11.26.08:30
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01.15.23:01
80年代後半、レベッカ、尾崎豊、BOΦWY、TMネットワーク、渡辺美里、バービーボーイズ、プリンセス・プリンセス等の”実力派ポップ/ロックアーティスト”が台頭し、衰退しつつあった”アイドル歌手”に取って代わろうとしていました(事実、彼らが後の”J-POP”につながる訳だが)。こういった”流れ”に「待った!」をかけるが如く登場したのがブルーハーツだったと思います。当初は爆風スランプの”パクリ?”みたいな事も言われてましたけど、あれよあれよという内に多くの若者の間に浸透し、やがてジュンスカイウォーカーズら”類似系バンド”も台頭して”ビートパンクブーム”が起こり、そしてTBS系の深夜番組「イカすバンド天国」に出場した”イカ天バンド”も含めた”バンドブーム”が起こります。その中で、ブルーハーツがBOΦWYに代わる”新たなヒーロー”となりました。しかし、BOΦWYの次が何故ブルーハーツなの?という疑問が当然ながら起こったはず。でも、BOΦWYの変に格好をつけた部分を嫌う人達もいたため、飾り気のないブルーハーツを何のためらいも無く受け入れた人が多かったのでしょう。それと、彼らが受け入れられた”理由”としては、歌詞に共感を覚えた上なじみやすい事、演奏を真似しやすい事、それと、彼らの”根本理念”が”善”である事でしょう。通常の”ロック”は、基本的には”悪”だと思いますからね。特に、同じ”パンク”が付いてもSEX PISTOLSやCLASHのような”オリジナルパンク”の”根本理念”はやはり”悪”だと思います。あからさまな”社会批判”を唱えた事で多くの国民を先導する事になり、場合によってはそれが”暴動”などにつながり、更に”王室批判”までやってのけた訳ですからね。それに対して、ブルーハーツの場合はその”真逆”なんですよね。”パンク”のようで最終的には”平和主義”を歌ってますから。そういった意味で、彼らの曲には”ゲルマン的資質”は殆ど”無”に等しいと思います。それが、多くの日本人に受け入れられるのかもしれません。 また、彼らの曲は”童謡”にも通じる部分がありますが、ここが実は”重要”なのだと思います。彼らがデビューする大分以前に、「欽ちゃんのどこまでやるの(欽どこ)」という番組で、萩本欽一の三つ子の娘役になっていた”わらべ”のデビュー曲「めだかの兄弟」が”大ヒット”しましたが、あれははっきり言って”童謡”そのものだったのです。おそらく、ブルーハーツのメンバーは当時それを見ていて「こんなのでもいけるんだ!」という事にもしかすると気付いたのかもしれません。それと、”童謡”自体どうも”秦氏”が関わってるような気がしてならないのです(詳細はここでは書かないが、どうやらそれを匂わす歌が童謡には数多くあるようです)。 しかし、ではブルーハーツがそのまま日本の”ロックシーン”の”頂点”にすんなり立てたか?というと実はそうでもなかったと思います。”バンドブーム”がある程度安定すると、それに対してモッズ辺りの”本格派ロック”も台頭し、これらの”バンドブーム”に異を唱えていた”ロックファン”の多くはこれらのバンドへ流れていった事は間違いないと思います。しかし、もし”バンドブーム”に”黒幕”がいたとすれば、”バンドブーム”ごと”本格派ロック”を封印する事を考えたに違いないと思います。そして、このシーンの”アンカー”として登場したのがX(後のX-JAPAN)です。彼らがやがてブルーハーツに代わって”日本のロックのカリスマ”となっていき、それによってやがて”バンドブーム”は終焉し、Xの影響を受けた派手な衣装に身をまとったバンド達が後に”ビジュアルバンド”となり、それが確立すると気が付いたら”ビートパンク”も”イカ天バンド”も”本格派ロックバンド”もどこかへ消えてしまいましたからね。しかし、この”ビジュアルシーン”もいつしか”マンネリ化”し、そしてその”元祖”であったX-JAPANがヴォーカルのTOSHIがいかがわしい宗教にとり憑かれるようになったために”解散”してしまいます。それによって、”ビジュアルシーン”も衰退し、それを切り崩すかのように登場したのがゆずや19といった”ストリート系フォークデュオ”だったんです。彼らも”バンドブーム”のバンドの多くと同じように”ストリート上がり”であり、しかもゆずの”プロデューサー”が元ジュンスカの寺岡呼人だった事から、彼らの存在が再びブルーハーツを蘇らせるきっかけになった事は間違いないでしょう。そして、”ビートパンク”を焼き直した”青春パンクシーン”も起こりましたが、それは結局”失敗”に終わった感がしますが、その中で、気が付いたらブルーハーツの曲が”CM”で多数使われるようになり、更に”映画”や”舞台”になるなど、もはや”日本ロック界における神”のようになってしまいました。しかし、それもなんか”ワザとらしさ”も感じるんですよ。無理やりブルーハーツを人々に”洗脳”させるかのような”意図”を感じるんです。 