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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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01.08.11:57

聖徳太子の正体②-太子一族=蘇我氏説-

「日本書紀」の記述や、”肖像画”の作成年月のズレから”実在性”が疑われるようになった聖徳太子は実は”架空の人物”であり、その”実体”は”大化の改新”によって権力を握る事になる中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足によって殺害された蘇我入鹿ではないか?という説がかねてからありました。それを裏付けるものとしては、①奈良県橿原市にある”入鹿神社(文字通り蘇我入鹿を祭る神社)”を境内の中に設置している普賢寺の周囲の石碑の中に”聖徳太子”の文字が刻まれ、この神社に聖徳太子が祀られている可能性がある事。②聖徳太子が建立したとされる法隆寺最大の祭り、”聖霊会(しょうりょうえ)”のクライマックスで行われる舞楽の主役、”蘇莫者(そまくさ)”が蘇我入鹿を彷彿している事。等が挙げられ、その事から”聖徳太子=蘇我入鹿説”に発展していったのだと思われます。ただ、問題なのは両者が時代的には”ズレ”がある事。それらを考えるといくら「日本書紀」にある”仕掛け”が施されているとしても、一世代違う人物を”同一人物”に見立てるのはどうも無理があるんです。むしろ、入鹿と同一人物だったのは太子の息子である山背大兄王である可能性の方が高いのです。ちなみに、僕は”蘇我入鹿殺害事件(乙巳の変)”と”山背大兄王殺害事件”は”同一事件”だと考えているんです(この事については次章で書きたいと思います。)。

となると、聖徳太子の”モデル”になった人物は蘇我入鹿の”父”にして、蘇我馬子の”子”とすれば辻褄が合うんです。そして、「日本書紀」における聖徳太子の時代には本来存在していたはずなのに、その”記述”が一切記されていない人物。それは蘇我蝦夷(毛人)なんです! おそらく、彼は「日本書紀」の中では”聖徳太子”と同化された可能性があると思うんですよ。そして、本来聖徳太子が行ったとされる”17条の憲法”や”冠位十二階”の制定もどうやら蘇我馬子も関わっていた可能性が今日の研究によって浮かんできた模様。そうなると、馬子と蝦夷の親子によってこの”制度”が作られていったとしてもおかしくはないですね。しかし、そうなると何故蝦夷が”聖徳太子”として”聖人化”されたのか?という部分でも”疑問”が生じるんです。蝦夷が実はそれだけ凄い人物だったのか? それとも、”太子=入鹿説”で見られるように”祟り”を恐れたのか? しかし、そうであれば同時代の山背大兄王を”聖徳太子”にする事もできたはず! 実は、”聖徳太子”は複数の人間を”モデル”にしていたのではないか?とする説もあるんですよ。おそらくその人物が”鍵”を握っている事は間違いないでしょう。

そして、最近では”蘇我氏=正義”、”中大兄皇子+中臣鎌足=悪”とする見方が強まっているようですが、それでも従来通り”蘇我氏=悪”、”中大兄皇子+中臣鎌足=正義”と見る人もいるという事です。”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏がその1人で、彼は聖徳太子が記したとされる「未然記」には、聖徳太子と中臣鎌足が”親子”である可能性を示唆した部分を指摘しています。そして、いずれも”預言者”の資質を持っている、と指摘しています。更には、中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼす”要因”の一つとして聖徳太子の”仇討ち”という意味合いを持っていたとしたら?  次章では聖徳太子と中臣鎌足の関係について書きたいと思います。

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