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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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03.01.14:28

上杉謙信は暗殺されたのか?

かなり久しぶりに更新します。

先々週ですがテレ東系で毎週火曜日20:00から放送されている「新説!?日本ミステリー」という番組で「直江兼続は上杉家を乗っ取っていた!?」という説が発表されました。”内容”は、直江兼続が織田信長とつながっており、それによって”主君”景勝を上杉家の後継者にするために上杉謙信を暗殺し、その後上杉家を乗っ取った、というものでした。

僕は、以前このブログで上杉景勝が謙信を暗殺した、と書きました。そういった意味では、それに近い内容の事が番組で取り上げられた事になります。ただ、仮に番組で検証されたように兼続の幼少期の”素性”が実は謎であり(景勝の小姓だった、という説は実は記録がないとの事)、謙信の死後、突如歴史に登場したとはいえ、本当に兼続が謙信を暗殺して上杉家を乗っ取ったという説には”疑問点”も多く生じるのは事実。なぜなら、そんな”素性”の知れぬ無名の人間がそう易々とあの上杉家を乗っ取る事はどう考えても無理があるからです。多くの有力の家臣がいるにもかかわらずそれらを抑えて上杉家を乗っ取るほどの”強力な力”を兼続が持っていたとは考えにくいからです。仮に、バックに信長がいたとしても、信長も謙信の死から4年後に京の本能寺で明智光秀に討たれています。それに、兼続は石田三成、真田幸村、前田慶次郎といったどちらかと言えば”義”を重んじる武将に親しまれていました。もし、兼続が”暗殺”や”乗っ取り”等をしていたとしたら、これらの武将が兼続に好意を持っただろうか? いや、むしろ彼を危険視して殺害を計画する可能性のほうが高いでしょう。いや、それ以前に彼は上杉家を乗っ取る前に多くの家臣に殺されるのがオチだと思います。

で、僕の考えからすれば、以前書いたようにやはり兼続の主君、景勝が怪しいように思えます。大河ドラマ「天地人」で描かれているように若い頃の景勝はどこか”陰気”な感じで描かれています。それに、父政景の死後、幼少期の景勝が謙信(当時輝虎)に刀で襲い掛かるシーンもありました。もし、この事がほぼ”史実”に近い事だとすれば、謙信と景勝の間には長い間”確執”があったようにも思えるのです。更に、謙信が”生涯独身”だった理由が”同性愛者”や”女性”だったから、というのではなく”別の理由”があったとしたら、それが”景勝による謙信暗殺”の理由にもつながるのではないか?と思います。(ちなみに、謙信がもし”女性”であれば、実は”結婚”は可能なのです。なぜなら女性は男性と結婚出来るからです。更に、”同性愛者”だとしても、当時の結婚は殆ど”政略結婚”でしたから、”同性愛”も何も関係なく”結婚”自体は出来たはずなんです。)

謙信にはかつて熱愛した人が存在した、という記録が残っているし、そこで”悲しい別れ”をしたような事が書かれてあったようです。で、以前も書きましたが、これはあくまでも僕の勝手な”推測”でしかないのですが、謙信とその女性の間に”子”が授かり、しかしその女性の”身分”が低かったために家臣や同門の反対があり謙信はその女性と別れなければならなくなったのではないでしょうか。そして、残された子を長子を亡くしたばかりの謙信の姉・桃(仙桃院)と長尾政景夫妻に預けたのではないでしょうか。その”子”こそ後の上杉景勝だったのではなかろうか? しかも、謙信と別れた女性がただ謙信の元を去ったのではなく”自害”したとしたらどうでしょう? そうなったら、謙信が”一生独身”を誓ってもおかしくないように思えます。むしろ、この方が説得力があると思います! そして、景勝がある程度の年齢に達した時に”養子”という形で引き取る事をはじめから約束していたのではないでしょうか。しかし、その”約束”の日が近づいた時に景勝の”父”とされる政景がそれを”反故”にしようとしたため、謙信の”軍師”であった宇佐美定満に”暗殺”されたのではないでしょうか。それが謙信の指示によるものかどうかは不明ですが、景勝がその事を生涯疑い続け、更に自分の”出生の秘密”を知れば、それが”謙信暗殺”の動機にもつながると思うのです。

もっとも、謙信の”死”がまだ”暗殺”と決まった訳ではありません。ただ、”謙信女性説”を裏付ける証拠として、謙信の死因が”大虫”である、という記録があるようなのですが、”大虫”というのは本来女性しかかからない”更年期障害”の一種を指しているという言葉のようなのですが、”大虫”には他にも”虎”や”蛇”という意味もあるようなのです。実は、それが”暗殺”を暗示するものである可能性もあるのではないか?と僕は考えているのです。(以前ブログでは、謙信と秦氏、そしてイエス・キリストとのつながりにも触れたのですが、彼があそこまで”宗教(毘沙門信仰)”に帰依するのは”秦氏”とのつながりがあり、秦氏が日本に伝えたとされる”原始キリスト教(後の神道へと発展?)”の密教”カッバーラ”に精通し、それゆえ、自らを”毘沙門天=ビシュヌ神=イエス・キリスト”の”生まれ変わり”と信じ、虎に近い”獅子”と”蛇”を自身の”象徴”に持つイエスと同じ死に方、すなわち”処刑(暗殺も含む)”という結論を出しています。)