そういった意味でも、やはり彼らが”日本のロックの代表”になるような”器”だとは到底思えません。でも、彼らがこのようなポジションにつく事ができたのは何故なのか? やはり、その背後に”黒幕”がいるような気がしてならないんです。そこで、気付いたのがブルーハーツの”中心人物”の1人である甲本ヒロトは”岡山県出身”ですが、岡山県はかつて”吉備国”と呼ばれており、古代には”王国”があったようです。数多くの”古墳”や”遺跡”が発見され、”吉備津神社(桃太郎の”ルーツ”とされる吉備津彦が主神)”や”備中総社宮”等の由緒正しい”神社”も存在します(実際、僕はこれらを自転車で廻っています)。そして、吉備氏という”古代豪族”もいました。これらにはいずれも”秦氏”が関与している事は間違いないでしょう。更には、吉備には”賀茂氏”系の秦氏の”祭祀氏族”も多くいたようで、彼らは秦氏の”中枢”である”八咫烏 ”と深いかかわりがあるようです。ちょっと強引かもしれませんが、このような”背景”を考えれば、ブルーハーツと秦氏はつながるような気がするんですよ。ちなみに、”桃太郎”も実は”天皇家”の渡来を”物語化”してものであり、この物語を作ったのはおそらく”秦氏”でしょう。 まぁ、これらの”仮説”はあくまでも僕が独断と偏見で思いついた説ですから、正直当てなんてないです(笑) でも、もし本当にブルーハーツの背後に秦氏(もっと言ってしまえば八咫烏)が関与していたとしたら、”ロック通”と言われる人や、更には実際”バンド(本格的なロック)”をやっている人、それから”業界関係者”がブルーハーツを一目置いている”真意”も見えてきます。ただ、そうだとすると、秦氏(八咫烏)はブルーハーツを日本の”ロックシーン”の”頂点”に立たせる事が本意だったのだろうか? 何故なら、現時点での日本の”音楽シーン”を事実上占拠しているのは”ヒップホップ”であり、元ブルーハーツの何人かで構成されたハイロウズ、それからクロマニヨンズがそれほど売れてるとは思えないからです。それに今更”旬”とも思えないですし。どうも、彼らは本当はX-JAPANのままで良かったのではないか?とも思えるんです。しかし、X-JAPANは”日本のロックの神”になりつつあった所でやむない”解散”を強いられ、更にそこから”ソロデビュー”し新たな”カリスマ”になりつつあったHIDEも”謎の死”を遂げています。そして、いつしか彼らは”伝説”の座から大きく転げ落ちる事になります。どうも、このバンドは”リーダー”YOSHIKIの”絶対君主制”によって成り立っていたようですから、その”バチ”が当たった、という所でしょうか。それにしても”ヴォーカル”TOSHIがいかがわしい宗教に加入した事と、”ソロデビュー”して新たな”カリスマ”となった”ギター”のHIDEの”謎の死”は気になります。その背後には”何者か”が関わっていたのだろうか? PR
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01.14.21:36
現在の若者にとって、「日本ロックの”神”的な存在は誰?」聞いたら、十中八九迷わずこう答えるでしょう。「ブルーハーツ!」と。しかし、僕が考える”ロック”のイメージに、正直彼らは該当しないのです。にもかかわらず、現時点でブルーハーツはもはや”日本ロック界”における”神”のような位置に君臨している感じです。更に、本格的な”ロック通”でも何故かブルーハーツは一目置いている感が見受けられます。これは何故なのか? 確かに、彼らの曲には若者達の心を直撃した”メッセージ”があったかもしれません。しかし、見方を変えれば若者に媚を売っているようにも思えるんです。更に、彼らは決して”カッコいい”とは思えないし、音楽的にも”童謡”に毛が生えたような”ヘンテコリン”な感じです。見方によっては”ポップ”と言われて嫌悪されているロック以上に”ポップ”に思えるのにもかかわらず、彼らは今やロックの”神”であり”伝説”にもなっている。そして、彼らを悪く言う人が殆どおりません。しかし、このように「何で?」と思えるようなものが多くの日本人に親しまれ、それらがさも”当たり前”となっているものの多くは、往々にしてその裏に”とてつもない存在によるカラクリ”があるように思えてならないのです。おそらく、ブルーハーツの背後にはとてつもない”仕掛け人”の存在がいるはずです。そこら辺を検証する前に、まずは日本における”ロック史”をざっと書いてみたいと思います。 日本における”ロック”の誕生は、1957年の”ロカビリーブーム”から始まっていると言われています。平尾昌晃やミッキー・カーチス辺りがその”代表格”ですが、日本においてはそれはあくまでも”ロカビリー”であり、”ロック”というものとは少し切り離された感がありますし、それに失礼ながらちょっと古すぎます(汗) その次の起こったブームが60年代半ばに起こったブルーコメッツ、タイガーズ、スパイダース等の”グループサウンズ”です。しかし、これも”アイドル的”な感が強く、”ロック”のイメージとは少し違うものだったと思います。