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10.31.09:44

坂本龍馬暗殺の最新説②

前章にて、これまで提唱されてきた”龍馬暗殺”に関する多くの仮説と新たに加野厚志氏の提唱した”新説”について書きましたが、今度は僕の仮説を加えて検証してみたいと思います。

まず、加野氏の提唱した”長州藩士:神代直人犯行説”ですが、かなり信憑性はあると思います。でも、問題は誰がその犯行を指示したか?という事なんです。普通に考えれば、長州藩士の”主軸”である桂小五郎(後の木戸孝允)、井上聞多(後の馨)、伊藤俊輔(後の博文)、山縣狂介(後の有朋)辺りになりますが、まず、桂、井上、伊藤はいずれも龍馬には”恩義”を感じている人達ですので、そう簡単に”龍馬暗殺”に踏み切るとは思えないんです。一方、山縣は龍馬との接点はあまりなさそうですが、そもそも明治中期~後期辺りに頭角を現したこの人物を”龍馬暗殺の黒幕”として考えるには少々説得力に欠けるように思えます。もっとも、神代が単独で行った可能性もないとは思えませんが、このような鮮やかな”暗殺劇”を一介の剣士一人の判断で成功できるとはとても思えません。それを指示した”黒幕”がいると考える方が賢明でしょう。で、”神代”という苗字を見てふと思ったのですが、こんな珍しく意味深な苗字を見てごく普通の”氏族”と考える方が不自然で、何か”祭祀”にかかわる一族の末裔であるように思えて仕方がないんです。となると、そういった人々が神代のバックにいたのではないか?と疑いたくなってしまうんですよ。

そこで、前章で指摘したように、今一度”岩倉具視黒幕説”を洗いなおしたいと思います。まず、岩倉具視の”出自”について触れたいと思いますが、岩倉は”貧乏公卿”の堀川家に生まれ、その後やはり”下級公家”の岩倉家に養子に入っています。そこから、”和歌”や”学問”等を通じて孝明天皇の側近にまで上り詰めたと言われていますが、本当にそれだけで”下級公家”から”天皇の側近”にまでなれたのだろうか? やはり、岩倉の背後に”何かしら”の勢力が存在した可能性もあるのではないでしょうか。そして、岩倉を”パイプ役”として”王政復古”を実現した、とは考えられないだろうか。つまり、”真の黒幕”はあくまでも岩倉の背後にいた”何者か”であって、岩倉はあくまでも”パイプ役”に過ぎなかった、という事です。で、岩倉というとかねてから噂されていたのが”孝明天皇毒殺”ですが、これは妹:和宮の”将軍家降嫁”によってすっかり将軍家と仲良くなってしまった孝明天皇が邪魔になり、岩倉の妹にして孝明帝の侍女となっていた堀川掌侍に毒殺させたのではないか?とする説ですが、これに関しては、孝明帝が”王政復古”にあたって単に邪魔になったという事ではなく、どうやら”別の陰謀”があったようなのです。

では、”別の陰謀”というのはいったいなんだったのだろうか? 実は、孝明天皇の跡を継いだ明治天皇が、孝明帝の嫡子である睦仁親王ではなく全くの別人だったのではないか?という説があるんです。というのは、孝明帝の血筋は、南北朝時代に2つに分かれた王朝の内の”北朝”の血筋なのですが、”南朝”こそ正統である、という意見が古くからあり、その”南朝系天皇”の末裔で長州藩にかくまわれていた大室寅之祐という人物を睦仁親王とすり替えて明治天皇に仕立て上げたのではないか、という噂があるようです。関係者の”証言”によれば、睦仁親王は病弱で凡庸な人柄で、体格的にも小柄だったのに対し、明治天皇は健康で聡明な人柄で、体格も大きかったため、どう考えても”同一人物”だとは思えない、という事です。もし、この噂が”真実”だとしたら、その間に割って入って”大政奉還”を幕府に押し進め、そしてやがて”議会制民主主義”を夢見ていたと思われる坂本龍馬はまさに”目の上のこぶ”です。それによって、”黒幕”は”パイプ役”である岩倉に命じ、岩倉は龍馬と親しかった西郷ではなく、龍馬との親交が薄く岩倉と親しかった大久保利通と”龍馬暗殺計画”を企て、その”実行犯”を明治天皇(大室寅之祐)をかくまっていた長州藩に求めたのではないか。そして、その”実行犯”として抜擢されたのが、”苗字”が意味深な神代直人だった、という事ではないでしょうか。おそらく、この神代なる人物は、単なる長州藩の剣客ではなく、明治天皇(大室寅之祐)の”護衛役”だった可能性もあるのではないでしょうか。では、岩倉と神代の背後にいる”黒幕”とは一体何者なのだろうか。

