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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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03.29.08:06

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03.25.23:48

平氏と平家は”別氏族”だった!?

いつ放送されたのか気付かないまま放送されてしまった「新説!?みのもんたの日本ミステリー!~失われた真実に迫る!~」という番組の中で、平家は”ペルシャ人”だった!?という説が取り上げられていたようです(とりあえず、その”実証”についてはこの番組を見ていないのと、”本題”からずれてしまうんで割愛させていただきます)。いくつかの”根拠”はあるようですけど、しかしながら清盛が白河天皇の”御落胤”であるという説は有力であるのと、清盛と後継者の宗盛の”肖像画”の顔がどう見ても扁平な顔をした典型的な”モンゴロイド”の顔をしている事から、”平家本流”が”ペルシャ人”である可能性は低いように思います。ただ、清盛の頃の平家の配下の人間が皆”平姓”を名乗っていた事が異常であるのも事実。全て”同族”と考えるには無理がありますから。そうなると、平家は”近親相姦”だらけになってしまいますからね(汗) しかし、その配下に中国人、朝鮮人、さらにはペルシャ人等の”外国人”がいたとしたら、あえて”平”の姓を名乗らせていた可能性はあるかもしれません。しかし、そうなると源頼朝の配下にいた北条時政、和田義盛、梶原景時らは”平氏”の一族なんです。しかし、彼らは”平姓”を名乗ってはいません。普通、同族の”家臣”の場合は、”主家”と区別するためにあえて”別姓”にするしきたりがあったためです。にもかかわらず、”平家”の場合は主従に関係なく”平”を名乗っているのは確かに不自然です。更に、”平氏”と”平家”が使い分けられている事自体も”不自然”でならないんです。

で、以前から”疑問”に思っていたのですが、”平氏”と”平家”は”別氏族”だったのではないでしょうか? もっとも、清盛が”天皇の落とし胤”だとすればそうなりますが、しかし清盛と血のつながらない一族もいっぱいいた訳で、その中でも彼らが”団結”していたのは何故だったのだろうか? 実は、将門の頃の”平氏”は、一族同士の争いは盛んだったんですよ。有名な”平将門の乱(同時期に起こった藤原純友の乱と共に”承平天慶の乱”と言われている)”のきっかけは、将門が一族の国香の領地を侵略した事に起こり、将門を捕らえたのが国香の息子である貞盛である事を考えれば、彼らは本来は源氏同様同族同士はそれほど仲が良くなかったはずで、これは”騎馬民族”によく見られる風習で、その代わり”別民族”でも信頼できる者、実力のある者であれば”配下”に加える風習も持っているため、それが源頼朝や武田信玄にも通じる事から、本来の”平氏”は”騎馬民族”の流れを汲む一族であると考えられます(源氏と平氏の関係については後ほど書きます)。更に、将門は”海上戦”より”陸上戦”が得意だったはずです。その反面、清盛ら”平家”は?というと、一族は”一致団結”していたし、”海上戦”を得意としていた事から、彼らが”騎馬民族”ではなく”海洋民族”と関わりが深かった事だけは確かだと思われます。となると、彼らは一体”何者”だったのか?という事になりますよね。

おそらく、”源氏”と同様、”平姓”を名乗っていた一族は実は”桓武平氏”以外にも複数いたのではないでしょうか。特に”帰化人”が名乗っていた可能性も充分考えられる訳で、そこに様々な”民族”の痕跡は確かにあったかもしれませんね。ただ、問題なのは”帰化人”がどっからどこまで”帰化人”と言えるのか?という事で、天皇家と共に日本にやってきた可能性の高い秦氏さえ”帰化人”と呼ばれている事を考えれば、実際はそれぐらい古い時期に日本にやってきた可能性も充分考えられますね。となると、天皇家と共に様々な民族が渡来してきた可能性はあるでしょう(厳密に言えば、天皇家や秦氏を含めた”イスラエル系支族”の中に様々な民族が吸収されていると考えた方が良いかもしれません)。事実、平家に”ペルシャ”の痕跡があるならば、彼らよりずーっと古い蘇我氏にも”ペルシャ”の痕跡はたくさんあるようですからね。いずれにしても言える事は、”ペルシャ文化”を吸収していた”イスラエル系民族”の一部が”海のシルクロード”を渡って日本に来ていたとする説があり、それが”物部氏”の本流とされる”海部氏”である事を飛鳥昭雄氏は著書の中でそれとなく書いています。物部や蘇我の”残党”が”平家”と合流し、やがて”平家”を乗っ取ったとすればどうでしょう。