そして、70年代に入り、矢沢永吉率いる”キャロル”や宇崎竜童率いる”ダウン・タウン・ブギウギバンド”がデビューした辺りから日本における”ロックのスタイル”が形付けられたといっても過言ではないでしょう。時を前後して、その裏では海外のロック(ハードロック、プログレ、グラムロック等)の影響を受けたバンドも多数排出され、この時期こそ日本において本格的に”ロック”が始動したといっていいと思います。その後、日本においては”ロック=不良”というイメージがこびりつき、それによって”偏見”も多かった事は確かでしょう。されど、そういった”硬派な姿勢”こそ”ロック”であり、これはある意味”武士道”にも通じるものがあると思います。そして、彼らは常に”メジャー音楽(アイドル・演歌等の”歌謡曲”やその後台頭する”ニューミュージック”)に”対抗意識”を持ち、そういったものを下から突く、というのが彼らの”生き様”でもあったと思います。 本来”ロック”というものは”白人(特にゲルマン系アングロサクソン民族)”によって作られたものです。ですから、ロックにはそういった人達の”骨太さ”や”激しさ”を感じるんです。日本人の中にも、そういった”民族性”に通じる人達がかつて存在しました。それは”武士”なんです。”武士”は”もののふ”とも言いますが、その語源はどうやら物部氏にあるようです。物部氏は確かに”軍事集団”でした。つまり、”武士”のルーツは物部氏という事になります。物部氏は現在の”天皇家”が日本にやってくる以前の”原天皇家”であった、と天橋立の先にある”元伊勢”と言われる”籠神社(このじんじゃ)”の宮司が証言している事が飛鳥昭雄氏の著書「-失われたイスラエル10支族-神武天皇の謎」にも書かれています。そして、彼らが”軍事集団”だった事から、おそらく”騎馬民族スキタイ”によってアッシリアから開放され、彼らと融合した”北朝系イスラエル10支族”の血を引いていると見ていいでしょう。中でも”スキタイ”の血を強く受け継ぐ一族が”物部氏”になっていったのではないでしょうか。そして、スキタイは”アーリア人”のルーツと言われ、”ゲルマン人”はアーリア人から別れた民族だと言われています。つまり、”武士”には”ゲルマン的資質”に近いものが元々あるのではないでしょうか。つまり、”ロック魂”は”サムライ魂”に通じるものがある、という事になるでしょう。 しかし、それが故に、それを危惧する人達が日本には存在する事も確かでしょう。何故なら、そういった概念が”体制批判”につながる危険性があるからです。現に、70年代後半にイギリスで起こった”パンクムーブメント”は”下層労働者階級”に多大な影響を与え、多くのイギリス国民が”反体制”を唱え、中には”暴動”まで起こるぐらいになる程の”社会現象”になりました。そして、日本ではどうか? さすがに”国家”を揺るがす程の”騒動”にはなりませんでしたが、横浜銀蝿が登場した辺りから”ツッパリブーム”みたいなものが起こり、それが単に”流行りもの”の程度で済めば良かったのですが、大人達のそういったものに対する”偏見の姿勢”が当時の中高生達を本格的に”非行”に走らせるようになり、やがて”校内暴力”や”学校破壊”が深刻化します。そして、そういった”不良少年”のより所がやはり”ロック”だった、という事です。さらに、九州の”メンタイロックブーム”から出てきたモッズやARB辺りのバンドの曲も”強いメッセージ性があったため、それらに拍車をかける事になったのは確かでしょうし、更に言えばそういった”思想”が当時はまだ活発だった”過激派”等を煽る危険性もあったと思います。そして、アメリカにおいては、”ヘビーメタル系”のロックがアメリカの少年達に”殺人”や”自殺”を引き起こす元凶とみなされ、「PMRC」という”歌詞検閲機関”まで設立されてしまいます。 こういった状況を、おそらく政府や警察は当然ながら問題視したでしょうし、やがてこういった”芽”は次第に摘まれる事になっていきました。でも、それでもこういった問題は忘れた頃に復活するもんです。そこで、こういった状況を完全に封印すべく”ある人達”が動いたと思われます。その為に彼らが最初にやった事は”ロックの封印”だったのではないでしょうか。でも、”不良少年”の”芽”が次第に詰まれるにしたがって”ロック”もやがて”ポップ化”し、レベッカ、尾崎豊、BOΦWY、TMネットワーク、渡辺美里、バービーボーイズ、プリンセス・プリンセス等が登場し、当時衰退しつつあった”アイドル歌手”に取って代わろうとしていました。でも、それが従来の”ロックファン”をかえって刺激した事も確かでしょう。そういった勢力の巻き返しを防ぐために、そういったものとは全くタイプの違うバンドを”ある人達”は排出したのではないでしょうか。それが、”ブルーハーツ”だと考えています。そして、すぐにもその”類似系バンド”も多数登場し”ビートパンク”と呼ばれて気が付いたら多くの若者を”虜”にしていました。これはある意味”ロック”というものの”すり替え作業”をしたといっても過言ではないと思います。明らかに”音楽性”も低いし、”オチャラケ”のようにも思えるし、”軟弱さ”も感じるのに”メッセージ性”はちゃんとある。