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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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10.03.12:58

戦国三大天下人の裏側

「織田がつき 羽柴がこねり 喰らうは徳川」 これはいわゆる”天下餅”という”天下”を”餅”に例えた場合の文句ですが、”群雄割拠”、”下克上”の”戦国乱世”を平定し、”天下”を治めた三武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が何故”天下人”になれたのか検証したいと思います。

そもそも、この3人は元々は比較的身分の低い武士の出身で、秀吉に至っては”通説”では”農民出身”という事になっています(近年では”山の民説”が有力?)。しかし、時は”下克上”の戦国時代。本来”身分の低い者”が実力によって”主君ないし身分の高い者”を倒して”上”にのし上がる時代でした。ただ、このような事が、本当にその武将の”実力”のみで成し遂げる事が出来たのだろうか? おそらくは、この背後には”黒幕”が存在した、と考えた方がではなかろうか。何故なら、元来日本という国は天皇家と共に朝鮮半島から渡ってきたと思われる”渡来系一族・秦氏”によって作られた、と言っても過言ではないからです。

されど、秦氏を後ろ盾に構築された”天皇中心の国家体系”も、藤原氏を中心とした”貴族”の台頭により”権力”が乗っ取られ、更に平氏、源氏といった”武士”の台頭によって政権が徐々に武士に移行。そして、1185年に源頼朝によって”鎌倉幕府”の下地が築かれ、1192年にその頼朝が”征夷大将軍”に任じられると、事実上”政権”は武士のものとなってしまいました。おそらくは、こうした”武士”の背後にはかつて秦氏、蘇我氏、聖徳太子の”連合軍”によって滅ぼされた”物部氏”の残党が関わっていたのではないでしょうか。というのも、”武士”を”もののふ”と呼ぶ事が物部氏と深く関わっている可能性があるからです。しかも、”秦氏”と”物部氏”は共に”祭祀氏族”であり、どちらも”ユダヤ人の末裔”と言われています。こういった両者の”対立構造”が”朝廷”と”幕府”という”二重構造”を生み出したのではないでしょうか。

そして、政権は”源氏”→”北条氏(平氏流)”→”足利氏(源氏流)”と移り変わります。しかし、どうも”騎馬民族”の要素の強い”源氏”は一族間の”結束”に乏しく、頼朝の時代も身内同士の争いが絶えなかったのに、足利氏の時代でもそれは変わらず、そうした構造が結果として”応仁の乱”という全国規模の”大乱”を生み出し、やがて”戦国時代”へと突入します。この時、日本を”裏”から動かしていた”秦氏”は、足利一族を筆頭とする”源氏一族”の粛清を考えたのではないでしょうか。もはや、”日本国”を治めるのに”源氏流”では不可能であると判断したのでしょう。そこで、まずは”足利一門”が”身内争い”をするように仕向け、そして実力のある”家臣”ないし配下の”国人”、”小領主”が”当主”の座を奪う、という”下克上”の風潮を生み出したのでしょう。しかし、そうした中でもひるまずに”戦国大名”として勢力を伸ばしていた”足利一門”の今川義元や、”源氏一族”である武田信玄がいました。彼らの勢力を削ぎ、そして、”天下人”にさせるためにその近隣の小大名だった織田信長と松平元康(後の徳川家康)に”白羽の矢”を当てたのでしょう。つまり、この時点で”次期天下人”の候補が実は決まっていた、という事ではないでしょうか。そのために、まず信長は”秦氏一族”の協力によって”桶狭間の戦い”にて今川義元を討ち、その後急速に”勢力”を拡大し、一方の元康も今川家を脱出し姓を”源氏流”の”徳川(本来は得川)”に改めて”系図”を改竄したのでしょう(もし、この頃にまだ”天下人”になる事が決まっていなかったとしたら、姓を改め系図を改竄するには時期が早すぎるんです)。いずれにしても、彼ら自身が”秦氏”と関係のある一族である事はどうやら間違いないようです。

こうして、織田信長と徳川家康は”次期天下人候補”に選ばれた訳ですが、この時点ではもう一人の”雄”である豊臣秀吉の名がありません。それもそのはずです。彼はこの時点ではまだ信長の”一家臣”でしかなく、更に言えば身分的にもかなり低かったはず。おそらく、当初はまずは信長に”天下”を取らせ、信長亡き後家康に天下を取らせる手はずだったのでしょう。しかし、信長は次第に”暴走”し、”天下人”になった後は”朝廷”ひいては”天皇”を脅かす存在になってしまいました。そこで、黒幕である”秦氏一族”は信長を暗殺する事を計画。”源氏一族”土岐氏の一族とされる家臣・明智光秀が”謀反”を起こすように仕向けたのではないでしょうか(光秀の出自については諸説ありますが)。ただ、そうなるとその後に家康が天下を取るにはちょっとタイミングが悪すぎるのは事実。柴田勝家、丹羽長秀といった”有力家臣”も健在でしたし、そこで家康が”天下取り”に動けばかえって”乱世”に逆戻りするは必定。そこで、急遽”次期天下人候補”に選んだのが”農民出身(実は山の民系商人(忍者と言う説も))”でありながら”織田家臣No.2”ぐらいまでに上り詰めた羽柴(後の豊臣)秀吉だった、という事ではないでしょうか。彼は”庶民(農民、商人)”からも人気があり、また”人たらし”と言われるように人心を掴む事を得意としている人物です。彼が”主君”信長の”敵討ち”をして、”天下人”となれば、多くの武将や庶民も納得する、と考えたのでしょう。