”日本神話”において、天皇の祖先と思われる”天津神”とともに必ず登場するのが、”国津神”と呼ばれる”物部系の神々”と”天津神”を補佐した”秦氏”につながる人々なのです。要するに、”日本の国づくり”に関して、”天皇”と”物部氏”と”秦氏”は”セット”だった、と言っても過言ではありません。しかし、物部氏は587年、蘇我氏と聖徳太子連合軍との戦に敗れ、当主:守屋が討死し、残る一族が”行方不明”となった事で日本史の”表舞台”から消える事になります。それによって、これまで物部氏が牛耳っていた”祭祀”の一切を聖徳太子の”ブレーン”だった秦氏が一挙に担う事になります。これ以降、秦氏は社会の”裏側”にまわって天皇家及び朝廷を影で動かす存在になった、と”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏が多くの著書に書いています。とすれば”坂本龍馬暗殺”→”孝明天皇暗殺”→”睦仁親王←→大室寅之祐すり替え”の一連の”黒幕”は”秦氏中枢(飛鳥氏曰く”八咫烏”)”だった、という事になるのでしょうか? しかし、天皇家及び朝廷、ひいては日本を裏から動かしてきた人達がそう簡単に人を暗殺するだろうか? もっとも、だからこそそれもおあり得るのかもしれないが、”神の代弁者”的存在である天皇を補佐する”八咫烏”がそういとも簡単に手を汚すとも考えにくい。となれば、”秦氏中枢=八咫烏”以外にも日本を背後から動かしてきた”黒幕”が存在していたように思えてならないんです。で、気になるのが蘇我氏-聖徳太子連合軍に滅ぼされた物部氏が完全に死に絶えてなかった、という事です。

そして、その後の”山城大兄王暗殺”、”乙巳の変→大化の改新”、”壬申の乱”、”奈良遷都”、”道鏡事件”、”平安遷都”、”承平天慶の乱(平将門の乱、藤原純友の乱)”、”前九年・後三年の役”、”源平合戦”、”鎌倉幕府設立”、”承久の乱”、”鎌倉幕府滅亡→南北朝動乱→足利(室町)幕府設立”、”応仁の乱→戦国時代突入”、キリスト教と南蛮文化渡来”、”織田信長登場→室町幕府滅亡”、”本能寺の変”、”豊臣秀吉天下統一”、”関ヶ原の戦い→江戸幕府設立”、”キリシタン禁止令→鎖国・・・という具合に、どうも表向きに”一つの王朝”しかないように思えるのが、”裏側”では”2つの勢力”が互いに争っているようにしか思えないほど、動乱が絶えないのは事実です。しかし、”天皇万世一系”という体質だけは上辺上は全く変わっていないんです。おそらく、秦氏の他にもう一つ物部系の”黒幕”がいるように思えてならないんです。それを如実に表しているのが”武士”の存在で、武士は”もののふ”とも呼ばれますが、”もののふ”の語源が”もののべ”ではないか?という事はかねてから言われてきました。おそらく”武士”を背後で動かし、”幕府”を裏側で支えていたのは”物部系黒幕”だったように思えます。しかし、彼らは使えなくなった者は平気で切り捨て、本来”敵方”にいた者でも”味方”に引き入れるぐらいの芸当は出来るのではないでしょうか。となれば、”坂本龍馬暗殺”→”孝明天皇暗殺”→”睦仁親王←→大室寅之祐すり替え”の一連の”黒幕”が”物部氏”だった可能性は考えられるのではないでしょうか。