これらが多くの若者を”虜”にした要因は、それまで”ロック”を聴きたくても”不良”のイメージでくくられる事を恐れて聴く事が出来なかった人達が堂々とロックを聴く事が出来た、という事と、ブルーハーツのような”単調な曲”が日本人の”潜在意識”を刺激したのでしょう。その”潜在意識”とは・・・、それは多くの日本人に流れる”先住民の気質”であり、”被支配者層”の気質以外の何物でもないと思います。つまり、”武士”に対する”被支配者層(農民、山の民、えた・ひにん等)”の魂がブルーハーツら”ビートパンク”や、TBS系のバンドオーディション番組「イカすバンド天国(イカ天)」から排出されたバンド達にはあった、という事ではないでしょうか。そして、”ある人達”というのは、”日本”そして”天皇家”を陰で動かしていたとされる”秦氏”ではないかと考えています。 こうして、やがてブルーハーツが日本の”ロックシーン”の”頂点”に立ち、やがて失墜し、再び浮上していくのですけど、そこら辺の経緯を次章では書きたいと思います。 |
01.08.19:54
話を元に戻すと、”聖徳太子”は現在”実在性”が疑問視されています。しかし、何の理由も無く「日本書紀」の”歴史時代”の部分に”架空の人物”を設けるとは思えないし、聖徳太子が書いたとされる「未然記」と「未来記」という”預言書”まで発見されています。そして、そこには”記紀”には記されていない太子と中臣鎌足の”意外な関係”についても書かれています。そして、太子はイエス・キリストにも似た”聖人”にして”超人”です。果たして、このような人間は本当に存在するのか? 実は存在するようです。日本には存在していながら”戸籍”に登録されていないために存在していない事になっている人達がいるそうです。そして、彼らは”記紀神話”においては”八咫烏(やたがらす)”や”金鵄(きんし)”として書かれ、”民話”では”天狗”や”鬼”と呼ばれ、”超人”的な力を持つ存在として描かれています。おそらく、そういった”超人的資質”及び”預言者的資質”を本当の意味で受け継いだ人達なのでしょう。そういった人達は一体誰なのか? それは、”イエス・キリスト12使徒”の直系の子孫であり、”天皇家”及び”日本国”を陰で動かす人達です。彼らを飛鳥昭雄氏は便宜上そのままズバリ”八咫烏(やたがらす)”と呼んでおり、その内の更に”頂点”にいる3名が”裏天皇”と呼ばれる人達で、彼らはもしかするとイエス・キリスト本人の血を引いてるかもしれないんです。おそらく、”真の天皇”とは彼らの内のいずれかなのではないでしょうか。そして、イエス・キリストになぞられるような”預言者”にして”超人”の資質を持った聖徳太子は、おそらく”裏天皇”の子だったのではないでしょうか。言うなれば、聖徳太子は”裏親王”だったのではないでしょうか。 そのため、本来表に出てはいけない存在だった太子は、「日本書紀」では表向きな”天皇”の皇子として描かれ、その”モデル”として蘇我馬子の子である蘇我蝦夷が用いられたのではないでしょうか。そして、「日本書紀」の中の聖徳太子の時代に蘇我蝦夷が封印された”真の理由”は、おそらく聖徳太子の”死”と関係があるのではないでしょうか。太子の”人生”が”生誕”から”晩年”までイエスそっくりである事を考えれば、おそらくその”死”もそっくりだった、とは考えられないでしょうか? かねてから聖徳太子は蘇我馬子に殺された、という説がありましたが、そうなると蘇我氏を”悪玉”に仕立て上げた「日本書紀」の編纂者がこの事実を書かなかったのが不自然です。つまり、聖徳太子を殺したのは蘇我馬子ではない、という事です。では、誰が殺したのか? ズバリ、ここで存在を封印された蘇我蝦夷において他にいないでしょう。そして、聖徳太子の”死の真相”を闇に葬るために”記紀編纂者”は蘇我蝦夷を聖徳太子と”同化”させてしまったのではないでしょうか。更には、それによって太子と中臣鎌足が”親子関係”であった事も封印し、鎌足が蘇我氏を滅ぼした”真の理由”が父・聖徳太子の”仇討ち”だった事を隠すためでもあったのでしょう。本来、”預言者”の資質を持っていたはずの鎌足も、この”殺人”を犯した事によって”預言者”の資質を失ったのではないでしょうか。しかし、それと引き換えに彼は”藤原姓”を賜り表の”政治家”として平安時代後半まで”摂政”もしくは”関白”として彼の子孫が代々受け継いでいったのでしょう。だからこそ、中には増徴して”天罰”を受けたものも存在します。しかし、”平安京遷都”以降は藤原氏は”実権”は握っても恵美押勝(藤原仲麻呂)のような”横暴”は振るわなくなったのではないでしょうか。 こうして聖徳太子の”実像”を見てみると、彼は本来は”裏側”の人間であって、おそらく”女帝”である推古天皇を裏側でサポートした”預言者”だったのではないでしょうか。その為に、表向きな推古女帝の”摂政”だった蘇我蝦夷と対立し、そして太子は蝦夷に殺された、というのが真相ではないかと思います。 |
01.08.13:51
