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僕の頭の中にある世界

僕の頭の中にある”疑問”の世界を書くブログ
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02.11.15:02

真説、聖徳太子と八咫烏

ここ最近、飛鳥昭雄氏は著書の中で「聖徳太子と秦河勝は同一人物です。」としきりに書いています。これまで、僕は秦河勝は聖徳太子の”実父”だと考えていたのですが、どちらもひも解けば”イエス・キリスト”を彷彿させ、どちらも秦氏を束ねる”長”であり、更にどちらも”大工の祖”とされている以上、”上司と部下”でもなければ”親子”でもない、”同一人物”とした方が辻褄が合う、ということなのでしょう。まぁ、このくらいなら”序の口”です。今度は小野妹子、そして蘇我馬子も聖徳太子と同一人物である、と著書に書いています。小野妹子は”遣隋使”として「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。・・・」といった挑発的な言葉を隋皇帝・煬帝に言い放ったが、飛鳥時代の一介の役人が当時の日本よりは遥かに国力が上だった隋の皇帝に向かってこのような発言はまず許されないため、妹子の正体はそれだけの地位のある人物である可能性がるため、”聖徳太子”と同一人物である可能性があると指摘しています。また、蘇我馬子の名前をそのまま意訳すると「我蘇りし馬の子」となり、”馬小屋”出身で処刑された後に復活したイエス・キリストを連想させるため、同じように”馬小屋”出身とされる聖徳太子と同一人物の可能性がある、とのことです。そして、調べたところ、聖徳太子=小野妹子=蘇我馬子であれば、小野妹子の息子に”毛人(えみし)”という名の者がいることを考えても、蘇我馬子には”蝦夷(えみし)”という名の息子がいる事と共通することから、両者は”同一人物”である可能性があると思います。

でもって、今まで飛鳥氏は”秦氏の中の秦氏”としてきた”八咫烏”を”物部氏”であることを暴露したため、こちらは”大混乱”をしているのです(慌) 僕は、てっきり”聖徳太子=秦河勝”こそ”八咫烏”の祖だと考えていました。しかし、実際は”八咫烏”を監視するための”志能備(しのび)=忍び=忍者”の祖だったようです。となると、それまでの”物部氏VS蘇我氏”の対立は、”八咫烏VS秦氏”の対立だった、という事なのだろうか? おそらくは、”八咫烏=レビ族=鴨族=海部氏”という事になると思いますので、表向きな”物部氏”、つまり”軍事氏族(スキタイ系?)”としての物部氏を”聖徳太子=蘇我馬子=秦河勝”が討伐した、という事なのでしょう。ただ、これによって物部氏は完全に滅亡した訳ではなく、一族は逃げ延び行方知れずになったようです。この戦(丁未の乱)以降、”八咫烏”は天皇家の裏側に回り”裏天皇”として機能するようになったのではないでしょうか。

しかし、そうなると蘇我蝦夷、入鹿親子は一体何者なのだろうか? 彼らは聖徳太子の子ないし孫なのだろうか? されど、飛鳥氏は以前「「未然紀」が解き明かす 真・日本史」という著書の中で蘇我の入鹿を討った中臣(後の藤原)鎌足は聖徳太子の息子としているんです。では、一族同士の争いだったのだろうか? となると、何故”日本書紀”は両者を”赤の他人”として記録したのだろうか? 実は、この答えが蘇我蝦夷の”名”に隠されているのではないでしょうか。”蝦夷”というのは言うまでもなく”先住民系蝦夷”を意味するのではないでしょうか。ただ、ここで注意しなければならないのが、彼らは”東国縄文系蝦夷”ではなく”西国弥生系蝦夷=出雲族”だったのではないでしょうか。”出雲族”とは物部氏の”祖先”を意味し、おそらくかの”邪馬台国”を担っていた一族だったのではないでしょうか。となれば、蘇我蝦夷=物部氏という事になってしまいます。つまり、蘇我蝦夷は”丁未の乱”を逃げ延びた物部氏から聖徳太子=蘇我馬子に”入り婿”した者だったのではないでしょうか。その息子が蘇我入鹿という事になります。そして、太子の実子=中臣鎌足と”外孫”蘇我入鹿が対立し、”乙巳の変”によって蘇我蝦夷、入鹿親子は殺され”大化の改新”につながっていくのです。ちなみに、聖徳太子の息子とされる山城大兄王(中臣鎌足?)が蘇我入鹿に暗殺された事件は、実は”乙巳の変”と同一の事件だった可能性があります。

蘇我蝦夷、入鹿親子が抹殺されたことによって表向きの”物部氏=邪馬台王族”は滅亡し、これらの一族ないし配下の者たちは”秦氏”もしくは”八咫烏”の配下に下り、多くは”山の民”となったのではないでしょうか。これらも後の”忍者組織”の中に組み込まれっていったことは間違いないと思います。しかし、鎌足とともに”乙巳の変”を起こした中大兄皇子が後に天智天皇となり、彼の死後”実弟”とされる大海人皇子が”壬申の乱”を起こして天智天皇の後継者だった大友皇子(弘文天皇)を殺し、天武天皇となりましたが、これには”黒幕”がいた可能性があります。”大海人(おおあま)”という名称から”海部氏”が関与している可能性があり、となるとその”黒幕”は”八咫烏”だったのだろうか? しかし、”八咫烏”は基本的には表の政治には関与しない、というのが原則のようです。となると、この”黒幕”は別にいる、という事になります。おそらく、最後まで”天皇”ないし”秦氏”に組しなかった”物部一族”が歴史の”裏側”にまわって”秦氏”ないし”八咫烏”に対抗したのではないでしょうか。道鏡や平将門、平清盛、源頼朝、織田信長らのバックには”物部残党組織”が関与しており、”明治新政府軍”のバックにも彼らが関与していたのではないでしょうか。そして、現在も”暴力団組織”を陰で統括しているのではないでしょうか。

この世は常に”陽”と”陰”で成立しており、”男”と”女”、”白”と”黒”、”光”と”闇”、”偶数”と”奇数”等2つの対照的な存在の上で成り立っています。そういった意味では”天皇”と”八咫烏”、”秦氏”と”物部氏”という”陰陽関係”も成立していることになります。更には、天皇のみを”表”とすると、”八咫烏”、”秦氏”、”物部氏”という3つの”裏組織”となり、これはユダヤ密教”カッバーラ”によるところの”三位三体”を構築していることになります。”日本書紀”で書かれていたことは、まさにこういった”天皇”とその”裏組織”の歴史を綴ったものだった、という事ではないでしょうか。
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12.16.15:52

幕末維新を動かしたフリーメーソン② -坂本龍馬の正体と暗殺の真相-

坂本龍馬についてはこれまで何度も書いてきましたが、実は結構後から作られた話も多く、また、”土佐郷士出身”である龍馬が何故国を動かすことができたのか?という疑問が付きまとうのは事実。そして、”最大の謎”はやはり”暗殺”です。これまでも様々な”犯人候補”が挙げられましたが未だに確信に迫ることができません。

で、今回読んだ「龍馬の黒幕」ではこのようなことが書かれていました。まず、龍馬は単なる”郷士”だったのか?ということです。龍馬は青年時代に江戸に二度も修行に出ているし、その後脱藩した後も家族に何の咎めがないのもおかしい限りです。確かに龍馬の実家は「才谷屋」という商家ですが、実家が金を工面しただけで江戸に二度も出れたり、脱藩後も実家が”無罪”でいられたのだろうか? そこで、この著書では、前章で書いた五代や伊藤と同じく藩の”諜報員”だった可能性が高いとしています。特に、当時”山内家譜代家臣”を中心とした”上士(城士)”と”旧長曾我部家臣”を中心とした”下士(白札、郷士等)”と明確に分かれていた土佐藩では、”諜報員(スパイ)”といった”汚れ役”を”上士”にさせるはずがありません。それによって龍馬は、その”資質”上”諜報員”には適役だったようです。