日本という国は、他の国と違って太古から続く”天皇万世一系”という体制をかたくなに守り、その中での”権力者”の入れ替わりはあっても”王朝”そのものは未だ持って変わらない不思議な国です。だからこそ、”黒幕”の存在は必要不可欠で、日本においてアレクサンダー大王、秦始皇帝、チンギス・ハーン、ナポレオン、アドルフ・ヒトラー、スターリン等といった”独裁者”は現れにくく、かの織田信長でさえ”日本統一”目前にして明智光秀の謀反により京・本能寺で討たれています。で、この”黒幕”の存在をほのめかす証拠が、間違いなく”古事記”、”日本書記”等の古代の歴史資料には存在しているはずなんです。それを匂わせる一族こそ、これまでその”実態”が中々掴みきれなかった”蘇我氏”だったのではないでしょうか。今度は、この蘇我氏について検証していきたいと思います。
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10.30.17:48

坂本龍馬暗殺の最新説①


かなり久しぶりに書き込みます(汗) 

現在、大河ドラマで「龍馬伝」が放送されている事から、空前の”龍馬ブーム”で賑わっているようですが(というか、ちょっと遅すぎるが(苦笑))、この間の日曜日に書店で買った「真説 坂本龍馬:加野厚志著」を読みました。この著書には、これまで扱われた事がなかった”最新説”が書かれてありました。で、この新説に触れる前に、既出の仮設をざっと紹介していきたいと思います。

①新撰組犯行説・・・龍馬が暗殺された場所は京の料亭「近江屋」ですが、京の警備を任されていた新撰組が、当時京で”お尋ね者”となっていた龍馬を暗殺した、という説。しかし、加野氏の見解では、京都守護職:松平容保の配下であった新撰組は、龍馬を正々堂々と捕縛、ないしは抵抗にあった際に返り討ちする事はあれど、正体を明かさずに”闇討ち”にしたとは考えにくく、新撰組局長:近藤勇が”龍馬暗殺”の嫌疑で尋問を受けた際にも、「坂本さんは若い時分の”剣友”であり(龍馬が千葉道場で修行していた際、近藤の属していた試衛館との交流試合を行っていたとの事)、”大政奉還”を行った事によって幕府を救った恩人です。」と言って無罪を主張しており、更に”証拠品”とされた原田左之助のものと思われる鞘もそれを現場で証言した元新撰組隊士:伊東甲子太郎のでっち上げであるとして否定。

②伊東甲子太郎一派犯行説・・・伊東は、龍馬が「近江屋」で暗殺される数日前から龍馬の元を頻繁に訪れており、龍馬が暗殺された後も何食わぬ顔をして現場に現れ、落ちていた鞘と龍馬死後2日間は存命だった龍馬の盟友:中岡慎太郎の証言した「こなくそ!」という西国方言から、新撰組の伊予出身者:原田左之助が犯人ではないか?と証言しており、その事が反対に伊東率いる”高台寺党”こそが真犯人であり、新撰組に罪をなすりつけた、とする説。しかし、加野氏の見解では、伊東は確かに新撰組を離れ、”勤王討幕派”に寝返ったが、だからと言って”龍馬暗殺”の動機は薄く、むしろ、新撰組の恐ろしさを知っている伊東が本気で新撰組を疑い、それに小細工を加えて新撰組が疑われるように仕向けたが、それによって伊東は3日後に新撰組に暗殺されたのではないか、としている(ちなみに、高台寺党の中には”西国出身者”は存在しないとの事)。

③紀州藩士復讐説・・・慶応3年4月19日、龍馬率いる海援隊は大洲藩から借りた運搬船:いろは丸に大量の品物を載せて長崎を出港したが、その途中紀州藩の蒸気船:明光丸と衝突。それによって、龍馬ら海援隊が紀州藩から多額の賠償金を支払わせた事から、その復讐によるもの、とする説。しかし、加野氏の見解では、元紀州藩士であった海援隊隊士:陸奥陽之助(後の宗光)の思い込みであり、この説を裏付ける証拠はほとんどないとしている。