飛鳥昭雄氏の著書「「未然記」が解き明かす「真・日本史」」の中で、飛鳥氏は「未然記」の中に”大化の改新”の予言があり、そしてその中で中臣鎌足の”預言者的資質”が記され、それによって中臣鎌足は聖徳太子の子であり、蘇我入鹿に殺されたとされる山背大兄王と”同一人物”ではないか?としています。 その内容を挙げれば、①「未然記」には、蘇我蝦夷・入鹿親子が山背大兄王を殺そうとした事は書かれていても、「殺される。」とは書かれていない事(「未然記」は”預言書”であり、”警告”の意味もあった事から、太子の子である山背大兄王も当然知っていたはずであり、故に”太子一族”は滅亡を免れたのではないか?と思われます。)。②「未然記」には、鎌足が幼少の頃”夢殿(斑鳩宮)”に出入りしていた、という記述があり、太子の”別邸”である”夢殿(斑鳩宮)”に赤の他人の鎌足が出入りするのは不自然である事。③中臣鎌足の生まれ年が”西暦614年”と明確であるのに対し、山背大兄王の生まれ年が不明確である事。④鎌足が12歳の時太子の預言書「未然記」の内容を解読した事から、推古天皇から100歳の人の知恵よりも優れた”聖人”と呼ばれた事(太子と同じ”預言者”の資質があった事)。⑤鎌足の前に”金粟如来”という老人が現れ、「あなたは無垢菩薩です。」と告げた事(これは鎌足が聖徳太子と同じ”聖人”でなければ、”如来=神=天照大神?”が現れるはずがないため。)。⑤山背大兄王の”墓”がないばかりか、聖徳太子の建立したとされる”法隆寺”でも山背大兄王が祀られていない事。しかし、鎌足には”霊廟”が存在する事。⑥推古天皇は、鎌足に言った事と同じように、山背大兄王にも「あなたは若くて立派な行いをするが、貴方に望みが起きたとしても決して人々には言ってはいけません。」と言っている事。・・・等であり、これによって飛鳥氏は”中臣鎌足=山背大兄王”であるとし、故に”中臣鎌足=聖徳太子の息子”としています。 となると、「聖徳太子の正体②」の方では、聖徳太子の”モデル”として蘇我馬子の子で蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷を取り上げましたが、その”モデル”とされる人物がもう1人いた、という事になるでしょう。というより、こちらこそ”聖徳太子の実体”と見て間違いないと思います。ただし、それは中臣鎌足の父とされる中臣御食子ではどうもなさそうです。あとは、厩戸皇子の弟とされる来目皇子も聖徳太子の”モデル”ではないか?とする説もあるようですが、おそらくこの人物は”モデル”というよりも用命天皇の親王、という立場だけ拝借しただけだと考えていいと思います。そうなると、聖徳太子の”真の正体”は一体誰なのか?という事になりますが、それは次章で検証する事にして、いずれにしてもこうして見ると”山背大兄王暗殺事件”の真相が浮かび上がってくると思うんですよ。つまり、山背大兄王の父である”聖徳太子”を蘇我蝦夷に置き換えた場合、その息子である”山背大兄王”は蘇我入鹿、という事になります。で、一方ここで言う”蘇我入鹿”ですが、彼の父の蝦夷を”聖徳太子”に置き換えれば、その息子の山背大兄王は”蘇我入鹿”に置き換える事ができるのです。要するに、この事件における”山背大兄王”と”蘇我入鹿”を入れ替える事ができる、という事になります。そして、”山背大兄王=中臣鎌足”であるとすれば、この事件の”真相”は中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害した事件となり、すなわち”蘇我入鹿殺害事件(乙巳の変)”と同じ事件だった!という事になるんですよ。ただ、実際の”乙巳の変”は中臣鎌足の他に中大兄皇子も”首謀者”になっています。しかし、ここでは中臣鎌足1人になってしまいます。おそらくこれには何かしらの”意味”があるのではないでしょうか。それは、”乙巳の変”は政権略奪のための”クーデター”というだけじゃなくて”仇討ち”の意味もあったのではないか?という事です。要するに、彼の”真の父”である”聖徳太子”なる人物は蘇我氏に殺された、という事ではないでしょうか。 という訳で、次章では聖徳太子の”死”の真相、そして聖徳太子の”正体”について書きたいと思います。 |
01.08.11:57
「日本書紀」の記述や、”肖像画”の作成年月のズレから”実在性”が疑われるようになった聖徳太子は実は”架空の人物”であり、その”実体”は”大化の改新”によって権力を握る事になる中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足によって殺害された蘇我入鹿ではないか?という説がかねてからありました。それを裏付けるものとしては、①奈良県橿原市にある”入鹿神社(文字通り蘇我入鹿を祭る神社)”を境内の中に設置している普賢寺の周囲の石碑の中に”聖徳太子”の文字が刻まれ、この神社に聖徳太子が祀られている可能性がある事。②聖徳太子が建立したとされる法隆寺最大の祭り、”聖霊会(しょうりょうえ)”のクライマックスで行われる舞楽の主役、”蘇莫者(そまくさ)”が蘇我入鹿を彷彿している事。等が挙げられ、その事から”聖徳太子=蘇我入鹿説”に発展していったのだと思われます。ただ、問題なのは両者が時代的には”ズレ”がある事。