でも、秀吉がもし信長と家康の”つなぎ”でしかなかった、とすれば確かに頷ける部分はあります。何故なら、正直秀吉は”家臣”としては”優秀”でしたが、”天下人”としての器ではなかったように思えるからです。彼は”調略”によって”全国統一”を果たしましたが、その後の日本統治に関しては”グダグダ”だった事は否定出来ません。”身内びいき”が激しく、中でも側室・淀君に対する寵愛は目に余るものがあり、しかし、”世継ぎ”秀頼が生まれるや、それまでひいきしていた身内に対しては一変し、特に”関白職”を継がせた甥・秀次に濡れ衣を着せて”切腹”に追い込み、更にひどいのがその妻子、家臣全てを”処刑”してしまった事です。この中には”東北の雄”最上義光の愛娘・駒姫がおり、その事が多くの”東北諸将”の怒りを買い、”関ヶ原の戦い”の際に彼らを”徳川方”につかせる要因の一つになっています。それから、”朝鮮出兵”という無謀とも言うべき戦も起こしています。これは、”成り上がり者”の秀吉に”譜代家臣”が手薄だった事から、多くの武将をまとめめ上げるために起こしたとも言われていますが、後に徳川家光が発布した(原案は家康にあったと思われるが)”参勤交代”と比較すれば実に愚かな策であった事が伺われます。信長や家康のような”ニュートラル”な視点ではなく、かなり”偏った視点”で政治を行っていた点についても”天下人”としての器だったとは思えません。

では、信長と家康はどうだったのだろうか? まず、信長ですが、隣国の大敵・今川義元の2万の大軍をたった3千の兵で破り、その後は舅の斉藤道三を殺して当主となったその嫡男・義竜(本人はかつての美濃守護・土岐頼芸の実子だと思い込んでいたようだが、定かではない)の更に嫡男に当たる竜興を攻め滅ぼして美濃一国を支配する事になりますが、その時に後の”15代将軍”足利義昭が後に家臣となる明智光秀を従えて訪ねてきます。しかし、おそらくこの背後にも”仕掛け人”がいるのではないでしょうか。義昭を信長に頼るように仕向けた人間がおそらくはいたと思われます。信長が大きく”飛躍”するためにはどうしても”足利将軍”の力が必要だった事は事実です。そして、その後は自分に従おうとしない朝倉義景を討とうとしますが、その際に盟約を結んでいた浅井長政に裏切られ、後に両者とも滅ぼす事になります。これによって、信長は当時の戦国大名の中では”最大の勢力”を誇るようになります。その一方で、信長に立ちはだかる比叡山や本願寺の勢力を焼き討ちにしますが、これも”旧態然”として”形式的”になってしまった仏教徒(僧侶)に対する”戒め”の意味がありました。更に、信長に隣接する”もう一人の大敵”武田信玄が亡くなった事によって、今度は息子の勝頼を攻める一方で、将軍・足利義昭を京から追放し”室町幕府”を滅ぼします。こうして、事実上信長は”天下人”となり、本拠地を近江の安土に移し、そして武田を”滅亡”に追いやります。この間に、越後の上杉を重臣の柴田勝家に、関東の北条を同じく重臣の滝川一益に、中国の毛利を秀吉に、四国の長宗我部をやはり重臣の丹羽長秀に攻めさせていました。その時、秀吉からの”援軍要請”があり、急遽、明智光秀を向かわせ、自らも出陣し途中京の本能寺で宿泊する事になりますが、ここで突如光秀の”謀反”に合い、信長は49歳の生涯を閉じまることになりますが、おそらく、この背景には”シナリオ”があり、”信長暗殺計画”が実行された、と言う事でしょう。

ただ、信長は確かに”軍事面”に重点を置いていたようですが、実は”政治面”でも大きな”改革”を実行していたのは確かで、有名なのが商人達が自由に商売が出来るような権限を与えた”楽市楽座”です。”形式化”した寺社の勢力を削ぎ、合理的に”経済”を発達させるための仕組みを作りました。また、西洋との交易も重視し、更なる”経済発展”に努める事になります。それから、各大名、領主が治める土地に見合った年貢を正確に納めさせるための”検地”も実は秀吉ではなく信長が最初に始めたものだそうです。更に、秀吉の例を挙げるまでも無く、”身分”を問わずに”実力”のあるものは登用し、逆に”家柄”、”役職”の上にあぐらを書いて目立った実績の無いものは”家老”の林秀貞(前名:通勝)や佐久間信盛のように”リストラ”する等、今の時代からすれば実に理にかなった処置を取っていました。また、安土城を”拝観料”を払わせて庶民に見学させ、”権威”を示すと共に”拝観料”によって安土の”経済基盤”を築く一方で、そうした庶民と会話をする事で様々な”情報”を得ていたようです。ただ単に”目下”の者に”権威”を示しただけではなく、時には”同じ目線”に立つ、という事はこれまでイメージされていたように決して”恐ろしい独裁者”だった訳ではなく、”天下人”としての器がちゃんと備わっていた人物だった、という事でしょう。しかし、当時としてはあまりにも”最先端”過ぎて多くの人々がついてこれなかった事も否定できませんが。