④海援隊内部犯行説・・・隊長である龍馬ばかりが目立つ海援隊の中で、手柄を横取りしたいのでは、と思った人物がいたのではないか?とする説で、事実、維新後、海援隊の”参謀格”であった陸奥陽之助は宗光と名を改めて、後に”外務大臣”として”条約改正”に貢献するなどの活躍をしたことから、龍馬の元妻:お龍や龍馬と親しい人間がこの事を快く思っていなかった事から、”元海援隊士”が龍馬暗殺に一枚噛んでいたのでは?とする説。しかし、加野氏の見解では、”北辰一刀流免許皆伝”の達人である龍馬を簡単に斬り殺せるような剣の達人は海援隊には存在しない、として一蹴。

⑤土佐藩家老:後藤象二郎黒幕説・・・本来、”上士”である後藤と”下士”である龍馬は折り合いが悪く、しかも、龍馬の”幼馴染”であった武市半平太を死に追いやった張本人である後藤は仇敵であった事から、後に両者の利害関係が一致した事によって和解して龍馬が土佐藩に帰参し”海援隊”を結成するも、彼らを利用するだけ利用して、”大政奉還”が実現した時点でその手柄を横取りするために、用済みになった龍馬を暗殺した、とする説。しかし、加野氏の見解では、どうやらこれは龍馬ファンが”強面”の後藤を悪役に仕立てようとするために噂されるようになった説のようで、実際に”高慢”で”横柄”で”金銭感覚”の鈍かった性格ではあったものの、”大政奉還”を幕府に直接働きかけたのは後藤であり、”大政奉還”を成功させたのは後藤であると自負するのは当然である、としている。(付け加えると、後藤は”師”であり”叔父”である吉田東洋同様、”下士”に対しては比較的寛容で、事実、東洋と後藤の祖先は”関ヶ原の役”では”西軍方”であったため(後藤の祖先は真田幸村と共に”大坂の陣”で豊臣方”についた後藤又兵衛と言われている)、”上士”も”譜代上士”と”新参上士”の二派に分かれていたのではないか?と僕自身は考えております。)

⑥中岡慎太郎心中説・・・中岡は龍馬の唯一無二の”親友”として語り継がれてきたが、しかし、”懐柔派”の龍馬と違い、あくまでも”武力討幕派”の中岡とは思想が異なるため、武力討幕を目指す中岡が、死を覚悟で龍馬を殺害し、自らも命を絶った、とする説。しかし、加野氏の見解では、中岡が龍馬の正真正銘の”親友”であった事は、龍馬の元妻:お龍の証言からも明白であり、更に、龍馬暗殺当日、中岡が「近江屋」を訪れたのも”武力討幕”を実行するためではなく、新撰組につかまった同志の処遇について相談するためであった事が発覚しているので、この説を否定。

⑦陸援隊隊士犯行説・・・”陸援隊隊長”である中岡慎太郎が龍馬の”真の盟友”である事によって、”龍馬暗殺者”ではないとすれば、その部下達であればあり得るのでは?とする説で、事実、”刺客”達は「近江屋」を訪れた際、応対した龍馬の下僕に対して「十津川郷士ですが・・・」と名乗っているが、陸援隊には”十津川郷士”が数多くいた事からその可能性を指摘された説。しかし、加野氏の見解では、彼らが龍馬一人を殺すのならともかく、”隊長”である中岡を殺した時点で隊は存続不能になる上、そもそも”隊長”である中岡の指示なしにこのようなリスクを伴う事をするとは思えないため却下。

⑧岩倉具視黒幕説・・・”王政復古の大号令”を実行した公卿:岩倉具視には、かねてから”孝明天皇毒殺“の噂があり、しかも”王政復古”の前に”大政奉還”を成就させた龍馬が邪魔になり”暗殺”を企てた、とする説。しかし、加野氏の見解では、後藤象二郎と同じく”悪人相”である事から、”黒幕”と決めつけられただけであり、岩倉に龍馬を殺す決定的な”動機”は見当たらず、それどころか、龍馬とは”志”がほぼ一緒であり(”勤王思想”と”海外遠征”等)、龍馬と中岡の死をたいそう惜しんだと言われているため、否定。(ただし、僕の考えでは”有力説”ですので、この件に関しては次章で触れる事にします。)