それらを考えるといくら「日本書紀」にある”仕掛け”が施されているとしても、一世代違う人物を”同一人物”に見立てるのはどうも無理があるんです。むしろ、入鹿と同一人物だったのは太子の息子である山背大兄王である可能性の方が高いのです。ちなみに、僕は”蘇我入鹿殺害事件(乙巳の変)”と”山背大兄王殺害事件”は”同一事件”だと考えているんです(この事については次章で書きたいと思います。)。 となると、聖徳太子の”モデル”になった人物は蘇我入鹿の”父”にして、蘇我馬子の”子”とすれば辻褄が合うんです。そして、「日本書紀」における聖徳太子の時代には本来存在していたはずなのに、その”記述”が一切記されていない人物。それは蘇我蝦夷(毛人)なんです! おそらく、彼は「日本書紀」の中では”聖徳太子”と同化された可能性があると思うんですよ。そして、本来聖徳太子が行ったとされる”17条の憲法”や”冠位十二階”の制定もどうやら蘇我馬子も関わっていた可能性が今日の研究によって浮かんできた模様。そうなると、馬子と蝦夷の親子によってこの”制度”が作られていったとしてもおかしくはないですね。しかし、そうなると何故蝦夷が”聖徳太子”として”聖人化”されたのか?という部分でも”疑問”が生じるんです。蝦夷が実はそれだけ凄い人物だったのか? それとも、”太子=入鹿説”で見られるように”祟り”を恐れたのか? しかし、そうであれば同時代の山背大兄王を”聖徳太子”にする事もできたはず! 実は、”聖徳太子”は複数の人間を”モデル”にしていたのではないか?とする説もあるんですよ。おそらくその人物が”鍵”を握っている事は間違いないでしょう。 そして、最近では”蘇我氏=正義”、”中大兄皇子+中臣鎌足=悪”とする見方が強まっているようですが、それでも従来通り”蘇我氏=悪”、”中大兄皇子+中臣鎌足=正義”と見る人もいるという事です。”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄氏がその1人で、彼は聖徳太子が記したとされる「未然記」には、聖徳太子と中臣鎌足が”親子”である可能性を示唆した部分を指摘しています。そして、いずれも”預言者”の資質を持っている、と指摘しています。更には、中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼす”要因”の一つとして聖徳太子の”仇討ち”という意味合いを持っていたとしたら? 次章では聖徳太子と中臣鎌足の関係について書きたいと思います。 |
01.08.08:09
最近の研究によって、”肖像画”が死後100年以上後に作られた事が発覚し、その”実在性”が否定されつつある聖徳太子。そして、現在学校の”教科書”にも”聖徳太子”ではなく”厩戸皇子”と記載されるような事態になってしまってます。そして、その”実在性”を疑問視する最大の要因が聖徳太子の”超人的”な逸話なのです。 その”逸話”の例を挙げてみると、①太子誕生の直前、穴穂部間人皇女の目の前に、キラキラと金色に光り輝く僧侶が現れ、「われに救世の願あり。しばらく皇女の胎に宿る」と告げると皇女の口の中に飛び込み、8か月の時点で胎児の声が外に聞こえ、敏達天皇元年(572)の正月元日皇女は宮中を見回って厩戸にきたところで太子が産み落とされた事から”厩戸皇子”と名づけられた事。②太子が5歳の時に、敏達天皇の后、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が後に天皇(推古天皇)になる事を預言した事。③6歳の時、百済より経論・律師・禅師が派遣されてきた際、太子は「わたしはかつて漢土(もろこし)の衡山(こうざん)に住んで、仏の修行を積み重ねてきました。だから経をみたいのです」と前世を語り、経論の閲覧を申し出た事。④13歳の時、蘇我馬子が百済へ派遣した鹿深臣(かふかのおみ)から弥勒菩薩を貰いうけ、仏殿をもうけたが、太子が仏塔に「仏舎利が無ければ倒れる」と予言したため、馬子は祈念し続けたするとある時、仏舎利が突然と現れ、仏舎利は強靱さゆえに鉄で打っても壊れず、ますます輝きを増していった事。⑤蘇我馬子と物部守屋らによる”合戦”を予言。そして、その”合戦”が起こると、太子は白膠(ぬりで)の木を斬って、四天王の像を作り、頭頂の髪にくくりつけ、もしこの戦いに勝ったら、寺院を建てると誓うが、守屋が「物部の布都大明神の矢」と唱え放つと見事太子に命中する。しかし、太子は鎧により無事であり、太子も「これは四天王の矢」と放つと守屋に命中、守屋を失った軍は統制が崩れ、蘇我氏の一方的勝利となった事。⑥崇峻天皇が暗殺される事を予言。⑦推古天皇の”摂政”となった太子は、「一を聞けば十を知り、十を聞けば百を理解した」と伝えられ、高句麗の高僧はこれをみて「これはもことの真人(ひじり)」と感嘆した事、⑧甲斐の国より献上された漆黒の駿馬、”黒駒”に太子が乗ると、空を飛び東の空に消え去った事。⑨41才の時、百済から渡ってきた重度の皮膚病者を救った事。