そして、もし謙信の本当の”死因”が”暗殺”によるものだとして、その”黒幕”が織田信長で、”実行犯”が景勝とその家臣団(そこに兼続も加わっていたかどうかは不明)であるとしても、信長がどのようにして景勝を動かしたのか?という部分には疑問もあるんです。おそらく、その間には”第三者”が存在していたのではなかろうか? されど、それが兼続ではない事も冒頭の記述で示す通りです。では、誰が信長と景勝の”つなぎ役”をし、景勝をそそのかして謙信を討たせたのか? 実は、謙信の死後、もう一人の養子・景虎(北条氏康の七男で本来は人質であった)と景勝との家督争いである”御舘の乱”の直後に暗殺された人物がおり、その人物は、実は兼続の妻・お船(直江景綱(前名実綱)の娘)の前の夫だったのである。その名は直江信綱。彼は、元々は謙信と同じ長尾一族の出身(前名:景孝)で、その家が武田氏に滅ぼされた事によって上杉家重臣直江景綱の”婿養子”となったようですが、その時点で実は既に信長とつながっていた可能性もあるのではないでしょうか? それに、彼が”御舘の乱”の直後に殺されたのも、”恩賞をめぐるトラブル”とされていますが、もし”御舘の乱”のきっかけが、単なる”後継者争い”ではなく”謙信暗殺疑惑”による”弔い合戦”だとしたら、その”鍵”を握る信綱が、”御舘の乱”後用済みとして殺されてもおかしくないのではないでしょうか。そして、その”罪滅ぼし”として、兼続は残された信綱の妻・お船を妻に迎えたのだとすれば、辻褄が合うように思えます。

そして、”御舘の乱”が終わり、景勝が”後継者”となった上杉家は、上杉家復興の為にも”謙信の死の真実”を隠蔽し、更に上杉家に関わる”重大な秘密”を封印更に偽造する事によって上杉家は”明治維新”まで続く事が出来たのではないでしょうか。その”立役者”が謙信の姉・仙桃院と景勝の腹心・直江兼続だった、という事なのでしょう。だからこそ、兼続が今でも”地元の英雄”として親しまれているのではないでしょうか。
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03.25.23:48

平氏と平家は”別氏族”だった!?

いつ放送されたのか気付かないまま放送されてしまった「新説!?みのもんたの日本ミステリー!~失われた真実に迫る!~」という番組の中で、平家は”ペルシャ人”だった!?という説が取り上げられていたようです(とりあえず、その”実証”についてはこの番組を見ていないのと、”本題”からずれてしまうんで割愛させていただきます)。いくつかの”根拠”はあるようですけど、しかしながら清盛が白河天皇の”御落胤”であるという説は有力であるのと、清盛と後継者の宗盛の”肖像画”の顔がどう見ても扁平な顔をした典型的な”モンゴロイド”の顔をしている事から、”平家本流”が”ペルシャ人”である可能性は低いように思います。ただ、清盛の頃の平家の配下の人間が皆”平姓”を名乗っていた事が異常であるのも事実。全て”同族”と考えるには無理がありますから。そうなると、平家は”近親相姦”だらけになってしまいますからね(汗) しかし、その配下に中国人、朝鮮人、さらにはペルシャ人等の”外国人”がいたとしたら、あえて”平”の姓を名乗らせていた可能性はあるかもしれません。しかし、そうなると源頼朝の配下にいた北条時政、和田義盛、梶原景時らは”平氏”の一族なんです。しかし、彼らは”平姓”を名乗ってはいません。普通、同族の”家臣”の場合は、”主家”と区別するためにあえて”別姓”にするしきたりがあったためです。にもかかわらず、”平家”の場合は主従に関係なく”平”を名乗っているのは確かに不自然です。更に、”平氏”と”平家”が使い分けられている事自体も”不自然”でならないんです。

で、以前から”疑問”に思っていたのですが、”平氏”と”平家”は”別氏族”だったのではないでしょうか? もっとも、清盛が”天皇の落とし胤”だとすればそうなりますが、しかし清盛と血のつながらない一族もいっぱいいた訳で、その中でも彼らが”団結”していたのは何故だったのだろうか? 実は、将門の頃の”平氏”は、一族同士の争いは盛んだったんですよ。有名な”平将門の乱(同時期に起こった藤原純友の乱と共に”承平天慶の乱”と言われている)”のきっかけは、将門が一族の国香の領地を侵略した事に起こり、将門を捕らえたのが国香の息子である貞盛である事を考えれば、彼らは本来は源氏同様同族同士はそれほど仲が良くなかったはずで、これは”騎馬民族”によく見られる風習で、その代わり”別民族”でも信頼できる者、実力のある者であれば”配下”に加える風習も持っているため、それが源頼朝や武田信玄にも通じる事から、本来の”平氏”は”騎馬民族”の流れを汲む一族であると考えられます(源氏と平氏の関係については後ほど書きます)。更に、将門は”海上戦”より”陸上戦”が得意だったはずです。その反面、清盛ら”平家”は?というと、一族は”一致団結”していたし、”海上戦”を得意としていた事から、彼らが”騎馬民族”ではなく”海洋民族”と関わりが深かった事だけは確かだと思われます。となると、彼らは一体”何者”だったのか?という事になりますよね。