でもって、龍馬の”脱藩”も、どうやら藩の指示された可能性が浮上してきたようです。江戸や他藩の動きを探るために龍馬をワザと江戸に送り、勝海舟と引き合わせた、と考えた方がなんかしっくりきますからね。二年前に放送された大河ドラマ「龍馬伝」では、龍馬はそれこそ”郷士身分”にして”脱藩”の身でありながら、なぜか当時”幕府政事総裁職”に就任していた前越前藩主:松平春嶽に謁見し、その春嶽の紹介で海舟に会うことになったのですが、このいきさつが正直”不自然”に思ったのは確か。そもそも、春嶽は前土佐藩主:山内容堂とは入魂の中であり、容堂がそのことを知らないはずがないばかりか、最終的に容堂が龍馬の”脱藩罪”を解いている所を見ても、むしろ容堂経由で春嶽に謁見し、海舟と会うことになった、と考えた方が辻褄が合うのです。そして、その勝もまた”下級旗本”出身です。彼もまた幕府の”諜報員”だった可能性が高い、と書かれています。

そして、”軍艦奉行”となった勝が幕府から任された”神戸海軍操練所”も、どうやら”表向き”の施設であり、その”実体”は”諜報機関”だったのではないか?と著者は記しています。イギリスやアメリカの水夫を”講師”に迎えて、”表向き”には”航海技術”や”英語”を習得し、実際は諸外国の情報を得ていたのではないか?としています。事実、勝と龍馬はその時点で長崎を訪れ、グラバーと会っています。また、その”門下生”は様々な藩から集まっており、無論”攘夷派”につながるものもいた模様。龍馬と同じ”土佐藩士”だった望月亀弥太もその一人です。それが幕府に発覚し、”神戸海軍操練所”は取り潰され、勝も”軍艦奉行”を解任されています。

その後、龍馬は薩摩藩に預けられますが、そこで龍馬は西郷吉之助(後の隆盛)と家老:小松帯刀に会っています。その後薩摩の後押しで再び長崎に入り、長崎で力を持っていた芸術家にして事業家であった小曽根乾堂の世話を受け、小曽根邸の裏山である亀山にあった亀山焼工場跡をその後設立する商社”亀山社中”の拠点としますが、この”亀山社中”も”商社”とは表向きで実際は”諜報機関”だったようです。表向きに薩摩名義でグラバーを通じてイギリスから武器や軍艦を買い、それを長州に売る。その裏でグラバーを通じてイギリス側から”薩長同盟”の構想を聞き、龍馬はいわば”エージェント”という形で”薩長同盟”を締結させたに過ぎない、と著書には記されています。

そして、その”薩長同盟”がひとたび締結されるや、一気に”討幕”の機運が高まっていきます。しかし、龍馬はどうもそれに乗る気がない様子。実は、龍馬が元々土佐藩の”諜報員”だったことを考えればそれも頷けるんです。”前藩主”にして事実上の”土佐藩トップ”であった山内容堂はあくまでも”佐幕派”であったからです。何故なら、彼の祖先である山内一豊が”土佐一国の大名”に成れたのも、一豊の”実直さ”と妻(千代という説があるが定かではない)の”機転”を買った徳川家康のおかげであり、山内家が今日存在し続けているのも幕府のおかげであると考えていたからです。そして、龍馬とともに”大政奉還”に奔走した土佐藩参政:後藤象二郎も当然ながら”佐幕派”です。しかし、龍馬はイギリスの”諜報員”でもあったわけで、イギリスも表向きには”平和的改革”をうたっているが、実際は”武力改革”を望んでおり、そのために多くの藩を武力で脅して”討幕派”に寝返らせています。それでも、”討幕”を疑問視していた龍馬は次第にイギリス側から距離を置かれたようです。

かくして、慶応3年(1868年)10月14日、京都二条城において15代将軍:徳川慶喜が”大政奉還”を正式に表明し朝廷がそれを受諾しています。龍馬や後藤の意向が遂に実現した瞬間でした。しかし、それも束の間、薩長藩はすでに”武力討幕”の準備を整えており、それを後押ししていたのがイギリスだった、と著者はしています。龍馬はこの時点で”幕府側”からも”討幕派”からも睨まれるようになり、また土佐藩も龍馬を危険視したため、現在の京都市河原町付近にあった、土佐藩邸とは道を挟んで向かい側にあった醤油屋:近江屋に隠れ住んでいました。この時龍馬は薩摩にいる”盟友”である中岡慎太郎に西郷の”武力討幕”をやめさせるように頼んでいたり、海援隊の”参謀格”である陸奥宗光に手紙でやり取りをしていたようですが、この時点で、中岡や陸奥は”討幕派”の手中にいた、と著書には書かれていました。しかし、彼らを信じる龍馬に”悲劇”が起こったのはその後。慶応3年(1867年)11月15日、龍馬と中岡は”刺客”2名によって龍馬が隠れ住んでいた近江屋で暗殺されます。享年33歳。

で、”暗殺劇”に関しても、”通説”では、まず”何者か”が近江屋の玄関の戸をたたき、その戸を龍馬の下僕となっていた元力士:藤吉が開けると2人の見知らぬ男が「十津川の郷士の者ですが」と言って藤吉に名刺を渡すと、それを持って龍馬へ渡すべく階段を上ろうとした瞬間、藤吉は後ろから2人のうちの1人に斬られ、その音を聞いた龍馬は「ほたえな!(騒ぐな、という意味)」と叫ぶと2人の男が部屋の襖を開け「坂本さん、お久しぶりです」と声をかけ、龍馬が「はて、おまん誰ぜ?」といった瞬間に「こなくそ!」の声とともに龍馬の額めがけて切りかかり、そして龍馬も奮闘するも最後に脳天を切られ床に倒れ、中岡もかなりの箇所を斬られ、龍馬はすぐに絶命、中岡は窓から落ち、2日後死亡。その中で、中岡が覚えている限りのことを、他の土佐藩士と話している、と言われています。しかし、ここにも多くの”疑問”が生じます。まず、誰がこの光景を見ていたのだろうか? おそらくは、こういった”証言”は後に時代に作られた話であり、”真相”は闇の中である。そこで、著者が言うには「剣に覚えがあり、しかも”寺田屋騒動(寺田屋事件とは別物)”において伏見の役人に対して”ピストル”で応戦している龍馬が、こうもあっさり斬られるはずがない。」とし、「龍馬を切った人物は、おそらく龍馬の顔見知りであり、龍馬が心を許せる人物」としています。その”答え”は、この時龍馬とともに近江屋にいた”盟友”中岡慎太郎その人です。そして、龍馬の死後現場に駆けつけて30年後に暗殺後の証言をした”土佐藩士”谷干城、同じく”土佐藩士”田中光顕、同じく”土佐藩士”毛利恭介、”海援隊隊員”白峰駿馬らが”共犯者”だった可能性があるとしています。更に当時現場にいたとされる”薩摩藩士”吉井幸輔が”黒幕”からの指令を中岡らに伝え、そして、この事件の”黒幕”こそ、一般的には”イギリス人通訳”として知られているアーネスト・サトウではないか?としています。何故なら、彼の書いた手紙からそれをにおわせる部分があり、また龍馬を斬った人間の人数も”3人”と記しているようです。しかし実際は中岡含めて5名。となると、おそらくはそのうち2人、さしずめ毛利恭介と白峰駿馬は”見張り役”で、そうなると”実行犯”は、中岡、谷、田中の3名となります。そして、中岡は龍馬の”反撃(もしかするとピストルで撃たれた可能性も?)”を受けた可能性が高く、それによって中岡は2日後絶命、生き残った谷と田中は維新後、政府の”要人”となっています。

