそれらが秦氏としている)、龍馬も薩長と手を組んでいたイギリス武器商人グラバー(彼もフリーメーソンのメンバーだったとか)の差し金によって殺された、とする説があります。更に龍馬が”白人メーソン”とつながっていた、という説もあるようです。いずれにしても、信長や龍馬の”貿易相手”の中に”武器商人”がいた事は確かでしょうし、彼らは当然ながら”キリスト教徒”で、さらにその事実上の”頂点”にいた”白人メーソン(今で言う所のフリーメーソン)”とつながっていたとしたらどうでしょう? ”武器商人”はやがて”財閥”に発展した可能性もあるでしょう。その”フリーメーソン”と”イギリス財閥”が結びつき、更にアメリカに渡ったものが飛鳥昭雄氏がいう所の”米国影の政府(シークレットガバメント)”という事になるのではないでしょうか。それが出来た事によって英米の立場は完全に”逆転”したのでしょう。思えば、日本とイギリスは”国土”といい、”民族構成”といい何か似た部分があるんですよね。 あるいは、これらの”両黒幕”の合意によって彼らが殺された可能性もあるのかもしれません。ただ、言える事は、”江戸時代”が始まると”鎖国”が行われ、”幕末”になると”開国”し、”明治”に入って一気に”近代化”、”西洋化”の波に乗ったという事。いずれにしても、そこで守られたのは他ならぬ”天皇家”である事は間違いないでしょう。まぁ、これらの”いずれか”が”真の黒幕”だと僕は睨んでいます。 |
11.28.23:25
日本の”歴史上人物”の中で、今でも多くの日本人から人気が高いのが織田信長と坂本龍馬。一見”対照的”にも思えるが、この両者には多くの”共通点”があります。①規定概念には捉われない。②新物好き。③海外文化・技術を積極的に導入。④次の時代への”幕開け”を演じた。(将軍を退位させている) ⑤志半ばでの死。(番外編)モジャモジャ頭にだらしない服装(笑) ・・・等が挙げられます。 でもって、問題はその”死”です。二人とも「これから!」という所で命を落としています。そして、その”暗殺劇”には様々な”謎”を残しています。まず、”実行犯”ですが”本能寺の変”の方は言わずと知れた明智光秀。当初は、信長による様々な仕打ち(事ある事への八つ当たり、母の見殺し、知行地の配置換えなど)による”遺恨説”が定説でしたが、後々これらの多くが後世の”作り話”である事が発覚。つづいて、”ストレス説”が唱えられました。信長のような”激しい性格”の人間の下で働く事によって蓄積した”ストレス”、それから林通勝、佐久間信盛らの重臣の相次ぐ”追放”による”不安”、これらに耐えかねて起こした事件では?という説です。しかし、このように”精神不安定”な状態でこのような事件を”計画”し、”実行”するだけの”冷静さ”を果たして持てるだろうか? それによって、”黒幕説”が生まれました。一方の”龍馬暗殺”の方は表向きには”不明”ですが、”有力視”されているのが佐々木只三郎率いる”京都見回り組”。彼らは、15代将軍徳川慶喜に”大政奉還”をさせた坂本龍馬を”逆恨み”し、それによってこの”事件”を起こしたのでは?とされてきましたが、それなら、何故彼らの”正体”は割れなかったのか? それと、幕府内には龍馬を擁護していた人物(永井尚志など)も存在していたようですから、いずれにしてもこの事件は”幕府側”も”犯人追求”をする必要があったはず。それによって、こちらにも”黒幕説”が浮かび上がりました。 そして、これらの”黒幕説”も二転三転があり、”本能寺の変”では”足利義昭説”、”徳川家康説”、”正親町天皇説”等が揚がり、”龍馬暗殺”の方は”松平容保説”、”大久保利通・岩倉具視共謀説”等が揚がりました。しかし、最終的に現在”有力視”されているのが、”本能寺の変”の方が豊臣秀吉、”龍馬暗殺”の方が西郷隆盛、とかつては絶対あり得ないはずの名が現在揚げられています。まぁ、”人の欲”など時には”恩人”や”友人”をも裏切る場合がありますからね(悲) こうして、秀吉は”天下人”となり、西郷は明治政府の”中心人物”となりました。しかし、これだけ”巧妙”にして”鮮やか”な”暗殺劇”を起こした割には、彼らの”最期”は結構”無様”なものでした。秀吉は”本能寺の変”直後すぐにその事実を知ると、毛利といとも簡単に”和睦”を結び、そして世に言う”中国大返し”をやってのけ、そして京の山崎にて明智光秀を打ち破っています。にもかかわらず、彼の晩年は”朝鮮出兵”という途方もない戦を仕掛け(実はこれは長子鶴松の死による”狂気”ではなく、”譜代”の家臣を持たない秀吉の大名に対する”不信感”によってわざと途方もない戦をさせた、とする説もある)、当時の”寿命”が60前後が一般的だったとはいえかなり”もうろく”が激しくなり、家臣が分裂した状態で(加藤清正、福島正則ら”武功派”と石田三成ら”官僚派”との対立)力尽きて亡くなってしまいました。そして、その2年後、”関ヶ原の戦い”で徳川家康率いる”東軍”が勝利し、豊臣家は家康に”天下”を奪われてしまいます。西郷も、事実上の”新政府軍総指揮官”として”江戸幕府”を崩壊させ、”明治維新”を築き上げましたが、”明治政府”発足後の”矛盾”に苛まれ、”徴兵制”によって農民がいやいや”戦争”に借り出されるようになって、それに不服を漏らす”不平士族”に同情。彼らのために当時”李王朝”の”独裁体制”によって衰退し、清や欧米に狙われていた朝鮮半島を日本が支配する、という”征韓論”を唱えるが、”遣欧使節団”としてヨーロッパを訪問していた岩倉、大久保、木戸らによって却下。それによって”不平士族”が各地で”反乱”を起こし、それに西郷が担ぎ上げられる形で”西南戦争”へと発展。しかし、西郷軍はあえなく敗退し、西郷は自刃しています。この二人のこのような”最期”を見る限り、それまでの手の込んだ”策略”がまるで”嘘”のようにも思えてならないんです。織田信長、坂本龍馬といった”2人の英雄”をわからないように殺したのに、自分達の”死”が極めて”不器用”だったのがどうも引っかかるんです。僕が思うに、この両者自体”何者か”に操られていて、その”何者か”こそ”真の黒幕”だったのではないか?と思えてならないんです。 ちなみに、秀吉も西郷も”山の民”の出身である、という説があり、彼らの”正体”は実は日本を裏で動かす”秘密結社”的なものだったとの事。となると、その”元締め”はおそらく”秦氏”であり、更にその”中核”をなす組織が、”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏によれば”八咫烏”と呼ばれる組織で、彼らが天皇を裏で動かす”裏天皇”を構成している、と飛鳥氏はしています。もう一つ、これらの事件の”背景”には”欧米人”の来航があり、彼らとの”接触”も無視できない、と考えています。(詳細は”後編”へつづく・・・) |