おそらく、”源氏”と同様、”平姓”を名乗っていた一族は実は”桓武平氏”以外にも複数いたのではないでしょうか。特に”帰化人”が名乗っていた可能性も充分考えられる訳で、そこに様々な”民族”の痕跡は確かにあったかもしれませんね。ただ、問題なのは”帰化人”がどっからどこまで”帰化人”と言えるのか?という事で、天皇家と共に日本にやってきた可能性の高い秦氏さえ”帰化人”と呼ばれている事を考えれば、実際はそれぐらい古い時期に日本にやってきた可能性も充分考えられますね。となると、天皇家と共に様々な民族が渡来してきた可能性はあるでしょう(厳密に言えば、天皇家や秦氏を含めた”イスラエル系支族”の中に様々な民族が吸収されていると考えた方が良いかもしれません)。事実、平家に”ペルシャ”の痕跡があるならば、彼らよりずーっと古い蘇我氏にも”ペルシャ”の痕跡はたくさんあるようですからね。いずれにしても言える事は、”ペルシャ文化”を吸収していた”イスラエル系民族”の一部が”海のシルクロード”を渡って日本に来ていたとする説があり、それが”物部氏”の本流とされる”海部氏”である事を飛鳥昭雄氏は著書の中でそれとなく書いています。物部や蘇我の”残党”が”平家”と合流し、やがて”平家”を乗っ取ったとすればどうでしょう。

一方、”平家”のライバルである”源氏(清和源氏)”は、上記で書いた通り、”身内争い”を頻繁に起こしていた一族で、”保元の乱”では頼朝の父、義朝は清盛らと共に実の父、為義と実の弟、為朝を討っています。その後の”平治の乱”では、一族の源頼政が平家方に付いた事によって”形勢不利”となった義朝が平家に討たれます。そして、その後の”源平合戦”においては、まず頼朝は義経を使って”従兄弟”である木曾義仲を討ち、”平家滅亡”後、今度は実の弟である義経を討ち、義経に組したもう1人の弟、範頼をも討っています。更には、”鎌倉幕府”滅亡後、新たに”足利幕府(後の室町幕府)”を開いた”源氏流”の足利尊氏は、弟の直義と対立、やがて殺害し、尊氏の”庶子”で直義の養子となった直冬をも討っています。それから、”戦国の英雄”の1人である源氏の流れを汲む武田信玄にしても、父・信虎を甲斐から追放し、また嫡子・義信を幽閉した上死に追いやっています。こうして見ても、源氏がいかに”同族”に冷たいかが伺えるでしょう。これは、典型的な”騎馬民族”の風習であり、それが将門の頃の”平氏”にもそういった点が見られる事から、おそらく彼らも本来は”騎馬民族”であった可能性は高いでしょう。

そう考えると、”平氏”、そして”源氏”の”ルーツ”は何者なのだろうか? 考えられるのは、日本を最終的に支配した”大和民族(北朝イスラエル10支族+南朝ユダ系原始キリスト教徒)”の内、”騎馬民族”の資質を強く受け継いだ一族が”平氏”になったのでは?という事で、”平(タイラ)”とは騎馬民族スキタイの”本拠地”であった”タタール”から来たのではないか?と考えられるのです。で、実は源氏の”祖”と言われている源経基の息子とされる源満仲が初め”多田姓”を名乗っており、源氏を乗っ取った、とする説があるようです。で、その”多田”という姓は”鉄産民”である”タタラ”から来ていると言われ、その”タタラ”はやはり”鉄産民”でもあったスキタイの本拠地、タタールから来ているそうです。という風に考えると、もしかすると”平氏”と”源氏”は”同族”だった可能性が出てきます。それに、”平氏”は当初関東を拠点にしていましたが、その後源氏も関東を拠点とするようになり、そして頼朝は鎌倉に”幕府”を開いていますからね。どうも、平将門が夢に描いていた”新皇”というものを頼朝が実現したようにも思えるんですよ。それと幕府の”幕”が、騎馬民族の住居であった”幕屋”から来ているようにも思えるんです。

となれば、”源平合戦”の真意は、”平氏”と同族である”清和源氏”と、”平氏”を乗っ取った”海洋民族”との争いだった、という可能性が出てきました。こう考えると実に面白いですね。関東にいた”平氏系一族”の多くは頼朝の配下に下り、清盛の配下が皆”平姓”だった事はやはり不自然です。まぁ、”平家”が”ペルシャ人”だったかどうかはともかく、本来の”平氏”と清盛ら”平家”は”別氏族”と考えた方がよさそうですね。

