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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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10.31.15:01

蘇我氏の正体

”古代史”において、”渡来系新興豪族”として突如台頭し、”神道”に代わる新たな宗教”仏教”の導入に大きく貢献し、そして”廃仏派”の物部氏を滅ぼして”権力”を手中におさめ、そして、彼らの”専横政治”を快く思わない中大兄皇子と中臣鎌足によって討ち滅ぼされた蘇我一族。しかし、”歴史”はあくまでも”勝者側”が作るものであり、蘇我氏は本当は”悪人”ではないのではないか?という多くの研究家の疑問から、”蘇我入鹿=聖徳太子説”が生まれたり、”蘇我氏=古代王族説”が生まれ、反対にあくまでも”蘇我氏=悪人”と考える研究家の中には”蘇我馬子聖徳太子暗殺説”を唱える人がいたり、と様々な憶測が絶えません。この”謎”に満ちた蘇我氏という一族はいったい何者だったのか? それを検証していきたいと思います。

まず、蘇我氏といえば”仏教”を思い浮かべる人が多いと思われます。聖徳太子と共に”仏教”の布教に尽力を尽くし、それに反対する物部氏と対立し、その物部氏を倒して政治を我が物にした一族、というイメージがあります。そこで、蘇我氏の系譜をざっと説明すると、本格的に歴史書(日本書紀)に登場するのが6世紀中頃に活躍した蘇我稲目で、大王(後の天皇)に次ぐ”大臣”という姓を持ち、欽明13年(552年)に百済の聖明王によって”仏教”が伝えられた際に、それを受け入れた事によって、それに対して物部尾輿(守屋の父)と中臣鎌子(鎌足の曽祖父)が反対した事によって蘇我氏と物部氏、中臣氏は”対立関係”となり、それが後世に続く事になり、それぞれの息子、蘇我馬子と物部守屋の時代にはその対立が激化。そして、聖徳太子と手を組んで物部守屋の軍を打ち破り、守屋が討たれると、次第に馬子は政権を牛耳るようになり、時の天皇・崇峻天皇と対立、そして配下の東漢(やまとのあや)駒に暗殺させ、用明天皇の妹で聖徳太子の叔母に当たる炊屋姫(かしきやひめ)を推古天皇として即位させています。その後、聖徳太子と共に”十七条の憲法”と”冠位十二階”を制定して”中央集権国家”の礎を築く事になります。やがて、息子の蝦夷と孫の入鹿の時代になると、その”専横”を極め、蝦夷はまず、推古天皇の崩御後、推古の違勅により田村皇子を舒明天皇として即位させ、舒明の崩御後は皇后の皇極天皇を即位させるも、蘇我氏が政治を独占。その後、家督を息子の入鹿に譲り、入鹿は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を即位させるために聖徳太子の息子である山背大兄王とその一族を殺害。更に、専制を極めようとする入鹿は、”反蘇我勢力”である中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(後の藤原)鎌足によって暗殺される(乙巳の変)。・・・といった所です。しかし、このまま読めば、通説通り”仏教”を擁し、次第に天皇を蔑ろにして政治を独占した”悪しき一族”というイメージ通りになってしまいます。

でも、”歴史”とはいつの時代も”勝者”によって書き換えられるものなのです。上記の”定説”はみな「日本書紀」によるものであり、その事実上の編纂者は中臣鎌足の息子である藤原不比等と言われています。となれば、当然ながら父を”英雄化”するために蘇我氏を”悪人”に仕立て上げ、歴史を改ざんした可能性は十分あり得るでしょう。それにこれまでの”定説”にはいくつかの”矛盾”も見られないではないです。①”渡来系民族”とされているが、その割には大王(天皇)に次ぐ”大臣”の姓を与えられ、天皇家以前の日本の王族だったと考えられる物部氏(姓は大連)よりも”格上”である事。②このころの皇族の系統が複数ありすぎる上に、皇族同士の結婚が多すぎる。③この時期に”女帝”が頻発している事。④蘇我氏と物部氏が稲目の時代から対立しているにもかかわらず、馬子の妻が物部氏である事。⑤聖徳太子が天皇になれず、なぜ女性である推古が天皇になれたのか。・・・等です。①に関しては、そもそも天皇一族自体が”渡来系民族”と考えれば、彼らと同時期、いや同時に渡来した一族である可能性が考えられ、蘇我氏自体が”王族”だったのでは?という指摘をする研究者は多いです。②に関しては、古代日本においてはまさに”複数王朝”があった可能性が伺えます。③に関しては、”女帝”が本当に存在していたのだろうか? ”複数王朝”の存在を隠すために、皇后をあえて”女帝”として”記紀”に記した可能性も考えられます。④に関しては、実は蘇我氏と物部氏は仲が良く、もっと言えば”同族”であった可能性を、物部系の人々によって書かれたとされる古文書「先代旧事本紀」から読み取れるようです。⑤に関しては、聖徳太子が本当に用明天皇の子だったのか? という事と、もっと言ってしまえば聖徳太子自体の”実在性”も近年疑われているようです。これらの”謎”に対する”真相”はどうだったのだろうか!?