最後に、自分の意見を加えたいと思いますが、確かに討幕派集団であった”陸援隊”の隊長であった中岡慎太郎だったら、確かに”動機”はあるだろうけれども、以前ここのブログでの「龍馬暗殺の最新説」という記事にも書きましたが、加野厚志著「真説 坂本龍馬」の中では、中岡が龍馬の元を訪れたのは”武力討幕実行”のためではなく、新選組に捕らえられた同志の処遇について相談するためであったことが、手紙などで発覚しているため、可能性は低い、とのことでした。それと、引っかかるのは、もし中岡が犯人だったとして、その場に谷や田中らがいたのだとしたら、普通であればその犯行を中岡一人に押し付け、自分たちはあくまでも龍馬の救援に駆け付けた、と証言するはずなのです。しかし、彼らはそのことを隠しています。となると、やはり、”中岡犯行説”には疑問点も少なくありません。しかし、アーネスト・サトウら”イギリス人”が裏で糸を引いていた可能性は否定できないでしょう。もっとも、所詮”通訳”ごときのサトウが完全な”黒幕”とは思えないので、もっと大きな存在(ロスチャイルド財閥等)がバックに控えていたのは確かでしょう。それと、”日本側”の黒幕もおそらく関わっていたでしょう。”明治天皇すり替え説”がある以上、”朝廷関係者”、天皇を背後で動かす”秦一族”、更にそれに対抗する”物部系結社?”が絡んでいる可能性はあると思います。

12.16.13:44

幕末維新を動かしたフリーメーソン① -グラバーに関わった志士たち-

最近会社へ向かう途中、コンビニで加治将一著「龍馬の黒幕」という本を買い読みました。この著書で書かれていたのは”幕末維新”と”英国フリーメイソン”の関係、”英国フリーメーソン”と維新に活躍した志士との関係、更には、坂本龍馬他何人かの幕末志士たちの”素性”について書かれていました。

まず、本当の意味で”幕末維新”を動かしたのは誰なのか?という事に触れていました。通説では、”薩摩藩”の西郷隆盛、大久保利通ら、”長州藩”の桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作ら、”土佐藩”の坂本龍馬ら”下級武士”を中心とした”日本の武士”という事になっていますが、これに対して著者は「日本の名も無き”下級武士”のみの力で幕府を倒す事など不可能。」としています。確かに、いくら”下級武士”たちの幕府に対する不満が頂点に達したからといって、せいぜい”桜田門外の変”や”蛤御紋の変”を起こすぐらいが関の山。日本の政局を根本からひっくり返すには、それ相応の”軍事力”及び”財力”が必要不可欠なのです。当時それができたのは誰なのか? それは・・・、日本にすでに在住していた”外国人”に他なりません。特に長崎で商社を設けていたトーマス・グラバーがその”筆頭”であり、更に彼の”バック”には”フリーメーソン”の存在があったとのことです。”フリーメーソン”というと、このブログでよく取り上げている”米国軍産複合体=影の政府(シークレットガバメント)”と誤解しがちなのですが、本来の”フリーメーソン”は実はその逆の組織で、あくまでも”自由”、”平等”、”博愛”をスローガンとした”秘密結社”なのです。しかし、彼らはどうやら完全に”一枚岩”にはなっておらず、その一部が”シークレットガバメント”のような”陰謀組織”を構成しているのでしょう。

次に、このグラバーら”英国フリーメーソン”と関わっていた志士と、幕末期に起きた英国相手の2つの戦争の真相について触れていました。まず、初めに起こった”薩英戦争”について。”薩英戦争”とは、薩摩藩主:島津忠義の父で”国父”と名乗り薩摩藩を事実上牛耳っていた島津久光が朝廷を後ろ盾に幕政への強制参加を企て江戸へ向かう途中の武州生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)にて薩摩の大名行列の前に立ちはだかったイギリス人を切り殺す事件(生麦事件)が起こり、そのイギリス側の”賠償請求”を飲まなかった薩摩との間に起こった戦争で、藩士の五代友厚と寺島宗則の乗っていたイギリスから買った汽船三隻がイギリス艦隊に拿捕されたことがきっかけで戦争が起こっています。でも、実はこれには”裏”があって、元々グラバーと交流があった五代と寺島がイギリスと共謀しワザと戦争を起こしたもので、イギリス艦隊の前に薩摩が引き下がると思いきや、プライドの高い薩摩藩士が意地と面子で無謀にも反撃したために鹿児島城下が火の海になる、という結末になってしまったもので、本来はイギリス側も五代らも”平和的交渉”をするつもりだったようです。

もう一つ、長州も下関でイギリスと戦争を起こしています(下関戦争) こちらは久坂玄瑞ら”長州攘夷派”がかねてから”攘夷決行”を企てていて、馬関海峡(現在の関門海峡)を通過するアメリカの商船を攻撃し、今度はアメリカ・フランスの連合艦隊に反撃されたために、長州は下関の港を封鎖しますが、それによって長崎における貿易に支障が生じたため当時のイギリス公使オールコック主導により港を強引に開港させるべくイギリス、アメリカ、フランス、オランダの”四ヶ国連合艦隊”によって下関港を攻撃した戦争で、これにより長州は惨敗。敗戦後の講和交渉の使者に抜擢されたのが本来”攘夷派”であった高杉晋作。しかし、どうやらここで一役買っていたのが、高杉の配下にいた伊藤俊輔(後の博文)と井上聞多(後の馨)で、彼らはこの戦争が起こる前にイギリスへ密航しており、この時すでに彼らもグラバーとつながっていたようです。そして、両者は上司である高杉を”開国派”へ方向転換させ、この交渉に及んだとしています。

そして、今名前の挙がった薩摩の五代友厚、寺島宗則、長州の伊藤俊輔(後の博文)、井上聞多(後の馨)ですが、彼らは本来”下級武士”であるにもかかわらず、何故英国に渡ることができたのだろうか? そして、グラバーや通訳アーネスト・サトウらが彼らを信頼できたのか? どうやら、彼らは元々藩の”諜報員”であり、やがてグラバーらイギリス人と通じている間に彼らによって”フリーメーソン”に勧誘されたか、そこまではなくてもそれに準ずる扱いを受けていた可能性があると著書には記されていました。”下級武士”であれば”諜報活動”をさせるには有利であり、問題があれば簡単に切り捨てることもできる。実は、この事が、幕末維新において多くの”下級武士”が活躍できた最大の理由だったのではないでしょうか。となれば、ここに名前の出ていない西郷隆盛、大久保利通も元はそういった役割だった可能性があり、そして家の坂本龍馬もどうやら土佐の”諜報員”であり、やがてグラバーとかかわることで”フリーメーソン”がバックにつくようになったようですね(ちなみに飛鳥昭雄氏は「失われたフリーメーソン『釈迦』の謎」の中では、龍馬の”有名な写真”の中で龍馬が着物の胸の辺りに手を入れているポーズがまさしく”フリーメーソン”のポーズであり、龍馬自身列記とした”フリーメーソン”のメンバーだったとしています。)。

次章では、いよいよ坂本龍馬の””正体”と”暗殺の真相”について触れたいと思います。

05.29.13:02

続・物部氏と蘇我氏の正体

先々週、飛鳥昭雄著の「失われた徐福のユダヤ人-物部氏の謎-」を買い、先週の日曜日ぐらいに読み終えたのですが、以前ここのブログでも書きましたが、物部氏は”2系統”あると想定していたのですが、それは”徐福率いる秦からの亡命者”とそれを征服した”騎馬民族系豪族”という構成ではなく、”徐福系”の”物部氏本隊”と”別働隊”であった”レビ系海部氏”という”2系統”によって構成され、最終的には”海部氏”が”物部本隊”が吸収した、といった内容でした。しかし、僕にはまだ何かスッキリしないものを感じるんです。確かに、徐福一行の中には”兵士”もいたかもしれませんが、しかし、徐福の伝説を記述する「史記」の中の「准南衡山列伝」には、「・・・振男女三千人を遣り、これに五穀の種と百工とを資して行かしむ。・・・」と書かれている事から、徐福が連れてきた主だった人々は”農民”や”技術者”であって、”軍事集団”ではなかった事になります。しかし、いつしか物部氏は強大な”軍事集団”となり、”もののふ”の”語源”となります。おそらく、この”謎”の鍵を握るのが、物部氏の”最大”にして"最強”のライバルとなる蘇我氏に他ならないのではないでしょうか。そして、その後の”武士”につながっていくのではないでしょうか。