01.08.19:54

聖徳太子の正体④-聖徳太子は”裏親王”だった!?-

話を元に戻すと、”聖徳太子”は現在”実在性”が疑問視されています。しかし、何の理由も無く「日本書紀」の”歴史時代”の部分に”架空の人物”を設けるとは思えないし、聖徳太子が書いたとされる「未然記」と「未来記」という”預言書”まで発見されています。そして、そこには”記紀”には記されていない太子と中臣鎌足の”意外な関係”についても書かれています。そして、太子はイエス・キリストにも似た”聖人”にして”超人”です。果たして、このような人間は本当に存在するのか? 実は存在するようです。日本には存在していながら”戸籍”に登録されていないために存在していない事になっている人達がいるそうです。そして、彼らは”記紀神話”においては”八咫烏(やたがらす)”や”金鵄(きんし)”として書かれ、”民話”では”天狗”や”鬼”と呼ばれ、”超人”的な力を持つ存在として描かれています。おそらく、そういった”超人的資質”及び”預言者的資質”を本当の意味で受け継いだ人達なのでしょう。そういった人達は一体誰なのか? それは、”イエス・キリスト12使徒”の直系の子孫であり、”天皇家”及び”日本国”を陰で動かす人達です。彼らを飛鳥昭雄氏は便宜上そのままズバリ”八咫烏(やたがらす)”と呼んでおり、その内の更に”頂点”にいる3名が”裏天皇”と呼ばれる人達で、彼らはもしかするとイエス・キリスト本人の血を引いてるかもしれないんです。おそらく、”真の天皇”とは彼らの内のいずれかなのではないでしょうか。そして、イエス・キリストになぞられるような”預言者”にして”超人”の資質を持った聖徳太子は、おそらく”裏天皇”の子だったのではないでしょうか。言うなれば、聖徳太子は”裏親王”だったのではないでしょうか。

そのため、本来表に出てはいけない存在だった太子は、「日本書紀」では表向きな”天皇”の皇子として描かれ、その”モデル”として蘇我馬子の子である蘇我蝦夷が用いられたのではないでしょうか。そして、「日本書紀」の中の聖徳太子の時代に蘇我蝦夷が封印された”真の理由”は、おそらく聖徳太子の”死”と関係があるのではないでしょうか。太子の”人生”が”生誕”から”晩年”までイエスそっくりである事を考えれば、おそらくその”死”もそっくりだった、とは考えられないでしょうか? かねてから聖徳太子は蘇我馬子に殺された、という説がありましたが、そうなると蘇我氏を”悪玉”に仕立て上げた「日本書紀」の編纂者がこの事実を書かなかったのが不自然です。つまり、聖徳太子を殺したのは蘇我馬子ではない、という事です。では、誰が殺したのか? ズバリ、ここで存在を封印された蘇我蝦夷において他にいないでしょう。そして、聖徳太子の”死の真相”を闇に葬るために”記紀編纂者”は蘇我蝦夷を聖徳太子と”同化”させてしまったのではないでしょうか。更には、それによって太子と中臣鎌足が”親子関係”であった事も封印し、鎌足が蘇我氏を滅ぼした”真の理由”が父・聖徳太子の”仇討ち”だった事を隠すためでもあったのでしょう。本来、”預言者”の資質を持っていたはずの鎌足も、この”殺人”を犯した事によって”預言者”の資質を失ったのではないでしょうか。しかし、それと引き換えに彼は”藤原姓”を賜り表の”政治家”として平安時代後半まで”摂政”もしくは”関白”として彼の子孫が代々受け継いでいったのでしょう。だからこそ、中には増徴して”天罰”を受けたものも存在します。しかし、”平安京遷都”以降は藤原氏は”実権”は握っても恵美押勝(藤原仲麻呂)のような”横暴”は振るわなくなったのではないでしょうか。

こうして聖徳太子の”実像”を見てみると、彼は本来は”裏側”の人間であって、おそらく”女帝”である推古天皇を裏側でサポートした”預言者”だったのではないでしょうか。その為に、表向きな推古女帝の”摂政”だった蘇我蝦夷と対立し、そして太子は蝦夷に殺された、というのが真相ではないかと思います。

01.08.13:51

聖徳太子の正体③-太子と中臣鎌足の関係-

飛鳥昭雄氏の著書「「未然記」が解き明かす「真・日本史」」の中で、飛鳥氏は「未然記」の中に”大化の改新”の予言があり、そしてその中で中臣鎌足の”預言者的資質”が記され、それによって中臣鎌足は聖徳太子の子であり、蘇我入鹿に殺されたとされる山背大兄王と”同一人物”ではないか?としています。

