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12.09.20:09
かなり”強引”ではあるが、上杉謙信の”死因”が”処刑”である可能性が出てきました。そもそも、彼の”死”の直前には”宿敵”であった武田と”同盟”を結んでその頃破竹の勢いで”天下”を目指していた織田信長を背後から襲おうとする動きを見せていました。しかし、突如”急死”した事から信長の差し金による”暗殺説”はかねてからあったと思います。でも、武田と手を組み”鬼に金棒”状態になった謙信をいくら信長であってもそう容易には”暗殺”は出来なかったはず。でも、”暗殺”が無理なら”内部分裂”を狙う事であれば可能だったのではないでしょうか。元々上杉家は、謙信と家臣の意見が対立していた事もしばしばあったようです。謙信が本当に”義将”だったかどうかは別として、それでも彼が”義人”を装い、何をするにも”大義”を重んじていた事は確かでしょう。それゆえ、時に家臣達にそれが伝わらなかった事もしばしばあったと思われます。その際たる”例”が、彼がまだ長尾景虎と名乗っていた頃、突然”隠居宣言”し、”失踪”した事です。その頃は、まだ領内が安定しておらず、後に配下となる国人達がまだ好き勝手にやっていたようです。それに嫌気が差して、彼は”隠居宣言”し、家臣の制止も聞かず”失踪”してしまいます。それを危惧した家臣、国人達が謙信に対して”忠誠”を誓った事によって謙信は再び城に戻る事になりますが、実はこれは謙信が家臣、国人を従わせるために打った”芝居”だった、という説があります。さらに、謙信が甲斐への”塩のルート”を断たなかった事に対しても多くの家臣は反発していたようですからね。そして、晩年武田信玄の息子勝頼と”同盟”を結ぼうとした際にも、”反対意見”があった模様。それによって、謙信と家臣との間に”溝”が深まればどうなるでしょうか? そこに、”後継者”である景勝が絡めば更にどうなったでしょうか? まず、景勝は謙信を心から信頼していたのでしょうか? というのも、景勝は”表向き”には謙信の親戚筋である長尾政景と謙信の姉である仙桃院の子とされています。しかし、彼らの間にはその前にも義景という”長子”が存在していました。ところが、彼はかなり早い内に亡くなっています(詳細不明)。となれば、おそらく”病弱”であったろう義景に代わる”養子”をどこから迎えた可能性も考えられるのではないでしょうか。それが景勝だったとしたら? もし、景勝が謙信の”隠し子”であれば、戦略上”独身”を装うために景勝を政景夫妻の”養子”に出していた可能性も考えられるのではないでしょうか。でも、この政景という人物、結構”あっち”へついたり”こっち”へついたり調子の良い人物で、どうもあまり信用に置けなかった人だったようですね。最初は謙信の兄であり”前当主”だった晴景側に付き、謙信が晴景から”当主”の座を奪うと、すぐに謙信に従いますが、すぐに”謀反”を起こし、しかしすぐに降伏して再び謙信に従っています。でも、彼に”不信感”を持った謙信によって最終的には”暗殺”されたのでは、という説があります。それだけ、彼の”死”には”謎”が多いようです。でも、この事にもし景勝の件が絡んでいたとしたらどうでしょう? おそらく、謙信が強引に景勝を”後継者”に立てようとしていて、それを政景が反対していたとしたら? まぁ、表向きには”事故”として片付けられていたのでしょうけど、この事をかねてから景勝が疑っていたとしたらどうでしょうか? そして、自分が本当は謙信の”隠し子”である事に薄々感づいていたとしたら? このようにして、景勝には常に謙信に対する”不信感”があり、更に謙信と家臣達の”溝”が深まればどうなるか? そして、景勝が一部の家臣と”結託”していたとしたら? 特に、それらが武田家との”同盟”に反対する連中だったとすればどうでしょう? それによって、武田と手を結び、”破竹の勢い”のあった信長を封じ込めようとしていた矢先に、速やかに”謀反”を起こして謙信を捕らえ、そしてその場で”処刑”した、というのが謙信の死の”真相”である、というのはどうでしょう? そして、実はそれを促した”黒幕”が信長であれば、信長は戦わずして謙信を殺す事が出来ますからね。また、当然ながらこの事は信長の”面子”を考えても隠し通す事は必定。