”複数王朝説”に関しては、卑弥呼の時代から”倭国大乱”と呼ばれるように複数の王国が乱立していた可能性があり、それを証明するような地方豪族のものと思わしき”古墳”も多数発見されていますが、しかし、それは後の”戦国大名”や”幕藩体制”のように、あくまでも多数の小国の領主がその地を治め、その上に”中央政権”が君臨する、という体制が古くからあったと考えた方が妥当でしょう。それは「魏志倭人伝」にも卑弥呼を”女王”とする”邪馬台国”が日本(当時は主に西日本)を治めていた、と記されているからです。歴史作家の関裕二氏も著書「大化の改新の謎を斬る!」の中では「天皇には古くから”権限”が与えられておらず、複数の豪族による”合議制”によって政治が行われていた。」と記しており、”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏は、「天皇は渡来系氏族・秦氏とは切っても切り離せない存在である。」と多くの著書に記しています。実は、僕はこの”秦氏”こそが鍵を握る存在だと考えています。なぜなら、秦氏もまた蘇我氏と同じ”渡来系氏族”であり、彼らは天皇と密接な氏族です。さらに、彼らは”技術集団”でもあり、蘇我氏が牛耳る”飛鳥時代”には”酒船石”、”亀石”、”猿石”、”石舞台古墳”等の数多くの”石造物”が作られており、これらの作成に秦氏がかかわっている可能性は高いでしょう。しかも、これによって、かつてテレビ東京系例で放送されていた”歴史ミステリー番組”では、”蘇我氏=ローマ人説”が扱われていましたが、もしそこに秦氏がかかわっていたとすれば、かなり”信憑性”が伺われるのです。なぜなら、この秦氏がかつてローマに属していたこともある”ユダヤ人”である可能性が高く、飛鳥氏は、彼らが”イエス・キリスト12使徒”の末裔であると指摘しています。となると、気になるのが「蘇我」という姓です。直訳すると「我蘇る」となり、これはイエスの”死と復活”を連想させるからです。で、僕が思うに、蘇我氏と秦氏は”同族”だった可能性があるのではないでしょうか!?

現に、蘇我氏は聖徳太子と関係が深く、また、聖徳太子も秦氏と関係が深いからです。そして、”蘇我氏=秦氏”であるとすれば、秦系祭祀氏族・賀茂氏との関係が示唆される葛城氏や、巨勢氏等の”大臣姓”を持つ氏族が”秦氏系氏族”である可能性が出てくるのです。それに対し、ワンランク下の”大連”である物部氏は”記紀”が示す通り、”素戔嗚尊”、”大物主神”、大国主神”等の”国津神”の子孫である”先住系王族”で、飛鳥氏は自身のサイトの中では物部氏は秦の始皇帝の参謀で、日本へ亡命した徐福の末裔で、更に彼らが”邪馬台国”を作った可能性がある、と記しています。つまり、天皇家の”参謀格”である秦氏が、”旧王族”である物部氏の”上”に君臨していた、という事がそもそもの両者の”対立”につながり、更に、その”蘇我氏=秦氏”が異国の宗教であった仏教を布教しようとした事によって両者の対立は激化して、やがて”戦”へと発展した、と「日本書紀」は記しています。