⑩42歳の時、難波から飛鳥へ抜ける竹内街道の整備を行った最中、片岡山に寄り道した際、道端に横たわっていた飢えた乞食に衣を着せかけて詠を送り、斑鳩に戻った太子は使いを片岡山に使いをやったが、既に乞食は息絶えており、太子は嘆き悲しみ、そこに立派な墓を築いた。蘇我馬子が苦情を申し立てると太子は「墓を見よ」と告げ、馬子が墓をみると、遺骸はなく衣服のみが残され香しい匂いのみが漂り、その乞食が禅宗の始祖「達磨大師」(だるまたいし)であったと伝えられている事。・・・等があります。 しかし、これらの”逸話”の多くは、この当時に日本に伝わっていたとされる景教(ネストリウス派キリスト教)におけるイエス・キリストをモチーフとしている可能性が高く、とても”史実”とは思えない現実離れしたエピソードが多い事からも昨今の”聖徳太子不在説”が唱えられるようになったのではないでしょうか。しかし、聖徳太子が仮に”架空の人物”だったとして、このような人物が何故「日本書紀」に描かれたのだろうか? 何故、古代の”正史書”とされた書物の中に”架空の人物”を入れる必要があったのだろうか? もっとも、”記紀”においては”神話部分”においては確かに”架空の人物”と思われる人物は登場します。しかし、聖徳太子は少なくとも”歴史時代”の人物です。それに、”記紀”における”神話部分”もおそらくはそれを裏付ける”史実”が隠されている可能性はあると思われるので、そうなると聖徳太子が”架空の人物”であったとしてもその”モデル”が存在していた可能性が充分考えられるのです。その”モデル”として候補に挙げられるのが、かねてから言われていた蘇我入鹿です。何故なら、蘇我入鹿は”天皇家(中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足)”によって殺され、その”祟り”を恐れて”聖人化”されたのが聖徳太子ではないか、という見方が出来るからです。次章では、聖徳太子と蘇我氏との関係について検証したいと思います。 |
12.31.10:25
現在の日本人、すなわち”大和民族”は人種的には”新モンゴロイド”に分類され、外見上は中国人や朝鮮人とさほど変わりません。しかし、”文化面”、”言語面”では彼らと違って独特のものがあります。確かにこれらの国から伝わってきた”文化”もありますが、その多くはこれらの国とは異なる独特の文化が日本にはあるのです。しかし、実は日本とよく似た”文化”、風習”を持つと思われる国が一つだけ存在します。それは日本から遠く離れた国です。その国とはイスラエルなんです。この事は、実は戦国時代ポルトガルのキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが渡来した時に日本とキリスト教の”共通性”に気付き、その後来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンベルが日本とバビロニアの関係を主張、更に江戸後期に来日したドイツ人医師シーボルトが日本と中央アジアの関係を示唆し、そして、明治時代に入ってスコットランドの貿易商ノーマン・マクラウドによって”日ユ同祖論”が唱えられるようになりました。 その”日ユ同祖論”が示す日本とイスラエルの”共通点”ないし”類似点”は、①古代イスラエルの神殿(特にその原型である移動式の幕屋)と日本の神社の構造が似ている事。②水や塩で清めるという習慣が古代イスラエルにもあった事。③古代ユダヤ人は金髪と青い目を持つ”白人”や、”黒人”ではなく、黒髪・黒目で褐色の人種であった事(もっといってしまえば”モンゴロイド”だった可能性が高いとの事)。④平安京は、ヘブライ語で”エル・シャローム(平安の都)”となり、古代イスラエルの都エルサレムと同じである。ちなみに平安京は天皇の住まう都だが、エルサレムも別名で”ダビデの町”と呼ばれていた事。 ⑤ユダヤ教徒が祈りの際に額に付ける黒い小箱の”ヒラクティリー”と山伏の”兜巾”は非常に類似している事(このような類似性は世界中のどの民族、宗教にも見られず、ただユダヤ教徒と日本の山伏との間にのみ存在するようです)。⑥ユダヤ教の羊の角で作る”ショーファー”と山伏の吹く”ほら貝”の類似性(音色はもとより、用途的にも戦争時での合図として用いられたりしていた部分では共通します。更に、日本では羊の角が入手出来なかったので、似た音の出るほら貝で代用したという説があるとの事)。⑦古代ユダヤの”聖櫃(アーク)”と日本の”神輿(みこし)”が良く似ている事。 ⑧神主の衣服の”房”とイスラエル人の衣服の”房”の共通性。⑨古墳時代の”埴輪”に見られる独特の髪型(みづら)とユダヤ人司教の独特の髪型(ペイオト)の類似性。⑩日本のいくつかの神社で”ダビデの星”や”ソロモンの星”の紋が発見されている事。⑪古代イスラエルやシュメールの遺跡の中に天皇家の”菊の紋”に似た紋章が発見されている事。⑫ヘブライ語の単語の中には日本語の単語に良く似た単語がいくつかあるという事。⑬「古事記」、「日本書紀」における天照大神の「天岩戸隠れ」の場面と、「新約聖書」の「イエス処刑」の場面が酷似している事(それによって飛鳥昭雄氏は天照大神=イエス・キリストとしている)。