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飛鳥昭雄氏の著書「「未然記」が解き明かす「真・日本史」」の中で、飛鳥氏は「未然記」の中に”大化の改新”の予言があり、そしてその中で中臣鎌足の”預言者的資質”が記され、それによって中臣鎌足は聖徳太子の子であり、蘇我入鹿に殺されたとされる山背大兄王と”同一人物”ではないか?としています。 その内容を挙げれば、①「未然記」には、蘇我蝦夷・入鹿親子が山背大兄王を殺そうとした事は書かれていても、「殺される。」とは書かれていない事(「未然記」は”預言書”であり、”警告”の意味もあった事から、太子の子である山背大兄王も当然知っていたはずであり、故に”太子一族”は滅亡を免れたのではないか?と思われます。)。②「未然記」には、鎌足が幼少の頃”夢殿(斑鳩宮)”に出入りしていた、という記述があり、太子の”別邸”である”夢殿(斑鳩宮)”に赤の他人の鎌足が出入りするのは不自然である事。③中臣鎌足の生まれ年が”西暦614年”と明確であるのに対し、山背大兄王の生まれ年が不明確である事。④鎌足が12歳の時太子の預言書「未然記」の内容を解読した事から、推古天皇から100歳の人の知恵よりも優れた”聖人”と呼ばれた事(太子と同じ”預言者”の資質があった事)。⑤鎌足の前に”金粟如来”という老人が現れ、「あなたは無垢菩薩です。」と告げた事(これは鎌足が聖徳太子と同じ”聖人”でなければ、”如来=神=天照大神?”が現れるはずがないため。)。⑤山背大兄王の”墓”がないばかりか、聖徳太子の建立したとされる”法隆寺”でも山背大兄王が祀られていない事。しかし、鎌足には”霊廟”が存在する事。⑥推古天皇は、鎌足に言った事と同じように、山背大兄王にも「あなたは若くて立派な行いをするが、貴方に望みが起きたとしても決して人々には言ってはいけません。」と言っている事。・・・等であり、これによって飛鳥氏は”中臣鎌足=山背大兄王”であるとし、故に”中臣鎌足=聖徳太子の息子”としています。 となると、「聖徳太子の正体②」の方では、聖徳太子の”モデル”として蘇我馬子の子で蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷を取り上げましたが、その”モデル”とされる人物がもう1人いた、という事になるでしょう。というより、こちらこそ”聖徳太子の実体”と見て間違いないと思います。ただし、それは中臣鎌足の父とされる中臣御食子ではどうもなさそうです。あとは、厩戸皇子の弟とされる来目皇子も聖徳太子の”モデル”ではないか?とする説もあるようですが、おそらくこの人物は”モデル”というよりも用命天皇の親王、という立場だけ拝借しただけだと考えていいと思います。そうなると、聖徳太子の”真の正体”は一体誰なのか?という事になりますが、それは次章で検証する事にして、いずれにしてもこうして見ると”山背大兄王暗殺事件”の真相が浮かび上がってくると思うんですよ。つまり、山背大兄王の父である”聖徳太子”を蘇我蝦夷に置き換えた場合、その息子である”山背大兄王”は蘇我入鹿、という事になります。で、一方ここで言う”蘇我入鹿”ですが、彼の父の蝦夷を”聖徳太子”に置き換えれば、その息子の山背大兄王は”蘇我入鹿”に置き換える事ができるのです。要するに、この事件における”山背大兄王”と”蘇我入鹿”を入れ替える事ができる、という事になります。そして、”山背大兄王=中臣鎌足”であるとすれば、この事件の”真相”は中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害した事件となり、すなわち”蘇我入鹿殺害事件(乙巳の変)”と同じ事件だった!という事になるんですよ。ただ、実際の”乙巳の変”は中臣鎌足の他に中大兄皇子も”首謀者”になっています。しかし、ここでは中臣鎌足1人になってしまいます。おそらくこれには何かしらの”意味”があるのではないでしょうか。それは、”乙巳の変”は政権略奪のための”クーデター”というだけじゃなくて”仇討ち”の意味もあったのではないか?という事です。要するに、彼の”真の父”である”聖徳太子”なる人物は蘇我氏に殺された、という事ではないでしょうか。 という訳で、次章では聖徳太子の”死”の真相、そして聖徳太子の”正体”について書きたいと思います。 PR
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