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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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05.10.09:44

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08.01.09:39

関ヶ原は八百長だった!?① -秀吉の死の真相と淀君の野望-

慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康率いる東軍7万5000(別働隊含めて10万4000)、石田三成率いる西軍8万2000の兵が美濃・関ヶ原で激突した”天下分け目の戦い”、世に言う「関ヶ原の戦い」。この戦には、”東軍”には福島正則、細川忠興、浅野長政、池田輝政、藤堂高虎、黒田長政、山内一豊らが加わり(本戦以外では加藤清正、黒田官兵衛、伊達政宗らが加勢)、”西軍”には宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継、島津義弘、小早川秀秋らが加わる(本戦以外では毛利輝元、上杉景勝、真田昌幸らが加勢)といった”豪華メンバー”で行われ、結果は、西軍に属していた小早川秀秋の”東軍寝返り”によって東軍の”勝利”に終わりました。これによって、東軍の”総大将”であった徳川家康が、堂々と”天下人”を名乗る事となり、そして3年後に朝廷から”征夷大将軍”に任命され、”江戸幕府”を開き徳川260年間の礎を築く事になります。でも、この戦、本当に正真正銘の”天下分け目の戦い”だったのだろうか・・・。

まず、慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が62歳(数え年)で死去した訳ですが、当時の寿命から考えれば”60歳前後”というのは決して珍しい訳ではありませんが、しかし、秀吉に関しては、その”晩年”があまりにもみすぼらしい、というかかなり”もうろく”していた事が”テレビドラマ”のみならずちゃんと”記録”として残っているんです。これは”天下人”になった事による”驕り”からそのようになってしまった、という可能性も十分ありますが、本当にそれだけなのだろうか? 一説によれば”大腸がん”によって脳に異常をきたした為、とも言われていますが、その一方で”砒素”による”毒殺説”があるようです。”砒素”を少しずつ飲ませる事によって、体を弱らせ、そうなれば”脳”の働きも弱まってやがて”もうろく”し、そして”死”に至る。もし、この説が正しければ、この”犯人”は一体誰なのか? 一説によれば、事実上の”豊臣政権No.2”であった前田利家が”キリスト教庇護”のために毒殺した、という説もありますが、彼の”武骨”な性格から考えればそのような回りくどい事は嫌うはずですし、そうなれば”豊臣政権下最大の対抗勢力”にして”次期天下人”である徳川家康とも考えられますが、家康は当時”五大老筆頭”だったとは言え、”豊臣家”からは避けられていたため、やはり難しいでしょう。となれば、秀吉のそばに常に寄り添い、しかも”秀吉殺害”を考えそうな人物は、秀吉の”側室”にして秀頼の”母”である淀君をおいて他にはいないでしょう。

淀君は、近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の方の長女であったため、非常に”プライド”が高く、秀吉の”側室”になった後も”浅井家再興”ひいては”織田家再興”を考えていたのではないか?という説があります。そして、そのためには秀吉の”嫡男”を産み、正室・北の政所を見凌ぐ”権力”を身につける必要がありました。秀吉と北の政所の間には子がいなく、ある側室との間に嫡子(秀勝)を儲けるも幼くして死去。それ以来秀吉には子がいませんでした。しかし、秀吉が53歳の時に淀君との間に鶴松が生まれ、しかし、3歳で死去すると、なんともタイミングが良くその翌年に拾丸(後の秀頼)が誕生します。その時秀吉57歳。そのため、秀頼は秀吉の”実子”ではないのではないか?という噂が絶えなかったようです。事実、淀君には乳母・大蔵卿局の息子で淀君の側近だった大野治長がおり、秀吉の”側近中の側近”石田三成とも親密にしていたようです。ただ、秀頼は秀吉と違って大変”大柄(推定身長197cm?、推定体重161kg?、まるで”プロレスラー”!)”だったようで、小柄(身長150cm)な秀吉の子とは到底思えないのと(実際秀頼がそこまで大柄だったのかどうかも正直怪しいが)、三成もまた比較的小柄(推定身長156cm)だったため、やはり大野治長(身長180cm説あり)が怪しいか?(おそらく、三成はそれを疑っていたのではないだろうか?)

そして、秀吉は鶴松の死後、文禄元年(1592年)”朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)”という無謀な戦に挑み、秀頼誕生後は”養嗣子”秀次に”謀反の罪”を着せ”切腹”を命じ、その一族全てを”死罪”にしてしまいました。(この中に、秀次に嫁いだばかりの最上義光の娘もおり、彼女も処刑されてしまった事が、東北諸将の多くが関ヶ原(厳密には慶長会津合戦)で”東軍”に付いた原因になったとも言われる)。更に、その後の秀吉は時より”言語障害”を起こしたり、”失禁”をするなどして次第に”衰え”を隠せない状況になったようです。これは、ただの”病気”とは正直思えませんね。その”異変”におそらく側近・石田三成は感づいていたと思われます。そして、秀吉が死去した後、秀頼の母である淀君が大阪城を占拠し、秀吉の正室・北の政所(高大院)を追放してしまいます。果たして、豊臣家中髄一の”切れ者”であった石田三成が、本気で淀君と手を組んで”豊臣政権”を守ろうとしたのだろうか? それで”天下泰平”の世を築けると思ったのだろうか? そこが僕の”疑問”に思う所なんです。

実は、かの石田三成も秀吉亡き後、日本全国を統治できる人材は徳川家康をおいて他にいないと確信していたのではないでしょうか? 事実、秀吉亡き後の豊臣家は、まず”正室”北の政所と”側室”淀君が対立していたし、また家臣の方でも石田三成、小西行長ら”官僚派”と加藤清正、福島正則ら”武功派”が対立していたため”真っ二つ”に割れていました。そこで、事実上の”豊臣政権No.2”であった前田利家なら豊臣家をまとめられるだろう、と考えている人も多いでしょうが、実は利家は”武将”としては優秀ですが、”政治家”としては無能に等しく、とても家臣をまとめられる器ではなかった、という話がありますし、それにどちらかといえば秀吉の”相談役”程度であって”政務”の方は専ら三成の方に託していたと思われます。同じ”五大老”の毛利輝元はやはり”外様”ですし、彼も”天下人”の器ではなかったと言われています。上杉景勝は養父・謙信譲りの”義人”でしたが、やはり”政治家”としては少々不器用で、三成とほぼ”同タイプ”の家老・直江兼続に政務を託していたようですから。宇喜多秀家に至っては”年齢的”にも”実力的”にも乏しいですからね。となれば、あくまでも”天下泰平”を築く事を考えた場合、いくら”豊臣家”を裏切る行為であろうともはや”天下”は家康に託すしかなかったのではないでしょうか。

また、三成はあの気丈な淀君を最初から信用はしていなかったのではないでしょうか。だからこそ、それを警戒する意味であえて淀君に接近していたのではないでしょうか。それに、秀吉は最初の嫡子・秀勝を亡くして以来子に恵まれなかったのに、50歳を過ぎて淀君を”側室”に迎え入れたとたんに2人の子供が生まれるのは正直不自然。更に、淀君のそばには常に側近・大野治長がいました。となれば、三成はこの両者の関係を疑ったのは間違いないと思います。されど、この三成の言葉をも秀吉は次第に聞き入れようとしなくなったのでしょう。そして、秀吉はますます淀君にたぶらかされて”人格崩壊”がエスカレートし、やがて死んでしまいます。この秀吉の”死”をもおそらく三成は疑った事でしょう。

となれば、秀吉の死後、三成のとった行動は・・・。もはや家康と手を組むより他に道がなかったのではないでしょうか。(つづきは②の方で)
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