⑨西郷隆盛黒幕説・・・一般的に”人柄のいい大人物”と評されているものの、”写真”が一枚も見当たらないところから、その”実像”が定かではない薩摩の英傑:西郷隆盛が怪しい、とする説で、事実”武力討幕”を目指した西郷ら”薩摩藩士”の思惑を尻目に”大政奉還”を成就させてしまった龍馬が邪魔になり暗殺した、とする近年最も”有力視”される説。しかし、加野氏の見解では、龍馬曰く「小さくたたけば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」という通り、決して”暗殺”等の姑息な事をするとは思えない正々堂々とした”豪傑”で、事実、”安政の大獄”が行われた頃に、薩摩びいきの攘夷派の僧:月照と共に”逃亡”を計った際にも、月照を殺して一人逃げたのではなく、一緒に”心中”しようとしていたし、”西南戦争”の際にも、”不平士族”に同情する形で戦に加わり、そして最後は”自刃”しており、更に龍馬が伏見の船宿「寺田屋」で襲撃された際にも、龍馬を保護したのは西郷だった、という事から”討幕実行”のために卑劣にも龍馬を”暗殺”したとは考えにくい、という事で否定。

⑩京都見回り組犯行説・・・”龍馬暗殺”に関してかなり古い時期から”最有力説”として浸透していたのがこの説で、これは龍馬の名を一躍有名にしたかの司馬遼太郎著「龍馬がゆく」の中で司馬氏が著書の中で書かれたものであり(勿論”フィクション”だが)、それが元で幅広く定着してしまった説。しかし、加野氏の見解では、そもそも”京都見回り組”とは旗本の次男ないし三男によって構成された”お坊ちゃま集団”であり、実際彼らが行っていたのは京の街の巡回や警備ぐらいで、実際、”勤王討幕派”の志士の捕獲及び殺害を行っていたのは”新撰組”の方であり、”見回り組”の”隊長”で”龍馬暗殺の主格”と考えられてきた佐々木只三郎は、かなり遅れて”見回り組”に加入したために”動機”も薄く、明治になって自首した元見回り組隊士:今井信朗や渡辺篤の証言も暗殺時に現場に訪れた土佐藩士:谷干城の証言とは大きく矛盾している事から否定。

これらが、加野氏の著書に書かれていた”定説”と加野氏の”検証の結果”ですが、これに加えて、他にも”有力説”としては”龍馬寺田屋襲撃事件”を指揮した”京都守護職:松平容保黒幕説”や、龍馬との親交が深く情に厚い西郷ではなく龍馬との親交が薄く理知的な薩摩の大久保一蔵(後の利通)が親交の深い公卿:岩倉具視と共謀した”岩倉・大久保共謀説”、それから龍馬と親交が深かった”イギリス武器商人:グラバー黒幕説”等もあります。そして、加野氏の提唱する”新説”は以下の通りになります。

(新説)長州藩士:神代直人犯行説・・・神代直人という人物はあまり有名ではないが、長州出身で”兵部省長官”となった大村益次郎を暗殺した実行犯であり、その手口が”龍馬暗殺”と酷似している事から加野氏が新たに提唱した説。当時、長州藩士は”朝敵”だったため京に入る事は困難ではあったが、しかし”不可能”だった訳ではなく、事実、山縣狂介(後の有朋)率いる”御盾隊”は京に陣を構えていたし、龍馬暗殺後、長州藩の事実上の”リーダー”桂小五郎(この時改名して木戸貫二、維新後孝允)が翌日京に訪れている。桂は西郷と違い”逃げの小五郎”と呼ばれていたように、長州藩士が事を起こして失敗する度に部下を見捨てて逃亡を繰り返していた事から、他人には非情で、それ故”恩人”である龍馬さえも自分の”目的”のためには”暗殺”も辞さなかった可能性もあると言う。しかし、あの”奇兵隊”を結成した長州の異端児:高杉晋作さえ恐れた神代直人を桂が”暗殺犯”として雇うには少々無理があり、桂にそこまでの決断力があったとは思えないとも言う。いずれにしても、”何者か”が神代に”龍馬暗殺”を指示した可能性は高く、その”物証”として、彼が恩のある商人宛に送った手紙にこれから何かを実行する事をほのめかした文が書かれており、しかも、その日付が奇しくも龍馬が暗殺された”11月15日”であった事から、この手紙を”重要資料”として加野氏は考えている。

