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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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04.20.17:01

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12.30.14:51

日本人の成り立ち②-徐福伝説と邪馬台国-

紀元前5世紀前後になると、それまでの”縄文時代”の物とは明らかに違う文化がもたらされた痕跡が、”弥生式土器”、”水田跡”、そして”新モンゴロイド系の人骨”の発掘によって明らかになりました。そして、その時代とほぼ重なる紀元前213年、秦の始皇帝の”参謀”の1人だった徐福という人物が、始皇帝の”独裁政権”から逃れるために「はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいとおもいます。」と始皇帝に申し出、稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)を備え、そして若い男女ら3000人を伴って日本に渡来し、そのまま”亡命”した、とする伝説があります。徐福は当初”架空の人物”という疑いがあったようですが、最近の研究ではその”実在性”が明らかになったようです。そして、日本においても”徐福伝説”はかなり多くの地域で残されています。

しかし、飛鳥昭雄氏は「日本人の成り立ち①」で書いたように、かつて日本の本州は”フォッサマグナ(①を参照)”を境に2つに別れており、そこへアメリカ大陸から”東日本側”に”インカ/アステカ系民族”が渡来し、”西日本側”に”マヤ系民族”が渡来して、それぞれ”縄文文明”と”弥生文明”を築いていった、としています。その証拠として、”縄文人”の末裔とされるアイヌとインカ人が”文字”を持たない事、「魏志倭人伝」に書かれている”倭人”の服装や風習が”マヤ人”に酷似する事、としています。更に「魏志倭人伝」に書かれている倭人の特徴が”中国人”や”朝鮮人”とは全く異なる事、としています。でも、そうなれば時代的に紀元前3世紀前後の地層から発掘される”縄文式土器”とは明らかに形状の異なる”弥生式土器”や、アメリカ先住民が行っていなかったはずの”稲作農業”の痕跡、そして”縄文人”とは明らかに形質の違う”新モンゴロイド系の人骨”の説明がつかなくなります。おそらく、”西日本先住民=弥生人”は基本的には”縄文人”とさほど変わらなかったのかもしれません。しかし、紀元前5世紀前後(厳密には紀元前3世紀前後)にはそれまでと全く異なる”中国系”の文化が入ってきた事は間違いないと思います。そして、それをもたらしたのが徐福率いる”秦の亡命者”であるとするならば、おそらく彼らが当時の”西日本”を統一して”邪馬台国”を築いていった可能性も考えられると思います。

そのようにして形作られていった”西日本弥生王国=邪馬台国”も、徐福ら”最初の亡命者”達が亡くなると次第に”勢力”が弱まり、更に飛鳥氏が指摘するように東西に分かれていた本州が”地殻変動”により衝突すると、”東日本側”の縄文人(「魏志倭人伝」でいう所の狗奴国)が攻めてきて、それによって「魏志倭人伝」で言う”倭国大乱”が起こり、当時畿内にあったと思われる”邪馬台国”の主用地域は”狗奴国=縄文人”に奪われ、一時九州に退散したと思われます。そして、当時朝鮮半島に既に居住していたであろう”秦人(イスラエス10支族+秦氏)”と同盟を結んで、その一支族(おそらく”天皇家”より先に日本にいたとされる物部氏)を後ろ盾に”邪馬台国”を”狗奴国=縄文人”から奪回し、”先住民系”で”シャーマン”の資質を持つ卑弥呼を”マスコット”的な”女王”として”西日本”を再び統治したのでしょう。そして、その為に用いられた”権威の象徴”が黄金製の”親魏倭王印”と”三角縁神獣鏡”で、それを裏で画策したのが徐福の末裔である”旧邪馬台国王家”と彼らと同盟して九州に新たな国”伊都国”あるいは”奴国”を建てた”秦人(イスラエス10支族+秦氏)”の一部で、その”主流”である”天皇家”に先駆けて日本に渡来した物部氏ではないでしょうか(金印には実は”漢委奴国王”と彫ってあり、”委”を”倭”の誤字とすれば、漢が”倭の奴国”に送った印、となり、”委奴国=伊都国”とすれば漢が”伊都国”に送った印、となります。要するに、”邪馬台国”の事実上の”主導権”を握っていたのは”奴国”ないし”伊都国”であり、その事実上の”王家”が物部氏だったと考えております。)。それが今日における”畿内説”と”九州説”の”邪馬台国論争”につながるのではないでしょうか。

