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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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08.01.19:05

関ヶ原は八百長だった!?② -天下泰平のための大芝居-

”通説”では、石田三成は”恩人”である豊臣秀吉に対する”忠義”のため、秀吉との約束を反故にし次第に”権力”を振るうようになった徳川家康から豊臣家を守るために”関ヶ原の戦い”を起こした、と言われています。しかし、”前章”で書いたように、三成がいくら秀吉に”忠義”を感じていたとしても、むしろ”豊臣家乗っ取り”を疑わせる淀君の側に付いてまで豊臣家を守ろうとしたとは思えません。”頭脳明晰”で知られている三成であればこそ、秀吉亡き淀君牛耳る豊臣家の”天下”が無意味なものである事はわかっていたはずなんです。実際、当時の人々が最も求めていたのは”天下泰平”であり、そのためには徳川家康に”天下”を委ねる事こそ妥当な策である事ぐらいはわかっていたでしょう。であれば、三成は実は裏で家康と結託し、”関ヶ原の戦い”をでっち上げたのではないでしょうか? つまり、”関ヶ原の戦い”は”八百長”だったのではないでしょうか!?

何故、そう思えるのか? まず、この”関ヶ原の戦い”はこれまでの合戦の中ではその”参戦者”があまりにも豪華すぎるんです。まるで”プロレス”や”格闘技”のビッグイベントを思わせるものがあります。確かに”天下分け目の戦い”と言われている訳だから、全国から武将が集結するのは当然なのかもしれませんが、ここまで来ると”合戦”というより”お祭り”みたいにも思えます。それに、これだけ多くの武将が参加している割にはたった”1日”で決着が付いてしまっている事。通常の合戦なら、いったん兵を引き、再び陣を建て直して”再戦”を挑むはずなんです(同じような全国規模の”応仁の乱”は終結するまで10年もかかっています)。更には、”西軍”についているにもかかわらず”本領安堵”されている武将がいたり(島津義久)、反対に”東軍”についているにもかかわらず”加増”がなかった武将がいたり(伊達政宗、吉川広家(西軍だが東軍に内通))、という矛盾した恩賞。更に、この戦の”きっかけ”を作ったのが何故か三成の”盟友”であった上杉家家老・直江兼続のまるで”プロレス”のような”挑戦状”である事。しかも、その後に起こった”会津征伐→慶長会津合戦”が家康と三成の両者が警戒していたと思われる伊達政宗の”牽制”にもなっている事。(家康と三成だけの対立であれば、両者の間で先に戦が勃発してもおかしくないはず。) 合戦後の”西軍側”の”首実検”があまりにも大々的に伝えられているのが逆に大げさに思える事。そして、”関ヶ原の戦い”の後に江戸に”幕府”を開いた家康は、何故か石田三成と同じような”官僚”を重用し、本多忠勝、榊原康政といった”武功派武将”を中央政権から遠ざけた事。・・・こうして考えると、なんか”関ヶ原の戦い”は怪しく思えてならないんです。

しかし、仮に三成と家康が裏で結託しているとして、三成は何故家康を正々堂々と”天下人”に推薦しなかったのだろうか? それは、当然ながら”豊臣恩顧の武将”の反対にあう事と、更には島津家、毛利家(大江広元の末裔)、細川家、佐竹家(源氏の名門)、上杉家(実際は越後守護代長尾家)といった”古くからの名門”がそう易々と家康を受け入れるとは思えないためでしょう。だからこそ、三成はわざと家康と対立したふりをして、秀吉の死後淀君に接近していたと思われる”豊臣きっての二大武将”加藤清正と福島正則を淀君から遠ざけさせ、彼女と対立していた両人の”育ての母”北の政所を頼るように仕向け、そして北の政所とつながっていた家康側に付くように仕向けたのではないでしょうか。だからこそ、その”腹いせ”として彼らが起こした”三成暗殺未遂事件”の後に三成が家康の元を訪れたのも、両者が元々つながっていたから、とは考えられないでしょうか?