その内容を挙げれば、①「未然記」には、蘇我蝦夷・入鹿親子が山背大兄王を殺そうとした事は書かれていても、「殺される。」とは書かれていない事(「未然記」は”預言書”であり、”警告”の意味もあった事から、太子の子である山背大兄王も当然知っていたはずであり、故に”太子一族”は滅亡を免れたのではないか?と思われます。)。②「未然記」には、鎌足が幼少の頃”夢殿(斑鳩宮)”に出入りしていた、という記述があり、太子の”別邸”である”夢殿(斑鳩宮)”に赤の他人の鎌足が出入りするのは不自然である事。③中臣鎌足の生まれ年が”西暦614年”と明確であるのに対し、山背大兄王の生まれ年が不明確である事。④鎌足が12歳の時太子の預言書「未然記」の内容を解読した事から、推古天皇から100歳の人の知恵よりも優れた”聖人”と呼ばれた事(太子と同じ”預言者”の資質があった事)。⑤鎌足の前に”金粟如来”という老人が現れ、「あなたは無垢菩薩です。」と告げた事(これは鎌足が聖徳太子と同じ”聖人”でなければ、”如来=神=天照大神?”が現れるはずがないため。)。⑤山背大兄王の”墓”がないばかりか、聖徳太子の建立したとされる”法隆寺”でも山背大兄王が祀られていない事。しかし、鎌足には”霊廟”が存在する事。⑥推古天皇は、鎌足に言った事と同じように、山背大兄王にも「あなたは若くて立派な行いをするが、貴方に望みが起きたとしても決して人々には言ってはいけません。」と言っている事。・・・等であり、これによって飛鳥氏は”中臣鎌足=山背大兄王”であるとし、故に”中臣鎌足=聖徳太子の息子”としています。

となると、「聖徳太子の正体②」の方では、聖徳太子の”モデル”として蘇我馬子の子で蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷を取り上げましたが、その”モデル”とされる人物がもう1人いた、という事になるでしょう。というより、こちらこそ”聖徳太子の実体”と見て間違いないと思います。ただし、それは中臣鎌足の父とされる中臣御食子ではどうもなさそうです。あとは、厩戸皇子の弟とされる来目皇子も聖徳太子の”モデル”ではないか?とする説もあるようですが、おそらくこの人物は”モデル”というよりも用命天皇の親王、という立場だけ拝借しただけだと考えていいと思います。そうなると、聖徳太子の”真の正体”は一体誰なのか?という事になりますが、それは次章で検証する事にして、いずれにしてもこうして見ると”山背大兄王暗殺事件”の真相が浮かび上がってくると思うんですよ。つまり、山背大兄王の父である”聖徳太子”を蘇我蝦夷に置き換えた場合、その息子である”山背大兄王”は蘇我入鹿、という事になります。で、一方ここで言う”蘇我入鹿”ですが、彼の父の蝦夷を”聖徳太子”に置き換えれば、その息子の山背大兄王は”蘇我入鹿”に置き換える事ができるのです。要するに、この事件における”山背大兄王”と”蘇我入鹿”を入れ替える事ができる、という事になります。そして、”山背大兄王=中臣鎌足”であるとすれば、この事件の”真相”は中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害した事件となり、すなわち”蘇我入鹿殺害事件(乙巳の変)”と同じ事件だった!という事になるんですよ。ただ、実際の”乙巳の変”は中臣鎌足の他に中大兄皇子も”首謀者”になっています。しかし、ここでは中臣鎌足1人になってしまいます。おそらくこれには何かしらの”意味”があるのではないでしょうか。それは、”乙巳の変”は政権略奪のための”クーデター”というだけじゃなくて”仇討ち”の意味もあったのではないか?という事です。要するに、彼の”真の父”である”聖徳太子”なる人物は蘇我氏に殺された、という事ではないでしょうか。

という訳で、次章では聖徳太子の”死”の真相、そして聖徳太子の”正体”について書きたいと思います。

01.08.11:57

聖徳太子の正体②-太子一族=蘇我氏説-

「日本書紀」の記述や、”肖像画”の作成年月のズレから”実在性”が疑われるようになった聖徳太子は実は”架空の人物”であり、その”実体”は”大化の改新”によって権力を握る事になる中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足によって殺害された蘇我入鹿ではないか?という説がかねてからありました。それを裏付けるものとしては、①奈良県橿原市にある”入鹿神社(文字通り蘇我入鹿を祭る神社)”を境内の中に設置している普賢寺の周囲の石碑の中に”聖徳太子”の文字が刻まれ、この神社に聖徳太子が祀られている可能性がある事。②聖徳太子が建立したとされる法隆寺最大の祭り、”聖霊会(しょうりょうえ)”のクライマックスで行われる舞楽の主役、”蘇莫者(そまくさ)”が蘇我入鹿を彷彿している事。等が挙げられ、その事から”聖徳太子=蘇我入鹿説”に発展していったのだと思われます。ただ、問題なのは両者が時代的には”ズレ”がある事。それらを考えるといくら「日本書紀」にある”仕掛け”が施されているとしても、一世代違う人物を”同一人物”に見立てるのはどうも無理があるんです。むしろ、入鹿と同一人物だったのは太子の息子である山背大兄王である可能性の方が高いのです。ちなみに、僕は”蘇我入鹿殺害事件(乙巳の変)”と”山背大兄王殺害事件”は”同一事件”だと考えているんです(この事については次章で書きたいと思います。)。