⑭日本の正月に食べる”餅”とイスラエルの正月に食べる種無しパン”マッツォ”の類似性・・・等が挙げられます。 これらを踏まえて考えると、もし”日本人(大和民族)”が”イスラエル人”の末裔だとしたら、彼らはどのような経緯で日本にやってきたのだろうか? まず、”古代イスラエル王国”は途中で”宗教観”の違いから”北朝イスラエル(ユダ族、ベニヤミン族以外の10支族が主体)”と”南朝ユダ(ユダ族、ベニヤミン族が主体)”に分裂します(”北朝側”が”偶像崇拝”に陥ったのが原因とされる)。そして、”北朝イスラエル”は紀元前712年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、彼らの”奴隷”となるかまたは追放され、”南朝ユダ”はその後アッシリアの”属国”となったが、紀元前597年新バビロニア帝国によって滅ぼされ、彼らは”捕虜”としてバビロニアに連行されます(所謂バビロン捕囚)。やがて、アッシリア帝国は騎馬民族スキタイの度重なる侵攻によって弱体化し、紀元前612年新バビロニア帝国とメディアの侵攻によって滅亡。それによって”奴隷”となった”北朝系イスラエル10支族”は開放され、そのまま騎馬民族スキタイと融合する形で歴史の表舞台から姿を消す事になります。一方の”南朝系ユダヤ人”は、紀元前538年に新バビロニア帝国を滅ぼしたアケメネス朝ペルシアによって開放され、その後ペルシア、マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、ハスモン朝シリア、そしてローマ帝国の”属国”となり、”イエス・キリスト時代”を経て紀元66年の”第一次ユダヤ戦争”まで続く事になります。そして、イエスの処刑後、その門下であり”エルサレム教団”を構成していた12使徒もいつしかエルサレムの地を離れ何処かへ消えてしまいます。 飛鳥昭雄氏は、”北朝系イスラエル10支族”はその後”騎馬民族スキタイ”と融合し、その”主力部隊”が「旧約聖書外伝エズラ記」に書かれている”北の果てアルザル=地球内部の亜空間惑星”へ移動したとし、残りの一部が北アジアを通って朝鮮半島に入り、その後日本に来て”大和朝廷”を築いた、としています。そして、”イエス12使徒”はその後中央アジア付近で”弓月王国(クルジア)”を建国し、やがて中国北部から朝鮮半島へ移住し”、そこで合流したもう一方のイスラエル人”北朝系イスラエル10支族”と共に日本に来た、としています。そこに僕の考えを付け加えるならば、まず、”北朝系イスラエル10支族”は”北回り”だけでなくいくつかの”経路”を通ってきたのではないでしょうか。”北方アジア”でモンゴル系、トルコ系、ツングース系などの”騎馬民族”を構成しながら朝鮮半島に移動した一派、”中央アジア”からその近隣の国家に侵攻しながら東へ移動しやがて中国の”秦”の組み込まれた上で朝鮮半島に移動した一派、”ペルシア”からインド方面に侵攻してチベットを越えて”秦”に入り、その後朝鮮半島へ移動した一派、更にはペルシア湾から船に乗って”海のシルクロード”を通ってインド、中国沿岸部を通って朝鮮半島に入った一派、等がいて、一方の”南朝系ユダヤ人”の方も”イエス12使徒”以前にも”バビロン捕囚”から開放された後、中東近辺でバクトリア、パルティア等の”国家”を作りそのいずれかがやがて中国を支配する”秦”となり、あるいは”イエス12使徒”と合流して”弓月王国(クルジア)”となり、”秦”から脱出して朝鮮半島に移動した”先方隊”と合流した、とも考えられるのではないでしょうか。そして、いずれにしても後に日本を支配する”秦人=大和民族”は朝鮮半島に結集して”辰韓(秦韓)”と”弁韓”を作り、その内の”辰韓”が”新羅”となってそのまま朝鮮半島に残り、”弁韓”が”伽耶”となって12個の小国を作り、彼らが日本を統治した後、それらの”小国”はそのまま”古代豪族”へとつながっていったのではないでしょうか。 こうした経緯によって、朝鮮半島から日本に渡ってきた”大和民族”は、”イスラエル10支族ガド族”の王族を”天皇家”とし(根拠としては、①天皇の事を”帝(みかど)”と呼ぶがこれは”ミ(御、あるいはヘブライ語で言う”~出身の”という意味)・ガド”から来ている可能性がある事、②ガド族の紋章が天皇家の紋章の一つ”五七の桐紋”と酷似する点、③”前方後円墳”のモデルが、ガド族が所持していたとされるイスラエル三種の神器の一つ”マナの壷”である可能性が高い事、等が揚げられる)、”イエス12使徒=弓月王国”の王族が”裏天皇家”を構成する”八咫烏”として”天皇家”及び”朝廷”を裏で動かし、その他の”イスラエル10支族”や”イエス12使徒”の直系が”皇族”あるいは”古代豪族→貴族(公家)”となり、”イエス12使徒”の傍系が”殖産豪族”としての秦氏で、彼らが後に”商人”、”技術者(職人)”、”学者”、”医師”、”芸能者”となり、”イスラエル10支族”の内”騎馬民族スキタイ”の血を強く受け継ぐ支族が後に”武士”を構成したのではないでしょうか。このようにして、真の意味での”日本民族”が形成され、真の意味での”日本の歴史”が始まった、という事になるのでしょう。 |