さて、こうして”関が原の戦い”が起こったとした場合、そこで当然ながら”死傷者”も出た訳ですが、”八百長”だったとしたら何故”死傷者”が出たのか?という疑問も当然生まれるでしょう。その理由は、この戦の参加者全てが”八百長”と思っては戦っていなかったという事です。というより、”八百長”という事を知っていたのは家康、三成、その家臣、そして彼らと関係のある数名の”協力者”のみであり、それ以外の武将の多くは真剣に戦っていたのだと思います。しかし、その”死者”の内一人だけこの合戦の”真相”を知っていた、と思われる武将がいます。その名は大谷吉継。何故なら、彼は三成の盟友の一人であり、この頃彼は”らい病(ハンセン病)(一説では”梅毒”とも言われるが)”に冒され余命いくばくもない状態でした。だからこそ、彼は”死に場所”を求めてあえてこの合戦に参戦し、自ら誰かに討たれる事を望んだのではないでしょうか。問題は、誰に討たれるか?です。

実は、この戦に関して”問題点”がいくつかあります。まずは、一応”東軍”、”西軍”のいずれかに付くそぶりをしながら”本心”が良くわからない武将が何名かいた事。それから、家が2つに分裂していた武将がいた事です。まずは、家が分裂していた武将ですが、この両家が皮肉にも江戸幕府を滅ぼす事になる島津家と毛利家です。島津家の方は本来の当主で秀吉から嫌われていた島津義久の一派と秀吉に気に入られ新たな当主となった弟の島津義弘の一派で分裂しており、更に兄の義久の方が”中立”の立場を貫いていました(もしかすると家康と内応していたのでは?)。毛利家はやはり”親秀吉派”の参謀・安国寺恵瓊と”反秀吉派”の参謀・吉川広家が対立し、毛利家は分裂していました。更には、同じ一族の小早川家がその間に挟まり、しかもその当主がかつて秀吉の”養嗣子”であった小早川秀秋でした。恵瓊は、おそらく三成と親交があり”協力者”の一人と考えていいでしょう。対立する広家は家康に内通する事になりますが、”本心”は別の所にあったのでは? その両者に挟まれ、更に三成に不信感を抱く秀秋はこの戦でどう動くかを迷っていたのでしょう。そこで、三成は秀秋に”寝返り”を提案したのではないでしょうか。そして、彼が狙う相手こそ、大谷吉継だった、という事ではないでしょうか。

で、問題なのは、一応”東軍”、”西軍”いずれかにつくそぶりを見せながら”本心”がわからない武将だ。下手すると、この戦の”真相”に感づいていた可能性もあります。上記の島津義久もその一人ですが、彼は秀吉嫌いで、更に家康からは興味を持たれていたので家康と内通していた可能性はあると思います。その島津家と九州で対峙していた秀吉の元軍師・黒田官兵衛こそ三成、そして家康が警戒した武将の一人ではないでしょうか。官兵衛は、秀吉の2人目の”軍師”として、信長に謀反を起こした荒木村重を説得するために単身で村重の居城、伊丹有岡城に入るがそこで監禁され、約一年後に救出されるもそれによって片目と左足が不自由になる、という身を削った働きをしたにもかかわらず、秀吉が”天下人”となった頃には逆に秀吉に警戒され、”朝鮮出兵”の先方として福岡に追いやられてしまいます。おそらく、彼はこれは三成の策謀と疑っていたのではないでしょうか。そのために、やがて彼は豊臣家、特に三成に”恨み”を抱いた可能性はあると思います。そのために、近年では、官兵衛は”関ヶ原”のどさくさに紛れて”天下”を狙ったのではないか?と言われています。もう一人、三成と家康が警戒したと思われるのが、武田、織田、北条と渡り歩き最後に秀吉の臣下となって戦国の世を切り抜けてきた真田昌幸。彼もまた、官兵衛と同じ”軍師タイプ”の武将で、あの家康を一度負かせた事のある”名将”です。昌幸は、北条と手を結ぶために真田を利用し領地を奪おうとした家康に深い”恨み”を持っていました。そのために、彼は自らと次男・信繁(後の幸村)は”西軍”につき、嫡男・信幸(後の信之)を”東軍”につかせて家を存続させようとしました。しかし、彼らは共に”軍師”。おそらく、この戦の”真相”に感づいていたのではないでしょうか。だからこそ、家康は三男・秀忠を中仙道廻りで上田に向かわせ、そこで真田を釘うちにした、というのが実は真相だったのではないでしょうか。