やがて、卑弥呼が亡くなると、その娘とされる台与(とよ)が”女王”となりますが、いつしか「魏志倭人伝」から台与の名前が消え、そこでこの文は終り、更に中国の歴史書から日本にまつわる記述が消えます。これを飛鳥氏は”邪馬台国”が”狗奴国”に滅ぼされたため、としています。そして、”邪馬台国”は”狗奴国”に占領され、そこの”統治官”となったのが”記紀神話”による所の”天皇家”に対する”反逆者”となった長髄彦で、”記紀”においては饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された事になっていますが、東北蝦夷系豪族安倍氏の血を引く秋田氏に伝わる古文書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」には、長髄彦は兄(もしくは弟)の安日彦と共に東北地方に逃れ、”先住民”である阿蘇辺族(イヌイット)と津保化族(アイヌ)と合流して”荒吐王国”を作ったとされています。そして、その際に長髄彦に代わって大和を統治した饒速日命は、その直後に東征して来た神武天皇の配下となります。ちなみに、饒速日命は物部氏の”祖神”と言われています。そして、”天皇家”率いる”大和民族(北朝系イスラエル10支族+南朝ユダ系原始キリスト教徒(イエス・キリスト12使徒=秦氏))”によって”大和地方(旧邪馬台国主用地域)”は支配され、やがて彼らは”西日本”を統一し、やがて”関東地方”も支配下に治め、そして、平安時代に入ってようやく”東北蝦夷王国(荒吐王国)”を征服する事になります。

この”大和民族”がどういった経緯で日本にやってきたのか、を”次章”で書きたいと思います。

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備後風土記の蘇民将来

「備後風土記」の中に”蘇民将来”にまつわる話があります。「旅の途中に宿を乞う武塔神を裕福な巨旦将来は拒否し貧乏な蘇民将来は受諾し丁重にもてなした。後に再訪した武塔神が、巨旦に報復するが汝の子孫は弟の家にいるかと聞くので娘が弟の妻だ答えると、茅の輪を娘の腰に付けさせよと言う。その通りにすると、武塔神は蘇民の娘を除いて巨旦一家を全滅させ、自分は速須佐男神だが、「蘇民将来子孫」と言って茅の輪を腰に付ければ疫病を免れることができようと教えた。」という内容ですが、ここに出てくる”蘇民将来”を徐福ら”秦の亡命者=旧邪馬台国王族”の王とし、その”弟”とされる”巨旦(こたん)将来”を”東日本狗奴国軍”の大将とし、蘇民の娘で巨旦の夫とされる女性を後の”新邪馬台国女王”卑弥呼とすればどうでしょう? そして、速須佐男神(スサノオノカミ)は物部氏の”祖神”とされています。

”旅の途中”という文からすれば物部氏はおそらく既に九州へ赴いていた可能性があります。そこへ”旧邪馬台国王”に向かい入れられ、そして、”邪馬台国”を奪い特殊な”霊能力”を持った卑弥呼を人質に取った”狗奴国軍”を討伐し、”茅の輪”は”絶対神の目”に対応するため、”神の力”と”卑弥呼の霊力”が連動して”狗奴国軍”を退散させた、という意味になるのではないでしょうか。

ちなみに”巨旦将来”の”巨旦=コタン”とは、アイヌの”部落”を意味しますね。それが転じて”占領地”あるいは”植民地”という意味にもなるのではないでしょうか。故に”巨旦将来=アイヌ=東日本縄文人”となると考えております。

そして、”蘇民将来”は”蘇我氏”ではないか?という説があります。果たして”真相”はいかに!?

  • 2007年01月01日月
  • 東国夷
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