となると、聖徳太子の”モデル”になった人物は蘇我入鹿の”父”にして、蘇我馬子の”子”とすれば辻褄が合うんです。そして、「日本書紀」における聖徳太子の時代には本来存在していたはずなのに、その”記述”が一切記されていない人物。それは蘇我蝦夷(毛人)なんです! おそらく、彼は「日本書紀」の中では”聖徳太子”と同化された可能性があると思うんですよ。そして、本来聖徳太子が行ったとされる”17条の憲法”や”冠位十二階”の制定もどうやら蘇我馬子も関わっていた可能性が今日の研究によって浮かんできた模様。そうなると、馬子と蝦夷の親子によってこの”制度”が作られていったとしてもおかしくはないですね。しかし、そうなると何故蝦夷が”聖徳太子”として”聖人化”されたのか?という部分でも”疑問”が生じるんです。蝦夷が実はそれだけ凄い人物だったのか? それとも、”太子=入鹿説”で見られるように”祟り”を恐れたのか? しかし、そうであれば同時代の山背大兄王を”聖徳太子”にする事もできたはず! 実は、”聖徳太子”は複数の人間を”モデル”にしていたのではないか?とする説もあるんですよ。おそらくその人物が”鍵”を握っている事は間違いないでしょう。

そして、最近では”蘇我氏=正義”、”中大兄皇子+中臣鎌足=悪”とする見方が強まっているようですが、それでも従来通り”蘇我氏=悪”、”中大兄皇子+中臣鎌足=正義”と見る人もいるという事です。”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏がその1人で、彼は聖徳太子が記したとされる「未然記」には、聖徳太子と中臣鎌足が”親子”である可能性を示唆した部分を指摘しています。そして、いずれも”預言者”の資質を持っている、と指摘しています。更には、中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼす”要因”の一つとして聖徳太子の”仇討ち”という意味合いを持っていたとしたら?  次章では聖徳太子と中臣鎌足の関係について書きたいと思います。

01.08.08:09

聖徳太子の正体①-太子の超人伝説-

最近の研究によって、”肖像画”が死後100年以上後に作られた事が発覚し、その”実在性”が否定されつつある聖徳太子。そして、現在学校の”教科書”にも”聖徳太子”ではなく”厩戸皇子”と記載されるような事態になってしまってます。そして、その”実在性”を疑問視する最大の要因が聖徳太子の”超人的”な逸話なのです。

その”逸話”の例を挙げてみると、①太子誕生の直前、穴穂部間人皇女の目の前に、キラキラと金色に光り輝く僧侶が現れ、「われに救世の願あり。しばらく皇女の胎に宿る」と告げると皇女の口の中に飛び込み、8か月の時点で胎児の声が外に聞こえ、敏達天皇元年(572)の正月元日皇女は宮中を見回って厩戸にきたところで太子が産み落とされた事から”厩戸皇子”と名づけられた事。②太子が5歳の時に、敏達天皇の后、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が後に天皇(推古天皇)になる事を預言した事。③6歳の時、百済より経論・律師・禅師が派遣されてきた際、太子は「わたしはかつて漢土(もろこし)の衡山(こうざん)に住んで、仏の修行を積み重ねてきました。だから経をみたいのです」と前世を語り、経論の閲覧を申し出た事。④13歳の時、蘇我馬子が百済へ派遣した鹿深臣(かふかのおみ)から弥勒菩薩を貰いうけ、仏殿をもうけたが、太子が仏塔に「仏舎利が無ければ倒れる」と予言したため、馬子は祈念し続けたするとある時、仏舎利が突然と現れ、仏舎利は強靱さゆえに鉄で打っても壊れず、ますます輝きを増していった事。⑤蘇我馬子と物部守屋らによる”合戦”を予言。そして、その”合戦”が起こると、太子は白膠(ぬりで)の木を斬って、四天王の像を作り、頭頂の髪にくくりつけ、もしこの戦いに勝ったら、寺院を建てると誓うが、守屋が「物部の布都大明神の矢」と唱え放つと見事太子に命中する。しかし、太子は鎧により無事であり、太子も「これは四天王の矢」と放つと守屋に命中、守屋を失った軍は統制が崩れ、蘇我氏の一方的勝利となった事。⑥崇峻天皇が暗殺される事を予言。⑦推古天皇の”摂政”となった太子は、「一を聞けば十を知り、十を聞けば百を理解した」と伝えられ、高句麗の高僧はこれをみて「これはもことの真人(ひじり)」と感嘆した事、⑧甲斐の国より献上された漆黒の駿馬、”黒駒”に太子が乗ると、空を飛び東の空に消え去った事。⑨41才の時、百済から渡ってきた重度の皮膚病者を救った事。⑩42歳の時、難波から飛鳥へ抜ける竹内街道の整備を行った最中、片岡山に寄り道した際、道端に横たわっていた飢えた乞食に衣を着せかけて詠を送り、斑鳩に戻った太子は使いを片岡山に使いをやったが、既に乞食は息絶えており、太子は嘆き悲しみ、そこに立派な墓を築いた。蘇我馬子が苦情を申し立てると太子は「墓を見よ」と告げ、馬子が墓をみると、遺骸はなく衣服のみが残され香しい匂いのみが漂り、その乞食が禅宗の始祖「達磨大師」(だるまたいし)であったと伝えられている事。・・・等があります。