蘇我氏の”ルーツ”とされる人物は、「古事記」、「日本書紀」に登場する武内宿祢と言われいます。しかし、調べてみると、武内宿祢からは蘇我氏以外にも、葛城氏、巨勢氏、平群氏、紀氏、そしてなんと波多氏(おそらく秦氏)までもがこの人物を”祖”としているのです。となれば、やはり以前ここで書いたように”蘇我氏=秦氏”であって、”大臣姓”を持つ豪族も皆”秦氏”の一族、という事になってしまうでしょう。では、この武内宿祢なる人物はいったい何者だったのだろうか? ”記紀”によれば、第12代景行天皇の時に東国・北国の”蝦夷征伐”を進言したり、13代成務天皇の時に神功皇后の”朝鮮出兵”を決定づけ、15代応神天皇の時に渡来人を率いて”韓人池”を作るなどしています。これだけでは少々情報が少ないですが、なんとなく彼が”軍事”に長けていて、しかも配下に”渡来系技術者集団”がいた事が伺われます。

しかし、最近の研究では15代応神天皇こそ”初代天皇”である可能性が高いと指摘されているため、それ以前の天皇は皆応神天皇と”同一人物”である可能性があるため、そうなると、それまでの歴代の天皇の時代の出来事の”時系列”が全て狂ってくる事になります。となれば、”神功皇后の朝鮮出兵”は実際は”朝鮮半島からの日本出兵”を意味した事になり、”蝦夷討伐”はそのまま”神武東征”ないし”日本武尊の東征”を意味するのではないでしょうか。しかも、この”蝦夷”には”縄文系先住民”のみならず、”弥生系渡来人=物部氏”も含まれていたのではないでしょうか。となれば、天皇一族を中心とした”渡来系騎馬民族”が物部氏を配下にし、やがて彼らに融合した”騎馬民族系豪族”もおそらくはいたと思われます。

さて、以前蘇我の読みの”ソガ”の語源がサカ族の”サカ”が転じたものではないか?という記事を書きましたが、彼らはおそらく”スキタイ系騎馬民族サカ族”と関係があるかと思われます。更には”釈迦”にも通じる事から、”仏教”との関連もかなり古い段階であった可能性があります。で、僕が考えているのは、”天皇一族(北朝イスラエル系10支族)”の中には朝鮮半島にいた頃から”スキタイ系サカ族”の末裔が存在し、それとは別に釈迦(仏陀)入滅後、”カースト制”を嫌った一部の仏教徒(サカ族)がチベットを経て中国に入り、更に朝鮮半島へ移動して”天皇一族=北朝イスラエル10支族”と融合した可能性もあるのではないでしょうか。その一族が後の”蘇我氏”の母体になったのではないでしょうか。しかし、この状態では彼らはまだ”弱小勢力”でしかなく、後に他の”豪族”、更には秦氏に対して布教活動を行い、それらの豪族から”仏教徒”に改宗した人達がそのまま”蘇我氏”になったのではないでしょうか。であれば、蘇我氏の勢力が拡大したのに反して葛城氏、巨勢氏、平群氏等の勢力が衰退したのも理屈に適います。ただし、秦氏だけは”別格”としてその勢力を保ち続けたのでしょう。そして、そういった動きに対して大反発していたのが”神道”を奉じていた物部氏だった、という事になるのでしょう。

しかし、”正史”においては538年に来日した百済の聖明王によって仏教が伝えられた事になっていますが、これは本格的に仏教を”国教”にするために聖明王を招き入れた、というのが真相で、「日本書紀」においては蘇我氏の”素性”を隠すために聖明王によって伝えられた、と記されたのではないでしょうか。そして、仏教を”国教”にしようと画策した張本人も、実は蘇我氏ではなく秦氏だったのではないでしょうか。何故なら、蘇我氏が滅んだ後も仏教は”国教”として根付いているし、事実上仏教の全国的普及を示唆したのは蘇我馬子ではなく秦氏とただならぬ関係がある聖徳太子だからです。また、物部守屋を討とうとした張本人も実は秦氏で、彼を討って配下にいる物部一族を秦氏の配下に治める事が”真の目的”だったのはないでしょうか。更に、秦氏は物部宗家滅亡後、蘇我宗家を滅ぼして、仏教に関する”絶対的権限”も取得したのではないでしょうか。

こうしてみると、一部の古代史研究家が唱えるように、”皇族・藤原氏側(秦氏も含む)”が本当は”悪”であり、”物部氏・蘇我氏側(聖徳太子一族も含む)”が”正義”である、といった説に近いように感じますが、それでも飛鳥昭雄氏は著書「「未然紀」が解き明かす 真・日本史」の中で、何と”乙巳の変”の首謀者の一人である中臣(後の藤原)鎌足が「未然紀」に登場する鎌足の素性を読み取った上で、実は藤原鎌足は聖徳太子の子だったのではないか?としています。となれば、一変、やはり”皇族・藤原氏側”が”正義”となり、”物部・蘇我側”が”悪”ということになってしまいます。果たして、”真相”はいかに!? そこで、”鍵”を握るのが、物部氏、蘇我氏に融合した”スキタイ系サカ族”の血筋です。

物部氏と蘇我氏の”対立”の原因は、一般的には”宗教の違い”によるものとされていますが、果たして本当にそうなのだろうか? 物部氏と蘇我氏の”勢力拡大”の裏には”軍事力“が存在する事は間違いないでしょうし、その背景には”スキタイ系サカ族”の影がチラついていると思われます。そして、彼らが何故最終的に滅ぼされたのだろうか? 実はこの頃の物部氏、あるいは蘇我氏は”宗教”にそれほど深くは帰依しておらず、あくまでもそれを”道具”として利用していただけに過ぎなかったのではないでしょうか。すなわち、”武力”によって権力を握っていただけに過ぎなかったのでしょう。それによって、彼らは”天”から見放された、という事ではないでしょうか。

でも、物部氏と蘇我氏の中には生き残った者もおり、彼らは”天皇家”と和睦して物部氏が”石上(いそのかみ)氏”を名乗り、蘇我氏が”石川氏”を名乗るのですが、この両名の”語源”が僕が思うには”イスラエル系イッサカル族”にあるのではないか、と考えられるのです。つまり、”サカ族”とは、アッシリア滅亡の原因を作ったスキタイ人が北朝イスラエル人と融合した際、中でもイッサカル族と融合したためにスキタイの呼び方で”サカ族”になったのではないか、と。しかし、これらの一族の宗家もまた、没落の道をたどっているんです。その後、彼らの”残党”が歴史の”裏側”にまわり、秦氏中枢である”八咫烏”と対抗する勢力を作ったのではないでしょうか。

そして、ようやく実権を握るようになった中大兄皇子が”天智天皇”と名を変え、やがて死去すると、弟の大海人皇子が”クーデター”を起こし、”天武天皇”となりますが、その背景に物部と蘇我の”残党勢力”が関わっていた可能性はありますね。”奈良時代”の後期に登場した天皇になろうとした僧・道教、”武士の台頭”と”幕府の成立”、”南北朝動乱”、”応仁の乱”、”本能寺の変”、時代は流れて”坂本龍馬暗殺”、”討幕・明治維新”、”5.15/2.26事件”といった歴史的出来事にも彼らはおそらく関わっているでしょう。更には、現在の政府、警察、あるいは暴力団にも彼らは絡んでいるのではないでしょうか。世の中が”陽と陰”で構成されているのだとすれば、”八咫烏”に対する”反勢力”はおそらく存在し、それによって鎌倉時代以降日本は”二元政治”を行われており、現在では”天皇家”はあくまでも”象徴”であるため、事実上国を動かしている政府に連中が関わっている可能性は考えられます。