という訳で、上記の”定説”と”見解”、そして”新説”はどれも的を射ているように思えます。しかし、⑧の”岩倉具視黒幕説”に対する加野氏の見解に関してだけは”異論”があります。というのも、加野氏は、龍馬の事を”勤王の志士”と著書の中では何度も書いていましたが、僕は龍馬が純然たる”勤王の志士”だとは思えないんです。龍馬が”勤王思想”を持っていたのは、地元:土佐で幼馴染の武市半平太や岡田以蔵らとつるんでいた頃の話であり、その後、河田小龍、勝麟太郎(後の海舟)、ジョン万次郎、横井小楠、グラバー等から海外の文化、経済、政治の話を聞いた事によって龍馬の考えも次第に変化していき、最終的にはアメリカのような”議会制民主主義”を目標にした可能性が高いと思われます。その”突破口”として、龍馬が航海中に考案した「船中八策」の中では、まずは”天皇”を頂点に”将軍”を主軸とした”諸藩”との”合議制”を取る体制にし、そこから次第に”民主政治”に移行するという考えがあったように思われます。しかし、”洞察力”の鋭い岩倉は、龍馬が真の”勤王論者”ではなく、”議会制民主主義=大統領制”に着目している事を見抜き、それによって”天皇制廃止”につながる事を恐れて”龍馬暗殺”を企てた可能性は十分あり得ると思います。となれば、これは岩倉一人の考えではなく、天皇を含めた”朝廷関係者”全ての思いであり、更には朝廷を背後で動かす”影の存在”までそうした考えを持っていたとしたら、彼らのいずれかが”黒幕”という事になります。この部分について、次章では検証していきたいと思います。

08.08.13:59

妖怪・幻獣の正体⑥ -鳳凰-

日本の古い著名建築物”宇治平等院鳳凰堂”、”鹿苑寺金閣”、それから新1万円札にも描かれている、中国の伝説上の霊鳥・鳳凰。その姿は、”鶏”のような頭、”鷹”のような嘴、”孔雀”のような翼と尾羽を持った、所謂”キメラ生物”とされるものでしょうが、おそらく、こうした姿になっていったのはある程度年代が下ってからであって、最終的にデフォルメされて完成された姿が現在見かける鳳凰像になったと思われます。となれば、おそらくは、鳳凰にもその”ルーツ”となる生物が存在したのではないでしょうか?

現在、言われているのが、現時点でのその姿から想像すれば、鶏(特にその原種である野鶏)、孔雀、雉、それからゴクラクチョウやケツァールもそのモデルではないか?と言われています。しかし、これらは最終的に当時の中国人によって付加された姿であり、”河童=グレイ”のように元々は全く違う姿をしていた可能性もあります。そして、”幻鳥”とされるからには、今となっては滅多に見られない、若しくは既に絶滅しているとされる鳥の可能性が出てきます。

となると、一つ思い当たる鳥が浮かび上がります。それは、”太古の鳥”始祖鳥に他なりません。体の大きさも比較的大きく、嘴の形状は翼竜のように長く突き出ししかも歯が生えていますので現在の鳳凰像とは異なりますが、問題なのは”翼”と”尾羽”です。比較的大きく、特に”尾羽”に至っては形状が良く似ているんです。始祖鳥は、現在の鳥のように短い尾の先端から扇状に尾羽が広がっているのではなく、長い尾の両脇から尾羽が生えているんです。鳳凰の尾羽も像を見る限りそれに近いような気がします。

