11.25.09:52
|
12.31.10:25
現在の日本人、すなわち”大和民族”は人種的には”新モンゴロイド”に分類され、外見上は中国人や朝鮮人とさほど変わりません。しかし、”文化面”、”言語面”では彼らと違って独特のものがあります。確かにこれらの国から伝わってきた”文化”もありますが、その多くはこれらの国とは異なる独特の文化が日本にはあるのです。しかし、実は日本とよく似た”文化”、風習”を持つと思われる国が一つだけ存在します。それは日本から遠く離れた国です。その国とはイスラエルなんです。この事は、実は戦国時代ポルトガルのキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが渡来した時に日本とキリスト教の”共通性”に気付き、その後来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンベルが日本とバビロニアの関係を主張、更に江戸後期に来日したドイツ人医師シーボルトが日本と中央アジアの関係を示唆し、そして、明治時代に入ってスコットランドの貿易商ノーマン・マクラウドによって”日ユ同祖論”が唱えられるようになりました。 その”日ユ同祖論”が示す日本とイスラエルの”共通点”ないし”類似点”は、①古代イスラエルの神殿(特にその原型である移動式の幕屋)と日本の神社の構造が似ている事。②水や塩で清めるという習慣が古代イスラエルにもあった事。③古代ユダヤ人は金髪と青い目を持つ”白人”や、”黒人”ではなく、黒髪・黒目で褐色の人種であった事(もっといってしまえば”モンゴロイド”だった可能性が高いとの事)。④平安京は、ヘブライ語で”エル・シャローム(平安の都)”となり、古代イスラエルの都エルサレムと同じである。ちなみに平安京は天皇の住まう都だが、エルサレムも別名で”ダビデの町”と呼ばれていた事。 ⑤ユダヤ教徒が祈りの際に額に付ける黒い小箱の”ヒラクティリー”と山伏の”兜巾”は非常に類似している事(このような類似性は世界中のどの民族、宗教にも見られず、ただユダヤ教徒と日本の山伏との間にのみ存在するようです)。⑥ユダヤ教の羊の角で作る”ショーファー”と山伏の吹く”ほら貝”の類似性(音色はもとより、用途的にも戦争時での合図として用いられたりしていた部分では共通します。更に、日本では羊の角が入手出来なかったので、似た音の出るほら貝で代用したという説があるとの事)。⑦古代ユダヤの”聖櫃(アーク)”と日本の”神輿(みこし)”が良く似ている事。 ⑧神主の衣服の”房”とイスラエル人の衣服の”房”の共通性。⑨古墳時代の”埴輪”に見られる独特の髪型(みづら)とユダヤ人司教の独特の髪型(ペイオト)の類似性。⑩日本のいくつかの神社で”ダビデの星”や”ソロモンの星”の紋が発見されている事。⑪古代イスラエルやシュメールの遺跡の中に天皇家の”菊の紋”に似た紋章が発見されている事。⑫ヘブライ語の単語の中には日本語の単語に良く似た単語がいくつかあるという事。⑬「古事記」、「日本書紀」における天照大神の「天岩戸隠れ」の場面と、「新約聖書」の「イエス処刑」の場面が酷似している事(それによって飛鳥昭雄氏は天照大神=イエス・キリストとしている)。⑭日本の正月に食べる”餅”とイスラエルの正月に食べる種無しパン”マッツォ”の類似性・・・等が挙げられます。 これらを踏まえて考えると、もし”日本人(大和民族)”が”イスラエル人”の末裔だとしたら、彼らはどのような経緯で日本にやってきたのだろうか? まず、”古代イスラエル王国”は途中で”宗教観”の違いから”北朝イスラエル(ユダ族、ベニヤミン族以外の10支族が主体)”と”南朝ユダ(ユダ族、ベニヤミン族が主体)”に分裂します(”北朝側”が”偶像崇拝”に陥ったのが原因とされる)。そして、”北朝イスラエル”は紀元前712年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、彼らの”奴隷”となるかまたは追放され、”南朝ユダ”はその後アッシリアの”属国”となったが、紀元前597年新バビロニア帝国によって滅ぼされ、彼らは”捕虜”としてバビロニアに連行されます(所謂バビロン捕囚)。やがて、アッシリア帝国は騎馬民族スキタイの度重なる侵攻によって弱体化し、紀元前612年新バビロニア帝国とメディアの侵攻によって滅亡。