まぁ、これらはあくまでも僕の”推測”に過ぎないのですが、世の中には必ず”理不尽”な部分が付きまとっており、それらが暗黙の内に見過ごされ、それを言及した人間があべこべ”不幸”になる! なんだかんだ言っても、世の中”正義”より”悪”が優遇されているように見えてならないのは事実! これらを意図的に仕掛けている連中がいる可能性はあると思います。

11.23.15:58

物部氏の謎

前章では、”蘇我氏の正体”についての検証をしてみたのですが、蘇我氏が聖徳太子と同じく”架空の存在”だったとして、その”モデル”となり得る氏族を探すと、ある2つの氏族に行きつきました。一つは蘇我氏同様”渡来系氏族”で、飛鳥時代の特徴である多くの”石造遺物”が示すような高度な”技術”を持った一族である”秦氏”であり、もう一つが一見”対立関係”にあるようで以外にも多くの接点が見られる物部氏である可能性が出てきました。ただし、彼らは現在でもその末裔が社会の”表”に存在する秦系ないし物部系の一族ではなく、あくまでも社会の”裏側”にまわって日本を動かしてきた一族である、という事です。では次に、物部氏がいかなる氏族だったのかを検証していきたいと思います。

物部氏とは、「古事記」、「日本書紀」においては”素戔嗚尊(スサノオノミコト)”、”大物主神”、”大国主神”等の”国津神”の子孫とされる事から、”先住系王族”とされていますが、これも研究者によっては”縄文系先住民”と見立てる人もいれば、”天孫族(天皇一族)”より少し前に日本に渡来した民族と見立てる人もいます。しかし、隠蔽された古代日本史を解くには”海の外”の歴史書が”重要参考資料”となるのです。秦始皇帝の参謀であった徐福は、次第に高慢になり人心が離れていった始皇帝に見切りをつけ、「海の向こうに蓬莱山があり、そこには不老長寿の薬草が生えているそうなので、さっそくその薬草を取ってきて差し上げましょう。」と始皇帝を騙して海の向こうの蓬莱山(おそらく日本の富士山)へ向かって出航し、事実上の”亡命”を計りました。無論、このような史実を日本の”記紀”は認めていませんが、日本各地に”徐福伝説”が存在し、”日本史”においても考古学的に徐福が渡来したとされる紀元前3世紀とほぼ同じ時代のものとされるそれまでの”縄文式土器”とは全く形状の異なる”弥生式土器”や、”水田稲作遺構”等が確認されています。つまり、我々が歴史の授業で習った”弥生人”の正体が”徐福一行”だった事になります。そして、彼らの事を秦からの渡来人として”秦氏の祖先”と考える人も多いようですが、それに対して”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏は「秦氏は天皇一族とほぼ一緒に日本に渡来した氏族で、彼らは自分達の神”イエス・キリスト”を”天照大神”として日本の最高神に据えた”キリスト12使徒”の末裔である。」と彼らの多くの著書に記しているため、もしこちらが正しければ、徐福一行は秦氏ではない事になります。となれば、考えられるのは、天皇一族や秦氏以前に日本に来ていたと思われる物部氏こそ、”徐福一行”の末裔である可能性が高いのではないでしょうか。となれば、卑弥呼で有名な”邪馬台国”を建国したのは物部氏である可能性が出てきました。

しかし、多くの”徐福伝説”から考えれば、彼らはあくまでも”軍事支配”ではなく、”交易”を通じて自分達の”文化”や”技術”を伝播して”縄文系先住民”と融合していったと考えるべきでしょう。つまり、この頃の”物部氏=徐福一行”は決して”軍事氏族”ではなかった、という事になります。無論、彼らの中に秦の兵士がいた可能性もなくはないが、それはあくまでも”護衛隊”であり、倭国=古代日本を武力征服しようとは思っていなかったのでしょう。では、何故いつしか物部氏は”祭祀氏族”であると同時に”軍事氏族”になってしまったのだろうか?

徐福の時代から約600年後の女王・卑弥呼の時代、彼女の晩年には”邪馬台国”の南方に位置するとされる”狗奴国(くなこく)”との対立が激化し、”後継者”の壱与(とよ)の時代の途中で「魏志倭人伝」から邪馬台国に関する記述が途絶えた事から、おそらくこの頃邪馬台国は”滅亡”したと推測されます。で、邪馬台国の南方に位置したとされる”狗奴国”とは一体どんな国だったのだろうか? 多くの研究家は”熊襲(クマソ)”、”隼人(ハヤト)”を中心とした”南九州王国”と考えているようですが、これに対して飛鳥昭雄氏は「かつて日本列島は九州を北に上下逆さま”だった。」と主張。その理由は、「魏志倭人伝」に記述された”距離”と”日数”では辻褄が合わず、日本列島を”上下逆さま”にした場合、その距離と日数を忠実に辿っていくと現在の奈良県のある”大和”と一致するからだと、著書「邪馬台国の謎と逆転日本列島」に記しています。となると、そこから”狗奴国”を探っていくと関東~東北地方にまたがる”東日本”となり、おそらく徐福一行の”文化”や”技術(特に農耕技術)”をあまり受け入れず自分達の生き方を貫いた”東日本縄文王国”であった可能性が高くなります。そして、飛鳥氏は、「古事記」、「日本書紀」に登場する”天孫族”に対抗した”長髄彦(ナガスネヒコ)”は東日本側の”統治官”だったのでは?としています。で、”記紀神話”における”神武東征”の項には長髄彦が奉じた神”饒速日命(ニギハヤヒノミコト)”なる神が登場し、神武天皇が”天照大神”の子孫である事を知ると、この神は神武に国を譲る事を約束し、一方の長髄彦はそれを拒んだために殺された、と書かれています。この”饒速日命”とは一体何者なのだろうか?

”饒速日命”は一応”物部氏”の祖の一人とも考えられているため、彼が物部氏と深い関係がある事は間違いないはずですが、長髄彦が”邪馬台国”を征服した”狗奴国”側の人間だったとしたら、”被支配者”である”邪馬台王族”を”神”とするはずがないんです。となれば、”狗奴国”以前に”邪馬台国”を征服した”異民族”が存在した、という事ではなかろうか。更に、その後”天孫族”の神武天皇が大和に入った際に、神武天皇の正体を知った饒速日命が”国譲り”の約束をした所を見ると、この”饒速日命”とその一族は、おそらくは”天孫族=天皇一族”の”別動隊”ないし”配下”の一族だったのではないでしょうか。そして、この時を持って”物部氏=軍事氏族”となったのではないでしょうか。そこで、今一度”蘇我氏=物部氏説”を持ち出すと、”蘇我”という名前の今度は”読み”を考えると”ソガ”という発音と近い民族が浮かび上がってくるのです。”ソガ”に近い発音”で”軍事民族”である民族で思い当たる民族の中に”スキタイ系サカ族”が浮かび上がってきます。”サカ族”と言えば”仏教の祖”である”釈迦(ブッダ)”の出身族であり、この事から”蘇我氏”と”仏教”との関連も伺われます。そして、サカ族は”天孫族=天皇一族”のルーツと考えられる”北朝イスラエル10支族”がアッシリア滅亡後に彼らと融合する形で北アジアルートで最終的に朝鮮半島を経由して日本へ入ってきたと思われますが、10氏族の中でも特に”サカ族”の資質を多く受け継いだ支族がおそらく存在した可能性が考えられます。それを伺わせるのが、蘇我氏の中には同時に”石川”と名乗る者が存在する事です。その”イシカワ”の発音と近い”イスラエル支族”が存在します。”イッサカル族”です。”サカ族”と”イッサカル族”、この両者も何となく発音が似ている事から”サカ”が”イッサカル”が転じた読み方であり、両者は完全に”同化”したのではないでしょうか。