ただ、引っかかるのは鳳凰が優雅に空を飛ぶイメージがあるのに対して、当初”モデル”と思われてきた鶏も雉も孔雀もそれ程空を飛ぶ事が得意ではなく、実は始祖鳥も空を飛ぶのがそれ程得意ではなかったようです。にもかかわらず、鳳凰が大空を舞うイメージがあるのも”幻鳥”として風格を表現するためなのでしょう。



鳳凰

08.08.13:41

妖怪・幻獣の正体⑤ -ペガサス-

ギリシア神話において、鳥のような翼を持った天馬・ペガサスが登場します。通常、このような生物は”実在性”に欠け、”架空の生物”と考える方が妥当かと思われます。

しかし、飛鳥昭雄・三上たける著の「プラズマUMAの謎とチュパカブラ」の中で、アメリカ・ジャージー州で目撃された”ジャージー・デビル”と呼ばれる翼竜の一種の写真が掲載されていました。その”正体”はアンハングエラという翼竜の生き残りで、顔が馬のように面長で、しかも頭頂部から背中にかけて馬のような”たてがみ”が生えていました。となれば、ペガサスの正体もこの”ジャージー・デビル”のような”馬面の翼竜”だった可能性が出てきます。

ただ、そうなると大きな”矛盾点”に気付くでしょう。それは”ペガサス”が”聖獣”であるのに対して、”ジャージー・デビル”は”悪魔の子”と呼ばれていました。更に、ヨーロッパにおける”ドラゴン”のルーツはその形状からして”翼竜”と考えられ、やはり”悪魔の化身”とされてきました。ただ、洋の東西で”龍(竜)”の扱いが異なり、東洋の”龍”は”神の化身”とされてます。となれば、同じ”翼竜”でも”善玉”と”悪玉”がいた可能性があるのではないでしょうか。となれば、”善玉”の方を敬意を表して”ドラゴン”ではなく”天馬”として聖別された可能性はあるでしょう。

で、一つ思ったのが下の写真の像を見ると、”翼”が背中の上ではなく脚の付け根に生えている事も”翼竜”であった事を物語っているのではないでしょうか。



ペガサス

07.04.13:13

妖怪・幻獣の正体④ -ユニコーン-

西洋の”聖獣”の一つに”一角獣・ユニコーン”の伝説があります。容姿は”馬”で、額の部分に1本の”角”の生えた伝説上の動物です。しかし、龍の例を出すまでも無く、この手の”幻獣”のモデルが”実在の生物”だった可能性は当然考えられます。

まぁ、一番妥当な所から探れば、”サイ”が当てはまるでしょう。特に古代のサイ”エラスモテリウム”がユニコーンの”正体”ではないか?という説がかねてからあったようです。しかし、馬とサイでは正直似ても似つかない容姿をしているのも事実です。されど、馬とサイはどちらも”奇蹄目”に属する哺乳類です。であれば、かつてその”中間型”の容姿を持つ生物が存在した可能性も考えられるのではないでしょうか?

現時点でそのような生物の”化石”は発見されていませんが、”龍”と思わしき化石が中国で発見されている事を考えれば、いずれ馬とサイの”中間型生物”の化石が発見される可能性もあるでしょう。いずれにせよ、ユニコーンには間違いなくその”モデル”は存在していたと僕は思います。

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ユニコーン

06.20.13:26

妖怪・幻獣の正体③ -いったんもめんとぬりかべ-


”ぬらりひょうん”同様、妖怪漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪の中には”UMA”と思わしき妖怪が結構存在すると思われます。その中で気になるのが”いったんもめん”と”ぬりかべ”です。

この2つの妖怪は、常に主人公・鬼太郎の”助っ人”として2人1組の”セット”として登場し、まるで”名タッグコンビ”のような連携でいつも鬼太郎を助けています。もしこれらの妖怪が実在の”UMA”だとしたら、実は彼らも元は”同じ妖怪”なのではないか?と考えているんです。