それによって”奴隷”となった”北朝系イスラエル10支族”は開放され、そのまま騎馬民族スキタイと融合する形で歴史の表舞台から姿を消す事になります。一方の”南朝系ユダヤ人”は、紀元前538年に新バビロニア帝国を滅ぼしたアケメネス朝ペルシアによって開放され、その後ペルシア、マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、ハスモン朝シリア、そしてローマ帝国の”属国”となり、”イエス・キリスト時代”を経て紀元66年の”第一次ユダヤ戦争”まで続く事になります。そして、イエスの処刑後、その門下であり”エルサレム教団”を構成していた12使徒もいつしかエルサレムの地を離れ何処かへ消えてしまいます。 飛鳥昭雄氏は、”北朝系イスラエル10支族”はその後”騎馬民族スキタイ”と融合し、その”主力部隊”が「旧約聖書外伝エズラ記」に書かれている”北の果てアルザル=地球内部の亜空間惑星”へ移動したとし、残りの一部が北アジアを通って朝鮮半島に入り、その後日本に来て”大和朝廷”を築いた、としています。そして、”イエス12使徒”はその後中央アジア付近で”弓月王国(クルジア)”を建国し、やがて中国北部から朝鮮半島へ移住し”、そこで合流したもう一方のイスラエル人”北朝系イスラエル10支族”と共に日本に来た、としています。そこに僕の考えを付け加えるならば、まず、”北朝系イスラエル10支族”は”北回り”だけでなくいくつかの”経路”を通ってきたのではないでしょうか。”北方アジア”でモンゴル系、トルコ系、ツングース系などの”騎馬民族”を構成しながら朝鮮半島に移動した一派、”中央アジア”からその近隣の国家に侵攻しながら東へ移動しやがて中国の”秦”の組み込まれた上で朝鮮半島に移動した一派、”ペルシア”からインド方面に侵攻してチベットを越えて”秦”に入り、その後朝鮮半島へ移動した一派、更にはペルシア湾から船に乗って”海のシルクロード”を通ってインド、中国沿岸部を通って朝鮮半島に入った一派、等がいて、一方の”南朝系ユダヤ人”の方も”イエス12使徒”以前にも”バビロン捕囚”から開放された後、中東近辺でバクトリア、パルティア等の”国家”を作りそのいずれかがやがて中国を支配する”秦”となり、あるいは”イエス12使徒”と合流して”弓月王国(クルジア)”となり、”秦”から脱出して朝鮮半島に移動した”先方隊”と合流した、とも考えられるのではないでしょうか。そして、いずれにしても後に日本を支配する”秦人=大和民族”は朝鮮半島に結集して”辰韓(秦韓)”と”弁韓”を作り、その内の”辰韓”が”新羅”となってそのまま朝鮮半島に残り、”弁韓”が”伽耶”となって12個の小国を作り、彼らが日本を統治した後、それらの”小国”はそのまま”古代豪族”へとつながっていったのではないでしょうか。 こうした経緯によって、朝鮮半島から日本に渡ってきた”大和民族”は、”イスラエル10支族ガド族”の王族を”天皇家”とし(根拠としては、①天皇の事を”帝(みかど)”と呼ぶがこれは”ミ(御、あるいはヘブライ語で言う”~出身の”という意味)・ガド”から来ている可能性がある事、②ガド族の紋章が天皇家の紋章の一つ”五七の桐紋”と酷似する点、③”前方後円墳”のモデルが、ガド族が所持していたとされるイスラエル三種の神器の一つ”マナの壷”である可能性が高い事、等が揚げられる)、”イエス12使徒=弓月王国”の王族が”裏天皇家”を構成する”八咫烏”として”天皇家”及び”朝廷”を裏で動かし、その他の”イスラエル10支族”や”イエス12使徒”の直系が”皇族”あるいは”古代豪族→貴族(公家)”となり、”イエス12使徒”の傍系が”殖産豪族”としての秦氏で、彼らが後に”商人”、”技術者(職人)”、”学者”、”医師”、”芸能者”となり、”イスラエル10支族”の内”騎馬民族スキタイ”の血を強く受け継ぐ支族が後に”武士”を構成したのではないでしょうか。このようにして、真の意味での”日本民族”が形成され、真の意味での”日本の歴史”が始まった、という事になるのでしょう。 PR
|
あけましておめでとうございます。
|
倭建命さん、あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします! |
|
|