一方の家康は、”幼少時代”にまず織田家の”人質”となり、やがて今川家に引き渡され19歳まで人質生活を送る事になるが、”桶狭間の戦い”で今川義元が信長に討たれるや、駿河を出奔し”居城”のある岡崎へ戻り、やがて”姓”を”松平”から”源氏系新田流”の”徳川”と改めます(この時点では、”天下”を目指すには程遠いはずにもかかわらず、ここで由緒ある姓に改めた事には何か”裏”があるはず)。そして、信長と”同盟”を結び、信長が”勢力”を拡大すると共に家康も信長ほどではないにしろ”勢力”を徐々に拡大していきます。”浅井・朝倉攻め”や”武田攻め”には信長に協力し、また、信長が”仏教勢力”を警戒した頃には家康も”一向一揆”に悩まされ、家臣・大久保忠世を筆頭に”鎮圧”に向かわせます(この頃、後に”側近”となる本多正信は”一向宗徒”であったため徳川家から出奔するも、後に帰参を許されます)。しかし、”長篠の戦”後、信長から正室・築山殿と嫡男・信康が武田と内通していた、と言いがかりをつけられ両者とも”死”に追いやられるも、家康は信長に従順し、武田家滅亡後駿河一国を与えられます。その翌年、信長が”本能寺の変”で暗殺されますが、家康もこの”計画”に加担していた可能性は否定出来ないでしょう。その直後に、家康は堺から急遽”伊賀超え”をして岡崎に引き上げますが、これは実は明智の軍から逃れるためではなく、”本能寺の変”に自分が関わっていた事をカムフラージュするためだったと言う説があります。

そして、後に秀吉が織田家重臣・柴田勝家を”賤ヶ岳の戦い”で破り、”天下取り”の勢いを見せると、家康は信長の遺児・織田信雄に担がれて”小牧・長久手の戦い”で秀吉と戦う事になりますが、実際この戦で勝っていたのは家康軍ですが、信雄が秀吉と勝手に和睦してしまったために秀吉軍の勝利、となってしまいましたが、実はこれは”やらせ”で、元々秀吉を”天下人”に仕立て上げる合戦だったと言う説があります。その後、家康は秀吉の”臣下”となり、更に”小田原攻め”の直後に”三河・遠江・駿河・信濃・甲斐”の五国から”関東八州”へ移封となりますが、これも”通説”では秀吉が家康を恐れて京・大阪から離れた関東へ遠避けた、と言われていますが、実はこれは家康の方から所望した、という説があります。すでに、この頃から”次の天下取り”の下地作りをしていたのではないでしょうか。そもそも、古来から平将門、源頼義・義家父子、源頼朝→鎌倉幕府・・・etcと関東地方は”武家政治の拠点”と目されていました。家康がそれを手本とし、”江戸幕府”の礎を関東地方で築き上げようとしたのは確かでしょう。1598年、秀吉が死去し、家康と共に”豊臣政権No.2”の座にあった前田利家が死去すると、家康は次第に権力を増幅させ、やがて1600年、”関ヶ原の戦い”で石田三成率いる”西軍”を破り、3年後の1603年に朝廷から”征夷大将軍”に任ぜられて”江戸幕府”を開き、その後約260年に渡る”徳川幕府”の布石を打つ事になります。もし、これらの背後に”黒幕”がいたとしたら、日本のような”縦長”の国を治めるには、京に”朝廷”と”幕府”の二つを置くのではなく、京と関東による”二元政治”こそふさわしいと考えたのでしょう。

いずれにしても、一つ言える事は、信長と家康が”源氏系有力武将”である今川と武田の”抑え”になっていた事と、信長の”奇抜さ”と”軍事力”、そして家康の”冷静さ”と”忍耐力”こそが”戦国の世”を治める要となっていた事は間違いないでしょう。で、秀吉はあくまでも信長の”手足”でしかなかったのが、信長死後の日本をまとめるために多くの武将、庶民を説得する事に最も適任だった事から”次期天下人”の候補に選ばれた、という事ではないでしょうか。しかし、今日どうも家康は”悪者扱い”される事が多いようですが、これはおそらく徳川から政権を奪った”明治政府”の陰謀が、今日の政府(自民党)の方針に受け継がれているのかもしれません。しかし、秀吉だって実は信長の”後継者”となったはずの三法師(後の織田秀信)から政権を奪っている訳ですから、そこを触れずに徳川ばかりを”悪者扱い”するメディアの捉え方は正直納得いきかねますがね。
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無題

武士(もののふ)=物部(もののべ)

この構図は、有り得ますね。

神職の家系と武家の家系、妙に重なるように思えるのは気になるところです。

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