一方、”平家”のライバルである”源氏(清和源氏)”は、上記で書いた通り、”身内争い”を頻繁に起こしていた一族で、”保元の乱”では頼朝の父、義朝は清盛らと共に実の父、為義と実の弟、為朝を討っています。その後の”平治の乱”では、一族の源頼政が平家方に付いた事によって”形勢不利”となった義朝が平家に討たれます。そして、その後の”源平合戦”においては、まず頼朝は義経を使って”従兄弟”である木曾義仲を討ち、”平家滅亡”後、今度は実の弟である義経を討ち、義経に組したもう1人の弟、範頼をも討っています。更には、”鎌倉幕府”滅亡後、新たに”足利幕府(後の室町幕府)”を開いた”源氏流”の足利尊氏は、弟の直義と対立、やがて殺害し、尊氏の”庶子”で直義の養子となった直冬をも討っています。それから、”戦国の英雄”の1人である源氏の流れを汲む武田信玄にしても、父・信虎を甲斐から追放し、また嫡子・義信を幽閉した上死に追いやっています。こうして見ても、源氏がいかに”同族”に冷たいかが伺えるでしょう。これは、典型的な”騎馬民族”の風習であり、それが将門の頃の”平氏”にもそういった点が見られる事から、おそらく彼らも本来は”騎馬民族”であった可能性は高いでしょう。

そう考えると、”平氏”、そして”源氏”の”ルーツ”は何者なのだろうか? 考えられるのは、日本を最終的に支配した”大和民族(北朝イスラエル10支族+南朝ユダ系原始キリスト教徒)”の内、”騎馬民族”の資質を強く受け継いだ一族が”平氏”になったのでは?という事で、”平(タイラ)”とは騎馬民族スキタイの”本拠地”であった”タタール”から来たのではないか?と考えられるのです。で、実は源氏の”祖”と言われている源経基の息子とされる源満仲が初め”多田姓”を名乗っており、源氏を乗っ取った、とする説があるようです。で、その”多田”という姓は”鉄産民”である”タタラ”から来ていると言われ、その”タタラ”はやはり”鉄産民”でもあったスキタイの本拠地、タタールから来ているそうです。という風に考えると、もしかすると”平氏”と”源氏”は”同族”だった可能性が出てきます。それに、”平氏”は当初関東を拠点にしていましたが、その後源氏も関東を拠点とするようになり、そして頼朝は鎌倉に”幕府”を開いていますからね。どうも、平将門が夢に描いていた”新皇”というものを頼朝が実現したようにも思えるんですよ。それと幕府の”幕”が、騎馬民族の住居であった”幕屋”から来ているようにも思えるんです。

となれば、”源平合戦”の真意は、”平氏”と同族である”清和源氏”と、”平氏”を乗っ取った”海洋民族”との争いだった、という可能性が出てきました。こう考えると実に面白いですね。関東にいた”平氏系一族”の多くは頼朝の配下に下り、清盛の配下が皆”平姓”だった事はやはり不自然です。まぁ、”平家”が”ペルシャ人”だったかどうかはともかく、本来の”平氏”と清盛ら”平家”は”別氏族”と考えた方がよさそうですね。
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無題

わたしは、ペルシャ系の人々であった平家を統括していた氏族だったので平氏だったとみたいですね。

氏族名は、たいてい彼らの関連が強かった事柄に由来したようですから。

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