しかし、これらの”逸話”の多くは、この当時に日本に伝わっていたとされる景教(ネストリウス派キリスト教)におけるイエス・キリストをモチーフとしている可能性が高く、とても”史実”とは思えない現実離れしたエピソードが多い事からも昨今の”聖徳太子不在説”が唱えられるようになったのではないでしょうか。しかし、聖徳太子が仮に”架空の人物”だったとして、このような人物が何故「日本書紀」に描かれたのだろうか? 何故、古代の”正史書”とされた書物の中に”架空の人物”を入れる必要があったのだろうか? もっとも、”記紀”においては”神話部分”においては確かに”架空の人物”と思われる人物は登場します。しかし、聖徳太子は少なくとも”歴史時代”の人物です。それに、”記紀”における”神話部分”もおそらくはそれを裏付ける”史実”が隠されている可能性はあると思われるので、そうなると聖徳太子が”架空の人物”であったとしてもその”モデル”が存在していた可能性が充分考えられるのです。その”モデル”として候補に挙げられるのが、かねてから言われていた蘇我入鹿です。何故なら、蘇我入鹿は”天皇家(中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足)”によって殺され、その”祟り”を恐れて”聖人化”されたのが聖徳太子ではないか、という見方が出来るからです。次章では、聖徳太子と蘇我氏との関係について検証したいと思います。

12.09.20:09

上杉謙信とイエス・キリスト-女説の真相と義人伝説-③

かなり”強引”ではあるが、上杉謙信の”死因”が”処刑”である可能性が出てきました。そもそも、彼の”死”の直前には”宿敵”であった武田と”同盟”を結んでその頃破竹の勢いで”天下”を目指していた織田信長を背後から襲おうとする動きを見せていました。しかし、突如”急死”した事から信長の差し金による”暗殺説”はかねてからあったと思います。でも、武田と手を組み”鬼に金棒”状態になった謙信をいくら信長であってもそう容易には”暗殺”は出来なかったはず。でも、”暗殺”が無理なら”内部分裂”を狙う事であれば可能だったのではないでしょうか。元々上杉家は、謙信と家臣の意見が対立していた事もしばしばあったようです。謙信が本当に”義将”だったかどうかは別として、それでも彼が”義人”を装い、何をするにも”大義”を重んじていた事は確かでしょう。それゆえ、時に家臣達にそれが伝わらなかった事もしばしばあったと思われます。その際たる”例”が、彼がまだ長尾景虎と名乗っていた頃、突然”隠居宣言”し、”失踪”した事です。その頃は、まだ領内が安定しておらず、後に配下となる国人達がまだ好き勝手にやっていたようです。それに嫌気が差して、彼は”隠居宣言”し、家臣の制止も聞かず”失踪”してしまいます。それを危惧した家臣、国人達が謙信に対して”忠誠”を誓った事によって謙信は再び城に戻る事になりますが、実はこれは謙信が家臣、国人を従わせるために打った”芝居”だった、という説があります。さらに、謙信が甲斐への”塩のルート”を断たなかった事に対しても多くの家臣は反発していたようですからね。そして、晩年武田信玄の息子勝頼と”同盟”を結ぼうとした際にも、”反対意見”があった模様。それによって、謙信と家臣との間に”溝”が深まればどうなるでしょうか?

そこに、”後継者”である景勝が絡めば更にどうなったでしょうか? まず、景勝は謙信を心から信頼していたのでしょうか? というのも、景勝は”表向き”には謙信の親戚筋である長尾政景と謙信の姉である仙桃院の子とされています。しかし、彼らの間にはその前にも義景という”長子”が存在していました。ところが、彼はかなり早い内に亡くなっています(詳細不明)。となれば、おそらく”病弱”であったろう義景に代わる”養子”をどこから迎えた可能性も考えられるのではないでしょうか。それが景勝だったとしたら? もし、景勝が謙信の”隠し子”であれば、戦略上”独身”を装うために景勝を政景夫妻の”養子”に出していた可能性も考えられるのではないでしょうか。でも、この政景という人物、結構”あっち”へついたり”こっち”へついたり調子の良い人物で、どうもあまり信用に置けなかった人だったようですね。最初は謙信の兄であり”前当主”だった晴景側に付き、謙信が晴景から”当主”の座を奪うと、すぐに謙信に従いますが、すぐに”謀反”を起こし、しかしすぐに降伏して再び謙信に従っています。でも、彼に”不信感”を持った謙信によって最終的には”暗殺”されたのでは、という説があります。それだけ、彼の”死”には”謎”が多いようです。でも、この事にもし景勝の件が絡んでいたとしたらどうでしょう? おそらく、謙信が強引に景勝を”後継者”に立てようとしていて、それを政景が反対していたとしたら? まぁ、表向きには”事故”として片付けられていたのでしょうけど、この事をかねてから景勝が疑っていたとしたらどうでしょうか? そして、自分が本当は謙信の”隠し子”である事に薄々感づいていたとしたら? 