しかし、この戦のあと、蘇我氏の勢力は拡大し、聖徳太子は斑鳩に隠棲するようになり、太子の”ブレーン”であった秦河勝を筆頭とした秦氏も歴史の表舞台から姿を消すことになります。この頃から蘇我氏は”悪人”として扱われるようになるのですが、これは一体何故なのだろうか? 実は、”蘇我氏”は秦氏以外にも別の氏族の”別姓”でもあったのではないでしょうか。もっと言ってしまえば、2つの対立する氏族を”蘇我氏”という括りで一つの”氏族”にしてしまったのではないでしょうか。かつて、ここのブログでの「聖徳太子の正体」という記事でも、聖徳太子に”厩戸皇子”と”蘇我蝦夷”という2つの”ペルソナ”が存在していた可能性を示唆しましたが、”蘇我氏”も本来は”架空の氏族”だったのではないでしょうか。おそらく、歴史の”闇”に消えた一族を具現化するために便宜上表記された氏族だったとしたらどうでしょう? まず、飛鳥氏は秦氏の”実体”は、天皇及び朝廷、更に神道を背後から動かしてきた”記紀”にも記されている”八咫烏”と呼ばれる集団で、その幹部である12人が”大烏”と呼ばれ、更にその頂点にいる3人が”金鵄”と呼ばれ、またの名を”裏天皇”とも言い、本当の意味での”天皇”はこの”金鵄”である、と著書に記していました。僕の読みでは、”秦河勝-聖徳太子-山背大兄王(=中臣鎌足?(こちらも以前に「聖徳太子の正体」という記事に記しています。))”は”金鵄=裏天皇”だったのではないか?と考えています。この事が、”女帝”とも関連してくるのではないでしょうか。要するに、歴史の”表”に出せない”金鵄”の代わりにその”皇后”である”女帝”を世に出したのではないでしょうか。

では、蘇我氏のもう一つの”正体”はいかなる氏族だったのだろうか? それを示唆する資料として「先代旧事本紀」が挙げられます。この古文書には物部氏と蘇我氏が同族であるような記述があるようで、記事前半でも書いたように、父の時代から対立しているはずの物部氏の娘を蘇我馬子が妻として娶っているのも、”和解のための政略結婚”にしては少々腑に落ちないんです。宗教的に対立していた状況で、一時的な”和睦”はあってもそこで簡単にも自分の娘を”妻”として差し出すだろうか? しかし、蘇我氏の”もう一つの正体”が物部氏であれば、辻褄が合うんです。つまり、”蘇我氏”という一族は、一方では”秦氏”と同族であり、もう一方では”物部氏”と同族である、という事です。これは”秦氏”も”物部氏”もともに”ユダヤ人”である可能性が高く、蘇我氏と物部氏の”宗教対立”の真相も、実は”旧ユダヤ教”と”原始キリスト教”の対立によるものであったのではないでしょうか。それ故に、蘇我馬子と聖徳太子が物部氏を滅ぼした後、蘇我馬子が政権を牛耳り、聖徳太子は飛鳥を追われるように斑鳩へ隠遁し、そして馬子の孫・入鹿の代になると、太子の遺児・山背大兄王を暗殺し、更に政権を欲しいままにすると、いう”悪党ぶり”を発揮するのですが、この際の”蘇我氏”の正体が”物部氏”だったとしたら、勢力を取り戻した物部氏が”蘇我氏=秦氏王族=金鵄”を飛鳥から追放して政権を牛耳り、しかし、”蘇我入鹿=物部守屋の孫”の頃に”八咫烏”の息のかかった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(後の藤原)鎌足によって討たれる事になりますが、入鹿による”山背大兄王暗殺”は、実は”乙巳の変”と同事件であると僕は睨んでいます。

これによって、もう一方の”蘇我氏=物部氏”も歴史の”背後”にまわり、天武天皇を蜂起させ、奈良時代に様々な”混乱”を巻き起こし、道鏡を使って孝徳天皇をたぶらかし、平安京に遷都されると、”武士”を台頭させ、やがて”幕府”というもう一つの政府の樹立を裏で動かし、江戸時代まで続く”武家政権の黒幕”となり、また、”明治維新”の際にも、各藩の”下級武士”を煽って”武力討幕”を行って、やがて”軍主体”の政府が出来上がり、太平洋戦争敗戦後も”官僚主体”の政府を裏で動かして、現在でも日本を裏から支配しているのではないでしょうか? 無論、ここにはもう一つの勢力”米国影の政府=シークレットガバメント”も当然関与していると思われるが。こういった意味でも、”蘇我”という言葉は、単なるイエスの”死と復活”を示しただけではなく、一度歴史の”裏側”にまわった者が、再び歴史の”表舞台”に現れる、という意味も含まれているのではないでしょうか。

まぁ、これが”真実”であるかどうかはさておき、次章では、その”物部氏”について検証していきたいと思います。
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無題

秦氏に原始ユダヤ人キリスト教徒説があり、蘇我氏は我蘇りと読める、黄泉がえりで世界的有名人はイエス、関係ありという説は出るべくして出るということでしょうね。

お間違えなので

大連は大臣のワンランク下とかいてられるようですが、対等です。
連と臣のちがいなだけです。

  • 2013年04月07日日
  • †火鷲†
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