ただ、黒田官兵衛も真田昌幸も”戦上手”とはいえあくまでも”軍師”です。彼らが仮に”天下”を取ったとしても、日本全国を統治出来たとは到底思えません。しかし、彼らが”ある武将”を”天下人”にしようとしていたとしたら、天下の形勢は大きく変わっていたかもしれません。そして、その武将は、三成、そして家康がもっとも警戒していた武将ではないでしょうか。もし、家康と三成がはじめから”直接対決”をしていたら、おそらくこの武将はその隙を突いて”天下取り”に動いたのは間違いないでしょう。その武将こそ、”奥州の覇者”伊達政宗です。彼が黒田や真田と手を結び、”天下”を目指せば一大事。再び”乱世”に逆戻りする事は必定。そうならないために、三成は”豊臣政権時代”に政宗を監視させるために越後から会津へ移封された上杉景勝を動かしたのではないでしょうか。そして、その”家老”にして三成の盟友でもあった直江兼続と計って家康に”挑戦状”を叩きつける芝居を打って、家康側についた多くの武将を”会津征伐”に向かわせたのではないでしょうか。これによって、政宗は身動きが取れなくなり、”天下取り”は夢に終わってしまったのです。その上、合戦後の”恩賞”が無いに等しかったのもこのためではないでしょうか。ただ、その時家康側にいた加藤清正は黒田官兵衛のいる九州に赴いています。これは家康の命ですが、このようにした理由は、1つ目は家康の配下に清正と正則の2人が揃ってはかえって不都合である事、2つ目は黒田官兵衛を油断させ、その動きを見やすくするためではないでしょうか。

そして、肝心な”合戦の内容”ですが、家康率いる”東軍”を勝利に導いたのは、”西軍”に属していた小早川秀秋の”裏切り”です。おそらく、これも”シナリオ通り”だったのでしょうが、実際はそう上手くいかなかったのでしょう。その理由は、1つは毛利家の分裂に巻き込まれていたため、2つ目は黒田官兵衛の嫡男・長政の妨害にあっていたためではないでしょうか。”通説”では黒田長政が小早川の”裏切り”を催促していた事になっていますが、長政に”別の思惑”があったとしたら、おそらく”逆”の事をしたでしょう。家康は黒田の”動き”を見るためにあえて長政を小早川の”催促役”にしたのではないでしょうか。また、毛利の参謀・吉川広家も”東軍”に内応しながら”別の事”を考えていた可能性はあります。ただ、彼は黒田、真田、そして伊達とつながっていたのではなく、あくまでも主君・毛利輝元に”天下”を獲らせようとしていたのではないでしょうか(当の輝元自身にはその気はもうとうなかったと思われるが)。だからこそ、彼は家康の”不信感”を買い毛利家は大幅に”減封”されてしまったのではないでしょうか。そして、本来”東軍”につくつもりが些細な誤解によって”西軍”についてしまった島津義弘が”本戦”でまったく動こうとしなかったのも、三成の”腰抜けぶり”に落胆したから、と言われていますが、無論、これは三成が島津の”戦気”を削ぐための芝居だったのでしょう。

という訳で、”天下分け目”の「関が原の合戦」は、たった一日で決着がついてしまった訳ですが、その後三成は逃亡し、そして”東軍方”に捕縛され、大々的に”首実検”される訳ですが、これはあくまでも”本物の首”である事をアピールするために他ならず、実際の”処刑”の際に”別人”とすり替えたのではないでしょうか。つまり、三成は密かに生きていた?という事になります。その他に処刑されたのが小西行長と安国寺恵瓊ですが、彼らがいずれも三成と親交のあった”協力者”だと考えれば合点がいくのです。更に、この合戦の”協力者”である上杉家が大幅な”減封処分”を受けたのも、伊達政宗をはじめとする”東北諸将”の不満を起こさせないためではないでしょうか。 まぁ、このようにしてやがて”江戸時代”へ突入する訳ですが、江戸時代の制度こそ、三成が”理想”とした”法治国家”の姿だったのではないでしょうか。
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