”饒速日命=サカ/イッサカル族長”は、神武天皇に”邪馬台国=大和国”を譲った後、”出雲国(おそらく当時は山陰地方一体)”に拠点を移したのではないでしょうか。しかし、神武天皇は配下にいた”日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を出雲へ遣わせそこを”支配下”とし、更に九州の”熊襲”を征伐した後、東国へも派遣したものの完全に支配できないまま、大和へ向かう途中に”他界”しています。こうして、”饒速日一族”とその配下に下った”邪馬台王族”は”物部氏”となって西日本を中心とした”大和国”の”大連”となって”祭祀”と”軍事”を司る”大豪族”に君臨するも、飛鳥時代に入るとライバル”蘇我氏(おそらく秦氏のカムフラージュ?)”との”覇権争い”に敗れ、表向きにはそのまま”没落”していく事になりますが、しかし今度は彼らが”蘇我氏”に名を変えて入鹿の時代に政権を欲しいままにし、そして中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足によって入鹿が暗殺されると、物部氏は本格的に”衰退”し、そして歴史の”裏側”にまわってその後の様々な”歴史的事件”を陰で操っていったのではないでしょうか。・・・そして、彼らの”末裔”は、おそらく現代にも至っているのでしょう。

10.31.15:01

蘇我氏の正体

”古代史”において、”渡来系新興豪族”として突如台頭し、”神道”に代わる新たな宗教”仏教”の導入に大きく貢献し、そして”廃仏派”の物部氏を滅ぼして”権力”を手中におさめ、そして、彼らの”専横政治”を快く思わない中大兄皇子と中臣鎌足によって討ち滅ぼされた蘇我一族。しかし、”歴史”はあくまでも”勝者側”が作るものであり、蘇我氏は本当は”悪人”ではないのではないか?という多くの研究家の疑問から、”蘇我入鹿=聖徳太子説”が生まれたり、”蘇我氏=古代王族説”が生まれ、反対にあくまでも”蘇我氏=悪人”と考える研究家の中には”蘇我馬子聖徳太子暗殺説”を唱える人がいたり、と様々な憶測が絶えません。この”謎”に満ちた蘇我氏という一族はいったい何者だったのか? それを検証していきたいと思います。

まず、蘇我氏といえば”仏教”を思い浮かべる人が多いと思われます。聖徳太子と共に”仏教”の布教に尽力を尽くし、それに反対する物部氏と対立し、その物部氏を倒して政治を我が物にした一族、というイメージがあります。そこで、蘇我氏の系譜をざっと説明すると、本格的に歴史書(日本書紀)に登場するのが6世紀中頃に活躍した蘇我稲目で、大王(後の天皇)に次ぐ”大臣”という姓を持ち、欽明13年(552年)に百済の聖明王によって”仏教”が伝えられた際に、それを受け入れた事によって、それに対して物部尾輿(守屋の父)と中臣鎌子(鎌足の曽祖父)が反対した事によって蘇我氏と物部氏、中臣氏は”対立関係”となり、それが後世に続く事になり、それぞれの息子、蘇我馬子と物部守屋の時代にはその対立が激化。そして、聖徳太子と手を組んで物部守屋の軍を打ち破り、守屋が討たれると、次第に馬子は政権を牛耳るようになり、時の天皇・崇峻天皇と対立、そして配下の東漢(やまとのあや)駒に暗殺させ、用明天皇の妹で聖徳太子の叔母に当たる炊屋姫(かしきやひめ)を推古天皇として即位させています。その後、聖徳太子と共に”十七条の憲法”と”冠位十二階”を制定して”中央集権国家”の礎を築く事になります。やがて、息子の蝦夷と孫の入鹿の時代になると、その”専横”を極め、蝦夷はまず、推古天皇の崩御後、推古の違勅により田村皇子を舒明天皇として即位させ、舒明の崩御後は皇后の皇極天皇を即位させるも、蘇我氏が政治を独占。その後、家督を息子の入鹿に譲り、入鹿は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を即位させるために聖徳太子の息子である山背大兄王とその一族を殺害。更に、専制を極めようとする入鹿は、”反蘇我勢力”である中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(後の藤原)鎌足によって暗殺される(乙巳の変)。・・・といった所です。しかし、このまま読めば、通説通り”仏教”を擁し、次第に天皇を蔑ろにして政治を独占した”悪しき一族”というイメージ通りになってしまいます。

でも、”歴史”とはいつの時代も”勝者”によって書き換えられるものなのです。上記の”定説”はみな「日本書紀」によるものであり、その事実上の編纂者は中臣鎌足の息子である藤原不比等と言われています。となれば、当然ながら父を”英雄化”するために蘇我氏を”悪人”に仕立て上げ、歴史を改ざんした可能性は十分あり得るでしょう。それにこれまでの”定説”にはいくつかの”矛盾”も見られないではないです。①”渡来系民族”とされているが、その割には大王(天皇)に次ぐ”大臣”の姓を与えられ、天皇家以前の日本の王族だったと考えられる物部氏(姓は大連)よりも”格上”である事。②このころの皇族の系統が複数ありすぎる上に、皇族同士の結婚が多すぎる。③この時期に”女帝”が頻発している事。④蘇我氏と物部氏が稲目の時代から対立しているにもかかわらず、馬子の妻が物部氏である事。⑤聖徳太子が天皇になれず、なぜ女性である推古が天皇になれたのか。・・・等です。①に関しては、そもそも天皇一族自体が”渡来系民族”と考えれば、彼らと同時期、いや同時に渡来した一族である可能性が考えられ、蘇我氏自体が”王族”だったのでは?という指摘をする研究者は多いです。②に関しては、古代日本においてはまさに”複数王朝”があった可能性が伺えます。③に関しては、”女帝”が本当に存在していたのだろうか? ”複数王朝”の存在を隠すために、皇后をあえて”女帝”として”記紀”に記した可能性も考えられます。④に関しては、実は蘇我氏と物部氏は仲が良く、もっと言えば”同族”であった可能性を、物部系の人々によって書かれたとされる古文書「先代旧事本紀」から読み取れるようです。⑤に関しては、聖徳太子が本当に用明天皇の子だったのか? という事と、もっと言ってしまえば聖徳太子自体の”実在性”も近年疑われているようです。これらの”謎”に対する”真相”はどうだったのだろうか!?

”複数王朝説”に関しては、卑弥呼の時代から”倭国大乱”と呼ばれるように複数の王国が乱立していた可能性があり、それを証明するような地方豪族のものと思わしき”古墳”も多数発見されていますが、しかし、それは後の”戦国大名”や”幕藩体制”のように、あくまでも多数の小国の領主がその地を治め、その上に”中央政権”が君臨する、という体制が古くからあったと考えた方が妥当でしょう。それは「魏志倭人伝」にも卑弥呼を”女王”とする”邪馬台国”が日本(当時は主に西日本)を治めていた、と記されているからです。歴史作家の関裕二氏も著書「大化の改新の謎を斬る!」の中では「天皇には古くから”権限”が与えられておらず、複数の豪族による”合議制”によって政治が行われていた。」と記しており、”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏は、「天皇は渡来系氏族・秦氏とは切っても切り離せない存在である。」と多くの著書に記しています。実は、僕はこの”秦氏”こそが鍵を握る存在だと考えています。なぜなら、秦氏もまた蘇我氏と同じ”渡来系氏族”であり、彼らは天皇と密接な氏族です。さらに、彼らは”技術集団”でもあり、蘇我氏が牛耳る”飛鳥時代”には”酒船石”、”亀石”、”猿石”、”石舞台古墳”等の数多くの”石造物”が作られており、これらの作成に秦氏がかかわっている可能性は高いでしょう。しかも、これによって、かつてテレビ東京系例で放送されていた”歴史ミステリー番組”では、”蘇我氏=ローマ人説”が扱われていましたが、もしそこに秦氏がかかわっていたとすれば、かなり”信憑性”が伺われるのです。なぜなら、この秦氏がかつてローマに属していたこともある”ユダヤ人”である可能性が高く、飛鳥氏は、彼らが”イエス・キリスト12使徒”の末裔であると指摘しています。となると、気になるのが「蘇我」という姓です。直訳すると「我蘇る」となり、これはイエスの”死と復活”を連想させるからです。で、僕が思うに、蘇我氏と秦氏は”同族”だった可能性があるのではないでしょうか!?