おそらく、信長は”忍び”や”山の民”によって上杉家の”秘密”を握っていたのではないでしょうか(となれば、武田や北条も上杉家の”秘密”は知っていたでしょうが、彼らはあくまでもこれらの事は”切り札”として最後に取っておいたのではないでしょうか)。 しかし、これがもし”事実”だとしたら、このような”惨劇”がいかにして”病死”という事に収まったのか? おそらく、上杉家の”配下”にも秦氏が関わっていた可能性があるため、彼らによって何とか取り繕う事が出来たのかもしれませんが、その他にこれらの”封印”に一役買った人物がいたのは確かだと思います。その人物とは? 僕が思うに、それは謙信の”姉”にして、景勝の”母”とされる仙桃院です。彼女は、景勝の”参謀”に直江兼続を推挙するなど、景勝をバックアップした人物であるようです。更には、謙信にもかなりの影響を与えていたようで、謙信が生涯”独身”だったのは実は姉仙桃院、さらには母青岩院に溺愛されたためである、という説もあります。そんな彼女を謙信は尊敬し、更には”息子”とされる景勝もまた彼女を尊敬していたのでしょう。そして、”最愛の弟”を亡くし、更にその”犯人”が”息子(養子?)”である景勝である事を知った彼女は、真っ先に「上杉家を何とかせねば。」という衝動に駆られたに違いないと思います。そこで、この事を封印するために、まずは謙信の死を”病死”として公表します。そして、彼の栄誉を称えるために謙信の”義人化”を図ったのではないでしょうか。その為には、上杉家に残された文書、書類などを”改竄”する必要もあったでしょう。そして、彼の書いた”手紙”とされるものの中にはおそらく仙桃院が書き直したものもあったのではないでしょうか。それが、”女性説の根拠”の内の④の真相だったのでしょう。そして、彼女が”男勝り”だったとすれば⑥の真相になります。更に、”息子”とされる景勝が本当に信頼していた人物が彼女であれば、スペイン王に宛てた手紙の”偉大なる叔母”は仙桃院の事だったのではないでしょうか! これが⑤の真相です。となると、彼女は景勝の”母”ではなく”叔母”という事になり、謙信の”隠し子”である可能性が出てきます(ここでスペインとの交流があったことを考えると、彼らは実は”キリシタン”だった、という事か?)。更に、”仙桃院”の名前の”仙”は”仙人”を意味し、”桃”は”不老長寿の果物”とされてきました。そして、この両方が合わされば中国における伝説の楽園”桃源郷”を意味する事になります。僕が思うに、”仙人=神(ヤハウェ=イエス・キリスト)”、”桃=生命の木(ユダヤ教密教カッバーラ)”、”桃源郷=エデンの園=高天原”と考えております。となれば、彼女も”秦氏”と深いつながりがあるように思えてなりません。となれば、この仙桃院こそ”謙信女性説”の”モデル”だったのではないでしょうか。そして、もっと言ってしまえば、事の”真相”がばれそうになった時、”謙信=女説”が生まれるように初めから仕掛けられていたのではないでしょうか。 仙桃院は、謙信の”死の真実”を隠すために、”謙信女性説”が生まれるように仕掛け、そして彼女の背後に”秦氏”がいた、とするとこれは一体何を意味するのか? 実は、飛鳥昭雄氏によれば、日本神話の”最高神”で”女神”とされている天照大神は実は”男神”であり、そしてその”正体”は何を隠そう”イエス・キリスト”だとしています! その”根拠”は、イエスの”磔刑”の場面と天照大神の”天岩戸隠れ”の場面があまりにも似ているからに他なりません! イエスが日本において最終的に”女神”となった事を考えれば、謙信も最終的に”女性”にする事で”事の真相”を隠そうとしたのかもしれません。おそらく、仙桃院は”天照大神=イエス・キリスト”である事を知っていたのでしょう。こうして、上杉謙信は”義の武将”として語り継がれるようになったのでしょう。 PR
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調べた所、”幼少期”の謙信(当時虎千代)は、非常に体が大きく、手を付けられない”暴れん坊”だったようです。その為に林泉寺と言う寺に預けられたようですけど、そこでの修行の結果、元服した景虎がまるで”別人”のように”義”を重んじる武将に成長しました。で、変なかんぐりをすると、もしかして本当に”別人”だったんじゃないか?って思っちゃったりするんです(笑) すなわち、”すり替え”が行われていたらどうでしょう?
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