このようにして、景勝には常に謙信に対する”不信感”があり、更に謙信と家臣達の”溝”が深まればどうなるか? そして、景勝が一部の家臣と”結託”していたとしたら? 特に、それらが武田家との”同盟”に反対する連中だったとすればどうでしょう? それによって、武田と手を結び、”破竹の勢い”のあった信長を封じ込めようとしていた矢先に、速やかに”謀反”を起こして謙信を捕らえ、そしてその場で”処刑”した、というのが謙信の死の”真相”である、というのはどうでしょう? そして、実はそれを促した”黒幕”が信長であれば、信長は戦わずして謙信を殺す事が出来ますからね。また、当然ながらこの事は信長の”面子”を考えても隠し通す事は必定。おそらく、信長は”忍び”や”山の民”によって上杉家の”秘密”を握っていたのではないでしょうか(となれば、武田や北条も上杉家の”秘密”は知っていたでしょうが、彼らはあくまでもこれらの事は”切り札”として最後に取っておいたのではないでしょうか)。

しかし、これがもし”事実”だとしたら、このような”惨劇”がいかにして”病死”という事に収まったのか? おそらく、上杉家の”配下”にも秦氏が関わっていた可能性があるため、彼らによって何とか取り繕う事が出来たのかもしれませんが、その他にこれらの”封印”に一役買った人物がいたのは確かだと思います。その人物とは? 僕が思うに、それは謙信の”姉”にして、景勝の”母”とされる仙桃院です。彼女は、景勝の”参謀”に直江兼続を推挙するなど、景勝をバックアップした人物であるようです。更には、謙信にもかなりの影響を与えていたようで、謙信が生涯”独身”だったのは実は姉仙桃院、さらには母青岩院に溺愛されたためである、という説もあります。そんな彼女を謙信は尊敬し、更には”息子”とされる景勝もまた彼女を尊敬していたのでしょう。そして、”最愛の弟”を亡くし、更にその”犯人”が”息子(養子?)”である景勝である事を知った彼女は、真っ先に「上杉家を何とかせねば。」という衝動に駆られたに違いないと思います。そこで、この事を封印するために、まずは謙信の死を”病死”として公表します。そして、彼の栄誉を称えるために謙信の”義人化”を図ったのではないでしょうか。その為には、上杉家に残された文書、書類などを”改竄”する必要もあったでしょう。そして、彼の書いた”手紙”とされるものの中にはおそらく仙桃院が書き直したものもあったのではないでしょうか。それが、”女性説の根拠”の内の④の真相だったのでしょう。そして、彼女が”男勝り”だったとすれば⑥の真相になります。更に、”息子”とされる景勝が本当に信頼していた人物が彼女であれば、スペイン王に宛てた手紙の”偉大なる叔母”は仙桃院の事だったのではないでしょうか! これが⑤の真相です。となると、彼女は景勝の”母”ではなく”叔母”という事になり、謙信の”隠し子”である可能性が出てきます(ここでスペインとの交流があったことを考えると、彼らは実は”キリシタン”だった、という事か?)。更に、”仙桃院”の名前の”仙”は”仙人”を意味し、”桃”は”不老長寿の果物”とされてきました。そして、この両方が合わされば中国における伝説の楽園”桃源郷”を意味する事になります。僕が思うに、”仙人=神(ヤハウェ=イエス・キリスト)”、”桃=生命の木(ユダヤ教密教カッバーラ)”、”桃源郷=エデンの園=高天原”と考えております。となれば、彼女も”秦氏”と深いつながりがあるように思えてなりません。となれば、この仙桃院こそ”謙信女性説”の”モデル”だったのではないでしょうか。そして、もっと言ってしまえば、事の”真相”がばれそうになった時、”謙信=女説”が生まれるように初めから仕掛けられていたのではないでしょうか。

仙桃院は、謙信の”死の真実”を隠すために、”謙信女性説”が生まれるように仕掛け、そして彼女の背後に”秦氏”がいた、とするとこれは一体何を意味するのか? 実は、飛鳥昭雄氏によれば、日本神話の”最高神”で”女神”とされている天照大神は実は”男神”であり、そしてその”正体”は何を隠そう”イエス・キリスト”だとしています! その”根拠”は、イエスの”磔刑”の場面と天照大神の”天岩戸隠れ”の場面があまりにも似ているからに他なりません! イエスが日本において最終的に”女神”となった事を考えれば、謙信も最終的に”女性”にする事で”事の真相”を隠そうとしたのかもしれません。おそらく、仙桃院は”天照大神=イエス・キリスト”である事を知っていたのでしょう。こうして、上杉謙信は”義の武将”として語り継がれるようになったのでしょう。