現に、蘇我氏は聖徳太子と関係が深く、また、聖徳太子も秦氏と関係が深いからです。そして、”蘇我氏=秦氏”であるとすれば、秦系祭祀氏族・賀茂氏との関係が示唆される葛城氏や、巨勢氏等の”大臣姓”を持つ氏族が”秦氏系氏族”である可能性が出てくるのです。それに対し、ワンランク下の”大連”である物部氏は”記紀”が示す通り、”素戔嗚尊”、”大物主神”、大国主神”等の”国津神”の子孫である”先住系王族”で、飛鳥氏は自身のサイトの中では物部氏は秦の始皇帝の参謀で、日本へ亡命した徐福の末裔で、更に彼らが”邪馬台国”を作った可能性がある、と記しています。つまり、天皇家の”参謀格”である秦氏が、”旧王族”である物部氏の”上”に君臨していた、という事がそもそもの両者の”対立”につながり、更に、その”蘇我氏=秦氏”が異国の宗教であった仏教を布教しようとした事によって両者の対立は激化して、やがて”戦”へと発展した、と「日本書紀」は記しています。

しかし、この戦のあと、蘇我氏の勢力は拡大し、聖徳太子は斑鳩に隠棲するようになり、太子の”ブレーン”であった秦河勝を筆頭とした秦氏も歴史の表舞台から姿を消すことになります。この頃から蘇我氏は”悪人”として扱われるようになるのですが、これは一体何故なのだろうか? 実は、”蘇我氏”は秦氏以外にも別の氏族の”別姓”でもあったのではないでしょうか。もっと言ってしまえば、2つの対立する氏族を”蘇我氏”という括りで一つの”氏族”にしてしまったのではないでしょうか。かつて、ここのブログでの「聖徳太子の正体」という記事でも、聖徳太子に”厩戸皇子”と”蘇我蝦夷”という2つの”ペルソナ”が存在していた可能性を示唆しましたが、”蘇我氏”も本来は”架空の氏族”だったのではないでしょうか。おそらく、歴史の”闇”に消えた一族を具現化するために便宜上表記された氏族だったとしたらどうでしょう? まず、飛鳥氏は秦氏の”実体”は、天皇及び朝廷、更に神道を背後から動かしてきた”記紀”にも記されている”八咫烏”と呼ばれる集団で、その幹部である12人が”大烏”と呼ばれ、更にその頂点にいる3人が”金鵄”と呼ばれ、またの名を”裏天皇”とも言い、本当の意味での”天皇”はこの”金鵄”である、と著書に記していました。僕の読みでは、”秦河勝-聖徳太子-山背大兄王(=中臣鎌足?(こちらも以前に「聖徳太子の正体」という記事に記しています。))”は”金鵄=裏天皇”だったのではないか?と考えています。この事が、”女帝”とも関連してくるのではないでしょうか。要するに、歴史の”表”に出せない”金鵄”の代わりにその”皇后”である”女帝”を世に出したのではないでしょうか。

では、蘇我氏のもう一つの”正体”はいかなる氏族だったのだろうか? それを示唆する資料として「先代旧事本紀」が挙げられます。この古文書には物部氏と蘇我氏が同族であるような記述があるようで、記事前半でも書いたように、父の時代から対立しているはずの物部氏の娘を蘇我馬子が妻として娶っているのも、”和解のための政略結婚”にしては少々腑に落ちないんです。宗教的に対立していた状況で、一時的な”和睦”はあってもそこで簡単にも自分の娘を”妻”として差し出すだろうか? しかし、蘇我氏の”もう一つの正体”が物部氏であれば、辻褄が合うんです。つまり、”蘇我氏”という一族は、一方では”秦氏”と同族であり、もう一方では”物部氏”と同族である、という事です。これは”秦氏”も”物部氏”もともに”ユダヤ人”である可能性が高く、蘇我氏と物部氏の”宗教対立”の真相も、実は”旧ユダヤ教”と”原始キリスト教”の対立によるものであったのではないでしょうか。それ故に、蘇我馬子と聖徳太子が物部氏を滅ぼした後、蘇我馬子が政権を牛耳り、聖徳太子は飛鳥を追われるように斑鳩へ隠遁し、そして馬子の孫・入鹿の代になると、太子の遺児・山背大兄王を暗殺し、更に政権を欲しいままにすると、いう”悪党ぶり”を発揮するのですが、この際の”蘇我氏”の正体が”物部氏”だったとしたら、勢力を取り戻した物部氏が”蘇我氏=秦氏王族=金鵄”を飛鳥から追放して政権を牛耳り、しかし、”蘇我入鹿=物部守屋の孫”の頃に”八咫烏”の息のかかった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(後の藤原)鎌足によって討たれる事になりますが、入鹿による”山背大兄王暗殺”は、実は”乙巳の変”と同事件であると僕は睨んでいます。

これによって、もう一方の”蘇我氏=物部氏”も歴史の”背後”にまわり、天武天皇を蜂起させ、奈良時代に様々な”混乱”を巻き起こし、道鏡を使って孝徳天皇をたぶらかし、平安京に遷都されると、”武士”を台頭させ、やがて”幕府”というもう一つの政府の樹立を裏で動かし、江戸時代まで続く”武家政権の黒幕”となり、また、”明治維新”の際にも、各藩の”下級武士”を煽って”武力討幕”を行って、やがて”軍主体”の政府が出来上がり、太平洋戦争敗戦後も”官僚主体”の政府を裏で動かして、現在でも日本を裏から支配しているのではないでしょうか? 無論、ここにはもう一つの勢力”米国影の政府=シークレットガバメント”も当然関与していると思われるが。こういった意味でも、”蘇我”という言葉は、単なるイエスの”死と復活”を示しただけではなく、一度歴史の”裏側”にまわった者が、再び歴史の”表舞台”に現れる、という意味も含まれているのではないでしょうか。

まぁ、これが”真実”であるかどうかはさておき、次章では、その”物部氏”について検証していきたいと思います。

10.31.09:44

坂本龍馬暗殺の最新説②

前章にて、これまで提唱されてきた”龍馬暗殺”に関する多くの仮説と新たに加野厚志氏の提唱した”新説”について書きましたが、今度は僕の仮説を加えて検証してみたいと思います。

まず、加野氏の提唱した”長州藩士:神代直人犯行説”ですが、かなり信憑性はあると思います。でも、問題は誰がその犯行を指示したか?という事なんです。普通に考えれば、長州藩士の”主軸”である桂小五郎(後の木戸孝允)、井上聞多(後の馨)、伊藤俊輔(後の博文)、山縣狂介(後の有朋)辺りになりますが、まず、桂、井上、伊藤はいずれも龍馬には”恩義”を感じている人達ですので、そう簡単に”龍馬暗殺”に踏み切るとは思えないんです。一方、山縣は龍馬との接点はあまりなさそうですが、そもそも明治中期~後期辺りに頭角を現したこの人物を”龍馬暗殺の黒幕”として考えるには少々説得力に欠けるように思えます。もっとも、神代が単独で行った可能性もないとは思えませんが、このような鮮やかな”暗殺劇”を一介の剣士一人の判断で成功できるとはとても思えません。それを指示した”黒幕”がいると考える方が賢明でしょう。で、”神代”という苗字を見てふと思ったのですが、こんな珍しく意味深な苗字を見てごく普通の”氏族”と考える方が不自然で、何か”祭祀”にかかわる一族の末裔であるように思えて仕方がないんです。となると、そういった人々が神代のバックにいたのではないか?と疑いたくなってしまうんですよ。