まず、”いったんもめん”についてですが、飛鳥昭雄氏の最新著書である「NPAシリーズ第39弾 プラズマUMAの謎とチュパカブラ」の中で取り上げられている”スペース・クリッター(単にクリッターともいう)”、”スペース・キャタピラー”、”宇宙クラゲ”、宇宙ホタル”、そして”スカイフィッシュ”等の”プラズマ生物”こそ”妖怪・いったんもめん”の正体ではないか?と僕は睨んでいるんです。その”理由”は言うまでも無く色が白く空中をフワフワと漂っている特徴からです。中でも”スペース・クリッター”には特定した形が無く、それが薄っぺらい布状に白く光って空中を浮遊していればそれはまさに”いったんもめん”そのものなんです。

しかし、”プラズマUMA”の中には空中を浮遊するものだけでなく、地球内部に侵入するものもいるはず。そして、地中に存在する”金属”や”岩石”等の様々な鉱物を体内に付着ないし吸収して地上に現れれば、そこに突如”壁”が現れたようになるはずです。これこそ、まさに”妖怪・ぬりかべ”の正体ではないでしょうか。

ちなみに、その他の登場人物(というか妖怪)である”ネコ娘”、”ネズミ男”、”砂かけ婆婆”、”小泣き爺爺”等はあくまでも”創作上”の妖怪だと思いますが・・・。

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いったんもめん




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ぬりかべ

06.12.14:13

妖怪・幻獣の正体② -ぬらりひょん-

”妖怪漫画”の代表格である水木しげる作の「ゲゲゲの鬼太郎」の中で、主人公・鬼太郎の”敵役”として登場するのが”妖怪・ぬらりひょん”です。突然、何処からともなく人家に入り込み、何事も無くまるでその家の”住人”であるかのように振舞う妖怪で、”容姿”的には”坊主頭”の老人で、頭部が異様に大きく描かれています。
しかし、僕がふと思ったのは、ぬらりひょんのこのような”特徴”が、ある別の”妖怪”と”同一生物”ではないか?という事なのです。その”妖怪”とは・・・?

しかし、現在その”妖怪”は”実際の姿”とはかなり違う形で言い伝えられており、特徴は”頭の皿”、”クチバシ”、”背中の甲羅・・・、そうです、この”妖怪”とはズバリ”河童”の事だったんです! 実は、飛鳥昭雄氏によれば、河童が現在上記のように伝えられているのは”江戸時代”の多くの民話の中で脚色されたのが原因のようで、それより古い時代になればなるほど、今度は我々が”宇宙人”と思い込まされていた生物とよく似た姿になっているとの事です。その生物、というのが、アメリカを陰で操る”影の政府(シークレットガバメント)”によって”宇宙人・グレイ”としてでっち上げられた”地球産未確認人型両生類”であり、それこそ”妖怪・河童”の真の姿だ、と飛鳥氏はこれまでの多くの著書の中で書かれてきました。

で、この”リアル河童”の容姿は、”宇宙人グレイ”同様、華奢で小さな体の割りに頭部が異様に大きく、目が大きくアーモンド形につりあがっており、肌の色は”灰色”や”緑色”、まれに”赤色”とも言われています。そして、何といっても彼らは巨大な頭部に収まっている巨大な脳から強烈な”電磁波”を発生させる事が出来るらしく、それによって”プラズマ”を形成させる事が可能のようです。事実、これまで日本以外でも多くの国で数多くの目撃例があり、その中で”光”ないし”火”が近くで目撃されたケースが多いようです。また、この生物は、九州のある人家に密室状態であるにも関わらず侵入した形跡を残し、そこで異臭のある粘着質の足跡を残したそうです。何故、このような事が出来たのかと言うと、壁に”プラズマトンネル”を発生させ、自らも”低温プラズマ”に覆われれば壁を透過する事が可能だと飛鳥氏は著書に書いています。

話を”ぬらりひょん”に戻すと、このぬらりひょんの大きな特徴が”大きな頭”であり、そして気付いたらいつの間にか人家に上がっている、という点です。この特徴こそ上記の”リアル河童”の特徴とほぼ一致するんです。という事は、すなわち”ぬらりひょん=宇宙人グレイ=河童”という事になってしまうんです! 実は、この例と同じように、本来”別々の妖怪”とされてきたものが実は”同じ生物”である可能性は十分考えられる、という事ではないでしょうか。

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ぬらりひょん
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