そこで、前章で指摘したように、今一度”岩倉具視黒幕説”を洗いなおしたいと思います。まず、岩倉具視の”出自”について触れたいと思いますが、岩倉は”貧乏公卿”の堀川家に生まれ、その後やはり”下級公家”の岩倉家に養子に入っています。そこから、”和歌”や”学問”等を通じて孝明天皇の側近にまで上り詰めたと言われていますが、本当にそれだけで”下級公家”から”天皇の側近”にまでなれたのだろうか? やはり、岩倉の背後に”何かしら”の勢力が存在した可能性もあるのではないでしょうか。そして、岩倉を”パイプ役”として”王政復古”を実現した、とは考えられないだろうか。つまり、”真の黒幕”はあくまでも岩倉の背後にいた”何者か”であって、岩倉はあくまでも”パイプ役”に過ぎなかった、という事です。で、岩倉というとかねてから噂されていたのが”孝明天皇毒殺”ですが、これは妹:和宮の”将軍家降嫁”によってすっかり将軍家と仲良くなってしまった孝明天皇が邪魔になり、岩倉の妹にして孝明帝の侍女となっていた堀川掌侍に毒殺させたのではないか?とする説ですが、これに関しては、孝明帝が”王政復古”にあたって単に邪魔になったという事ではなく、どうやら”別の陰謀”があったようなのです。

では、”別の陰謀”というのはいったいなんだったのだろうか? 実は、孝明天皇の跡を継いだ明治天皇が、孝明帝の嫡子である睦仁親王ではなく全くの別人だったのではないか?という説があるんです。というのは、孝明帝の血筋は、南北朝時代に2つに分かれた王朝の内の”北朝”の血筋なのですが、”南朝”こそ正統である、という意見が古くからあり、その”南朝系天皇”の末裔で長州藩にかくまわれていた大室寅之祐という人物を睦仁親王とすり替えて明治天皇に仕立て上げたのではないか、という噂があるようです。関係者の”証言”によれば、睦仁親王は病弱で凡庸な人柄で、体格的にも小柄だったのに対し、明治天皇は健康で聡明な人柄で、体格も大きかったため、どう考えても”同一人物”だとは思えない、という事です。もし、この噂が”真実”だとしたら、その間に割って入って”大政奉還”を幕府に押し進め、そしてやがて”議会制民主主義”を夢見ていたと思われる坂本龍馬はまさに”目の上のこぶ”です。それによって、”黒幕”は”パイプ役”である岩倉に命じ、岩倉は龍馬と親しかった西郷ではなく、龍馬との親交が薄く岩倉と親しかった大久保利通と”龍馬暗殺計画”を企て、その”実行犯”を明治天皇(大室寅之祐)をかくまっていた長州藩に求めたのではないか。そして、その”実行犯”として抜擢されたのが、”苗字”が意味深な神代直人だった、という事ではないでしょうか。おそらく、この神代なる人物は、単なる長州藩の剣客ではなく、明治天皇(大室寅之祐)の”護衛役”だった可能性もあるのではないでしょうか。では、岩倉と神代の背後にいる”黒幕”とは一体何者なのだろうか。

”日本神話”において、天皇の祖先と思われる”天津神”とともに必ず登場するのが、”国津神”と呼ばれる”物部系の神々”と”天津神”を補佐した”秦氏”につながる人々なのです。要するに、”日本の国づくり”に関して、”天皇”と”物部氏”と”秦氏”は”セット”だった、と言っても過言ではありません。しかし、物部氏は587年、蘇我氏と聖徳太子連合軍との戦に敗れ、当主:守屋が討死し、残る一族が”行方不明”となった事で日本史の”表舞台”から消える事になります。それによって、これまで物部氏が牛耳っていた”祭祀”の一切を聖徳太子の”ブレーン”だった秦氏が一挙に担う事になります。これ以降、秦氏は社会の”裏側”にまわって天皇家及び朝廷を影で動かす存在になった、と”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏が多くの著書に書いています。とすれば”坂本龍馬暗殺”→”孝明天皇暗殺”→”睦仁親王←→大室寅之祐すり替え”の一連の”黒幕”は”秦氏中枢(飛鳥氏曰く”八咫烏”)”だった、という事になるのでしょうか? しかし、天皇家及び朝廷、ひいては日本を裏から動かしてきた人達がそう簡単に人を暗殺するだろうか? もっとも、だからこそそれもおあり得るのかもしれないが、”神の代弁者”的存在である天皇を補佐する”八咫烏”がそういとも簡単に手を汚すとも考えにくい。となれば、”秦氏中枢=八咫烏”以外にも日本を背後から動かしてきた”黒幕”が存在していたように思えてならないんです。で、気になるのが蘇我氏-聖徳太子連合軍に滅ぼされた物部氏が完全に死に絶えてなかった、という事です。

そして、その後の”山城大兄王暗殺”、”乙巳の変→大化の改新”、”壬申の乱”、”奈良遷都”、”道鏡事件”、”平安遷都”、”承平天慶の乱(平将門の乱、藤原純友の乱)”、”前九年・後三年の役”、”源平合戦”、”鎌倉幕府設立”、”承久の乱”、”鎌倉幕府滅亡→南北朝動乱→足利(室町)幕府設立”、”応仁の乱→戦国時代突入”、キリスト教と南蛮文化渡来”、”織田信長登場→室町幕府滅亡”、”本能寺の変”、”豊臣秀吉天下統一”、”関ヶ原の戦い→江戸幕府設立”、”キリシタン禁止令→鎖国・・・という具合に、どうも表向きに”一つの王朝”しかないように思えるのが、”裏側”では”2つの勢力”が互いに争っているようにしか思えないほど、動乱が絶えないのは事実です。しかし、”天皇万世一系”という体質だけは上辺上は全く変わっていないんです。おそらく、秦氏の他にもう一つ物部系の”黒幕”がいるように思えてならないんです。それを如実に表しているのが”武士”の存在で、武士は”もののふ”とも呼ばれますが、”もののふ”の語源が”もののべ”ではないか?という事はかねてから言われてきました。おそらく”武士”を背後で動かし、”幕府”を裏側で支えていたのは”物部系黒幕”だったように思えます。しかし、彼らは使えなくなった者は平気で切り捨て、本来”敵方”にいた者でも”味方”に引き入れるぐらいの芸当は出来るのではないでしょうか。となれば、”坂本龍馬暗殺”→”孝明天皇暗殺”→”睦仁親王←→大室寅之祐すり替え”の一連の”黒幕”が”物部氏”だった可能性は考えられるのではないでしょうか。

日本という国は、他の国と違って太古から続く”天皇万世一系”という体制をかたくなに守り、その中での”権力者”の入れ替わりはあっても”王朝”そのものは未だ持って変わらない不思議な国です。だからこそ、”黒幕”の存在は必要不可欠で、日本においてアレクサンダー大王、秦始皇帝、チンギス・ハーン、ナポレオン、アドルフ・ヒトラー、スターリン等といった”独裁者”は現れにくく、かの織田信長でさえ”日本統一”目前にして明智光秀の謀反により京・本能寺で討たれています。で、この”黒幕”の存在をほのめかす証拠が、間違いなく”古事記”、”日本書記”等の古代の歴史資料には存在しているはずなんです。それを匂わせる一族こそ、これまでその”実態”が中々掴みきれなかった”蘇我氏”だったのではないでしょうか。今度は、この蘇我氏について検証していきたいと思います。